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祈り


 悪夢から目覚めたヒャクリキは、ベッドの上で上体を起こして荒い呼吸を繰り返していた。


 視界に映っているのは見慣れた自室。耳にはゼイゼイと、荒い自分の呼吸音が聞こえて来る。


 部屋の中には明かり取りの小さな窓から朝の光が差し込んでいる。急に跳ね起きたせいだろう、舞い上がったほこりがふわふわと漂いながら、光の帯に照らされてチラチラと力なく輝いていた。


 緩慢に動くほこりが示す部屋の空気の流れの中に、ヒャクリキの呼吸音だけが響いている。


 悪夢から逃れたヒャクリキの意識は徐々に現実へと定着を始めている。

 それに合わせるかのように、悪夢の続きとばかりに早鐘はやがねのように鳴り続けていた心臓の鼓動は、呼吸音とともに少しずつ落ち着きを取り戻していった。


(またこの夢か……)


 心の中でポツリと呟く。

 気づけばヒャクリキの肌には汗がびっしりと噴き出しており、着ている粗末な麻のシャツは背中を中心にぐっしょりと寝汗で濡れていた。


 前髪が、汗で額にへばりついている。彼の肩あたりまで伸ばした黒い髪は、全体的に汗を吸ってしっとりとまとまっている。


 ヒャクリキはしばらくその体勢で固まっていたが、汗を吸ってまとわりつくシャツを不快に感じ始めると、それを脱ごうとベッドから起き出した。


 かめに貯めてあった水をタライに移し、手拭てぬぐいを濡らして軽く絞るとシャツを脱いだ上半身を拭き始める。


 窓から差し込む光がヒャクリキの体を部分的に照らしていく。


 その褐色の肌の大きな体には、高い密度を感じさせる筋肉が隆々(りゅうりゅう)と盛り上がっていた。


 富裕層の邸宅に飾られている美術品の彫刻を彷彿ほうふつとさせる、その機能美の塊のような肉体には、あえてその美的価値を損なわせようとするかのように無数の傷痕きずあとがそこかしこに走っていた。

 そしてそれをさらに上から飾るかのように、ところどころに治りかけの新しい傷が痛々しく付けられている。褐色の肌色から暗い紫色に変色したアザも、体のあちこちに浮かんでいた。


 体をくために動かしている腕は丸太のように太く、ボコボコと筋肉が盛り上がった広い背中は、手が届きにくい背骨の上側のあたりをくことが難しそうだ。

 手拭いを握るその手は大きく、ゴツゴツと骨張っている。


 良く見れば彼の背中側の肩と肩を結ぶ線の真ん中、うなじの下のほうに何かの紋をかたどった火傷のあとのようなものが見える。

 それは奴隷として入れられた焼印のあとだった。



 子供の頃に奴隷としてこの地に連れて来られたヒャクリキは、すでに故郷の言葉の大半を忘れてしまっていた。


 しかしその一方で、この国の人々がマンブサイジと呼ぶ彼の故郷、その地に生きた先祖たちが脈々と伝えてきた強靭な肉体を、戦士の誇りと神への信仰とともに、彼はしっかりと受け継いでいたのであった。



 服を着替えると、ヒャクリキは部屋のすみにある暖炉の前にしゃがみ込む。


 前の住人は当たり前に暖炉として使っていたのであろうが、彼はそれを祭壇として使っていた。



 彼が信仰する神は戦争と火を司る闘神ザラスだ。


 ザラスに祈りを捧げる時には火を起こさなければいけない。

 そうしなければ気難しい彼の神は機嫌を損ねて、捧げ物も祈りも受け取ってくれないと教わったからだ。

 専用の祭壇を用意できない彼は、仕方なく火を使える暖炉を祭壇に仕立てたのであった。



 まずは発火石はっかいしを打ち付けて飛び散る火花でおがくずに火を着け、ある程度火に勢いが出たら雑木を細かく割った薪にその火を移してさらに大きな炎にしていく。


 ヒャクリキはしばらく炎を眺めてその勢いが安定したのを確認すると、ひざまずいた体勢になりうやうやしく頭を垂れて祈り始める。


 パチパチと音を立てながら揺らめく炎、その奥に安置された彼が手彫りした闘神の像に向かって。



 これは彼の日課、朝の祈祷きとうだ。


 捧げ物を用意できないのが心苦しいが、体を洗いたくても浴場へ通う事すらできずに行水ぎょうずいで済ましているような懐具合では仕方がない、ザラスもそこはお分かりになるはずだ、と彼は祈りに集中する。


 一通りの祈りを済ませたヒャクリキは、これで今日一日の加護を得られるだろうと小さく安堵し、静かに灰をかけて火を消した後、のそのそと立ち上がる。



 仕事に行かなければ。

 憂鬱で面倒な事この上ないが、食べていくためには仕方の無い事だ。

 何より今日は週に一度の給金日だった。


 給金が出る直前なので、朝食として食べる物すらないのが現状だった。

 そんな家に居ても仕方がない。

 まだ少し時間は早いが、彼は支度したくをして家を出ることにした。


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