ドラセルオードの怪人
僕はチームの皆と歩いてきたダンジョンの通路を、独り、駆けていた。
僕の目には涙がにじみ、鼻からも汁が垂れている。
全力で駆けているから足はところどころでもつれそうになり、忙しく空気を出し入れしている肺は、今にも破れてしまいそうだ。
心臓の鼓動は、もう限界だと僕に訴えるかのようにやかましく鳴っている。
(仕方がない、だって、仕方がないじゃあないか‼︎)
ルーシアの声が頭の中で響いている。あの、僕に助けを求める悲痛な叫び声が。
追手の気配は感じられない。振り切れたのだろうか?そもそも追って来ていないのか?
いや、そんなことは関係ない。とにかく僕は必死に駆け続ける。
(僕に何ができたっていうんだよ‼︎あの状況で僕に何が‼︎……)
ダンジョンの入り口からあの部屋まで、こんなに長かっただろうか?
もう結構長い事走っている気がするのに、ダンジョンの入り口らしきものは見えてこない。
いよいよ限界を迎えた僕の足は、少しづつ失速するとついには止まってしまった。
するとまるでそれを見計らったかのように、いきなり天井の水晶の灯りがフッと消えた。
そんな……、もしかして角鬼たちが消したのだろうか?
真っ暗になった通路に僕の呼吸音が響いている。何も見えない。
そのまま僕は通路の壁にもたれかかってゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す。少しづつ整っていく呼吸に合わせるかのように、頭の中で鳴っているルーシアの声がだんだんと大きくなっていく。
「ぐ、ぐううぅ……」
僕は鼻をすすり、目をつぶって嗚咽し始めた。
仕方なかった、仕方なかったんだ、そう自分に言い聞かせながらも、一方で僕は胸の中に生まれたある感情が少しづつ大きく、はっきりとした形を持ち始めている事に気付いている。
それは「命が助かった」という喜びの感情だった。
……信じられない。
こんな自分が許せない。僕はなんて最低なヤツなんだ‼︎
ルーシアのあの声が、耳にこびりついて離れない。
(見殺しにした‼︎見殺しにした‼︎助けてあげられなかった‼︎)
こうして立ち止まっていても、キドルやセリエの気配が近付いて来る様子は無い。やはり生き残ったのは僕一人のようだ。
「ごめん……、ごめんよ…………みんな……」
ガクガクと膝を震わせていた僕の足から力が抜けて、その場にぺたんと跪く。
「ごめん…………ごめn…………」
そうして小さくなった僕は自己嫌悪と後悔の渦に飲み込まれていく……するとそんな僕の耳に、何かの音が遠くから聞こえたような気がした。
「⁉︎」
まさか角鬼たちが追いついて来た?
それとも誰か生きていた?
僕の頭にそんな考えが浮かんだが、しかしよくよく聞くと足音だと思われるその音は、ダンジョンの入り口に向かう方向から聞こえてくる。
あの部屋に続く方向ではない。
それに走るというよりはゆっくりと歩いているような音の響きだ。
何者かが僕らに続いてダンジョンに入って来たのだろうか?
不思議に思って顔をあげた僕の視界に、しばらくすると足音の主が姿を現した。
足音の主は人間?だと思われる影だった。
確信が持てないのは、その影の顔が見えないからだ。
その人間と思われる影は、腰に装着した魔煌ランタンの明かりで闇の中に浮かび上がり、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
(もしかして、これが噂に聞く“キラー”なのか?)
不意にその考えが浮かんで、僕の背筋を冷たいものが通過していく。
“キラー”と呼ばれるそいつらは主に組合の管理が緩いダンジョン内に出没し、脅威生物ではなく冒険者を襲って身ぐるみ剥がして奪っていく。その正体は人間の盗賊や無法者たちだ。
運が良ければ命は見逃してもらえる事もあるらしいが、それは完全にレアケースであって、遭遇すればまず間違いなく被害者は殺される。
“キラー”たちは例外なく数人でチームを組んで、今の僕のように仲間を失って敗走する冒険者チームや、仲間とはぐれて孤立してしまった冒険者、つまり弱っている相手を狙うからだ。
ヤツらの存在は冒険者にとっても、組合にとっても悩みの種になっていた。
しかし、僕の目の前のその影はどう見ても一人でこちらに歩いて来る。という事は“キラー”ではないのだろうか?
しかし例え“キラー”ではないとしても、たった一人でダンジョンに潜るなんて話、聞いた事がない。危険すぎる。
いずれにせよ、まともな相手でない事は明白だった。
僕は遠ざかって行ったと思った「死の予感」がまた舞い戻って来たのを感じ始める。
気付けば僕のすぐそばまで、その影は迫っていた。魔煌ランタンの灯りに照らされた、その全身を見る事ができる距離だ。
充分に見える距離まで近付いたそいつは、すでに影ではなくなっていた。跪いた僕の視点からだと、見上げるような大男だ。(たぶん男で間違いないだろう)
その大男は全身を無骨な革鎧、バシネット、チェインメイル、さらに鎧下に着込んだ堅牢そうな縫製の服で覆っていた。
肌が露出している部分が全く無い。ここまでの完全装備をしている冒険者なんて、僕は組合の中でも見かけた記憶が無い。
何より僕の恐怖を加速させたのは、その大男の頭部だった。
大男が被っているバシネットの、バイザーも兼ねていると思われる面当ては、のっぺりとした仮面のような、不気味な意匠で作られている。
無骨な完全装備と無表情な面当ての奥にいるのは、果たして本当に人間なのだろうか?
近くで見ると改めて良く分かるが、体もそうそう街中では見かけないような大きさだ。僕よりも頭一つぶん以上は背が高いんじゃないだろうか?
その大男は僕の存在に気付いたのか、足を止めてこちらを見た。
「ヒィッ‼︎…………」
思わず悲鳴をあげてしまった僕を、大男はじっと見ている。
そのまま僕と大男はお互い視線を外さないまま固まった。
時間だけがジリジリと通り過ぎていく。
大男が一言も喋らない事が、何よりも僕の恐怖を煽っていった。
「い、命ばかりはお助けを……」
沈黙に耐えられない僕は命乞いをしようと口を開く。
するとその時、あの部屋に続く方向から、角鬼たちの鳴き声が聞こえてきた。
ああ、やっぱり追って来ていたんだ。
ルーシアを見捨てた時の恐怖が甦ってきて、この大男に感じている恐怖と混ざり合い、僕は気が狂いそうになる。
すると角鬼たちの鳴き声に反応したのであろう大男は、何を思ったのか僕から視線を外して声がした方向へ向き直ると、腰に提げていたハンマーのような物を手に取った。おそらく武器として使っているのだろう。
そのハンマーのような物の頭の部分は、片方がハンマー、片方がツルハシのような形状で、大工が釘打ちに使うような物よりも遥かに大きい。全体の長さもちょっとした剣くらいある。
大男はそのまま角鬼たちの鳴き声がする方へ、ゆっくりと歩き始めた。
(え⁉︎嘘だろ⁉︎まさか戦うつもりなのか?……たった一人で⁉︎)
この光の無い真っ暗な通路で、魔煌ランタンの明かりだけを頼りに、どれだけ数が居るかも分からない角鬼と戦おうとするなんて、正気の沙汰じゃない。やはり狂人の類いか何かだろうか?
しかしそう思うと同時に、僕の脳裏に一つの考えが疾った。
そうだ‼︎この隙に逃げれば良いんだ‼︎うん、そうと決まれば……
僕は無理矢理足に力を入れて立ち上がり、再びダンジョン入り口に向かって走り出す。
幸い大男は僕の動きには反応しないようだ。あの大男が何者かは分からないが、時間稼ぎには間違い無くなってくれるだろう。
するとそんなに走らないうちに、外の光が差し込むダンジョンの入り口、僕にとっての出口が見えて来た。
助かった‼︎嬉しさの余り、僕の視界がぼやけて目から涙がこぼれ落ちる。
そのタイミングで僕の背中の遠く向こう、通路の奥から、角鬼のものとはとても思えない、野獣のような咆哮が聞こえて来た。