戦士ヒャクリキ
割り潰されて凄惨な形に変化した男の頭部から、ゆっくりとウォーハンマーの鎚頭を、引き抜くようにして持ち上げる。
ところどころ乾ききった血と肉片がこびり付いた鎚頭には、男の血と脳漿と毛髪が、上塗りされるかのようにして付着している。
ヒャクリキはほんの少しの時間、動かなくなった男を眺めていたが、ふと気付いたかのようにゆっくりと、男に襲われていた少女へと向き直った。
ぼんやりとした視界の中に、朧げな輪郭の少女が映っている。
ヒャクリキは不思議だった。
なぜ、自分はこの少女を助けたのだろうか?
普段の自分であれば、助けを求める声が聞こえても確実に無視したはずだ。
夜が明けようとする薄闇の中、ヒャクリキはドラセルオードの街に辿り着いた。
ダンジョンの脱出、衛兵の警戒を掻い潜りながらの逃走、“非人窟”への侵入と、どれも首尾良く事が運んだが、無視できない問題がひとつ、ヒャクリキを襲っていた。
それはダンジョンを脱出するあたりから感じ始めた、深刻な疲労感である。
ザラスに与えられた“奇跡”によって一切感じなかった疲労感が、じわじわとヒャクリキの体を覆い、それはどんどん膨らむように大きくなり続けていた。
“非人窟”に戻って来た頃には文字通りフラフラの状態で、全ての関節に軋むような痛みを感じる体と、ぼうっとして意識が飛びそうになる頭に、何度も喝を入れながら何とか足を前に進めている。
そんな状態に、ヒャクリキはなっていた。
ヒャクリキはやはり不思議だった。
そんな状態でありながら、この少女の声を聞いた途端、自分は無意識に駆け出していた。
何故だろう?
自分はまさに疲労困憊の状態だったというのに。
そんな体力が、一体どこに残っていたのだろうか?
声の発生源であるらしき廃屋に飛び込むと、そこには“非人窟”の住人と思われる男と、その男に襲われている少女が居た。
その光景を見た瞬間、ヒャクリキの体はこれまた無意識のうちに動き、気付けば男を少女から引き剥がして擦り潰していた。
不思議だ。
やはり不思議だ。
ヒャクリキには、自身の行動が理解できない。
別に、ヒャクリキは男が少女を無理矢理に犯そうとしていた事に対して、義憤の念に駆られたわけでは無い。
ヒャクリキがかつて傭兵稼業で口に糊していた頃に、襲撃した村々で行っていた悪行の数々を思えば、そんな資格が有るなどとはとても言えない。
男の行為に対して憤りを感じる筋合いなど、ヒャクリキには存在しなかった。
ならば何故?
何故、自分はこの少女を助けたのだろうか?
何故、無視しなかったのだろうか?
何故、助けようなどと思ったのだろう?
不思議に思うと同時に、ヒャクリキの中に何かが引っ掛かるような、奇妙な感覚があった。
少女は何とも変わった見た目をしている。腰まで伸ばした髪は白く、肌もまるで冬の雪を思わせる白さだ。尻餅を突いているような状態で地面に座る彼女の、ヒャクリキを見上げる顔に付いている二つの目、その瞳は、燃えるような赤色に輝いている。
(俺は……この娘を……どこかで……。どこかで、見た事があるような……?)
この少女を見るのは初めてでは無い。
初めてであるような気がしない。
ヒャクリキはそんな、奇妙な既視感に捉われていた。
少女の表情にも違和感を感じた。ヒャクリキを見ている少女の顔からは、どことなく呆けたような、締まりの無い、虚ろな感じを受けるのだ。
いきなりヒャクリキの意識が一瞬、飛びそうになる。
少女を助ける事で興奮状態、覚醒状態にあった意識が、再び疲労感に押し潰され始めたようだった。
(いかん、こんな所で時間を潰してはいられない。とにかく今は家に帰らないと)
ヒャクリキが擦り潰した男と同じような人種だと、少女に誤解されては困る。大声でも上げられたら厄介だ。
そう思ったヒャクリキはとりあえず少女を助け起こすため、彼女に向かって手を差し出した。
「立てるか?どこか怪我してないか?」
ぶっきら棒な口調で少女に問いかける。
やはり不思議だった。
自分はこんな、所謂“いかにも紳士的な振舞い”をするような人間では無い。
何故、こんな事をしているのだろう?
少女は差し出されたヒャクリキの手を両手で掴むと、両足で踏ん張って立ち上がろうとする。その動作にもヒャクリキは違和感を覚えた。
何と言えば良いのか、動作が幼い。少女の歳の頃はどう見ても13〜15歳あたりなのだが、まるで5歳くらいの子供のような動きだ。
体の使い方が未熟と言うか、なかなかスムーズに立ち上がれない少女の様子を見て、思わずヒャクリキは軽い力で少女を引っ張り、立ち上がるのを助けてやった。
少女は地面に座っていた時も助け起こして立ち上がってからも、そのどうにも虚ろな、焦点の定まらないような瞳でヒャクリキをじっと見つめている。
ヒャクリキと少女とでは大きく身長差が有るため、少女はヒャクリキを見上げ、ヒャクリキは少女を見下ろしている状態だ。
そのまましばらく、赤い瞳を怪しく輝かせながら少女はヒャクリキを見つめていたが、不意に何かに気が付いたかのように、おもむろに口を開く。
「たすけてくれて、ありがとう! わたしの……わたしの“きし”さま!」
その、どうにも舌っ足らずな口調を聞いて、ヒャクリキはようやく少女に感じた違和感の正体に気付いた。
(白痴か……なるほどな)
少女からは、見た目通りの年頃の娘なら当然備えているはずの、色々なものが抜け落ちてしまっているようだった。
彼女はその外見、見た目ほどには、精神の成長が追い付いていないのだ。
その証拠と言っては何だが、つい先ほどあんな目にあったというのに、ヒャクリキを警戒している様子が、全くと言って良いほど見受けられない。
この世界に嫌というほど存在する残酷な悪意を知らない、それに触れていない、無垢な幼子でもなければ、こんな態度ではいられないはずだ。
いや、小さな子供であっても、怯えるぐらいはしそうなものだが。
彼女の表情が無邪気な笑顔へと変化したのを見て、ヒャクリキの心の中に、ほんの僅かではあるが同情と憐憫の感情が、ちらりと顔を覗かせる。
(……わたしの“きし”さま?……“きし”?…………“騎士”の事か?)
少女の言葉を頭の中で反芻する。
少女はヒャクリキを見つめて“騎士”だと言った。
それだけではなく、“わたしの”、とも。
(ああ、なるほど。そういう事か)
少女の言葉に合点がいった。
少女はどうやら子供が寝る時に親や乳母から聞かされるような物語を、
“騎士道精神的”、とか言うヒャクリキには理解不能な思想で飾られた、それこそ傭兵稼業の経験者であるヒャクリキからすれば「ちゃんちゃらおかしい」としか言いようの無い寝物語を、
今現在の、自身が置かれた状況と重ね合わせているらしい。
子供は物語を夢見るものだ。少女はその精神の中で、そういった物語にはお決まりで登場する「騎士に救われる無垢な乙女」と自分自身を、同一化させているのだろう。
男の暴力から少女を守ったヒャクリキは、彼女の中ではさしずめ「乙女を救った高潔な騎士」とでも認識されたに違い無い。
ヒャクリキの口元がシニカルな微笑に歪む。
「俺は……“騎士”なんかじゃ無い。そんな、ご立派なもんじゃあ、決して無い」
少女はヒャクリキの言葉を聞くと、無邪気な笑顔をキョトンとした表情へと変化させる。
その瞬間、頭上から光が降り注いだ。
太陽が登り始めたらしい。完全に夜が明けて、朝が来た。
少女の白髪が、陽光を反射してキラキラと輝く。
朝日に照らされた少女の表情を見たヒャクリキの中に、何とも滑稽な、笑ってしまいそうな、何ともおかしな気分が湧き上がって来る。
そうだ。俺は“騎士”なんかじゃ無い。
俺という人間を、表す言葉が有るとするなら、それは……
そう、それは、間違い無く……
陽光はヒャクリキにも降り注ぎ始めた。
向かい合うヒャクリキと少女が、朝日のカーテンに包まれていく。
目に染み込んでくる光に、ヒャクリキは思わず目を細める。
ヒャクリキはふっ、と鼻から小さく息を吐き出すと、少女を見下ろしたまま、シニカルな微笑を浮かべたままの表情で、やはりぶっきら棒に短く言った。
「俺は、戦士だ」