ルサンチマンの埋み火
夜の闇の中、ドラセルオードの街は中央広場を中心にして、点々と散らばる炎の灯りに街全体のところどころを照らし出されていた。
空高く飛ぶ鳥の俯瞰視点から見下ろす街には、中央広場から外へ、外へと向かうようにして、新たな炎の灯りがポツリ、ポツリと灯っていく。
中央広場で発生した火災は、依然として飛び火するかのように街の中を拡がりつつあり、その拡大の原因はもちろん自然な延焼によるものも有るのだが、その多くは暴徒と化した市民たちの手によるものだった。
市民全体の数からすれば、暴徒の数はごく僅かなものであるはずだが、その僅かな暴徒による暴力と拡大する火災は無法かつ無軌道な牙を剥き、市民全体とドラセルオードの街全体がその秩序と治安において、機能不全と麻痺による深刻な恐慌に侵されていた。
そんなドラセルオードの街の一角には、馬車や騎乗生物を停めておくための停車場がある。
街の中心部が混乱と恐慌のただ中に飲み込まれているまさに今この時に、その停車場から中央広場へと至る一本の大きな路を、一台の馬車が進んでいた。
(暴動の初期対応に躓いたのは、衛兵たち守備隊が冒険者の救助に向かい、街を留守にしてしまっていたからか。まるで計ったかのようなタイミングの悪さだが、チェイミー卿もまさかこんな事態が起きるとは想定していなかっただろうからな……)
ブランドンが街の様子を眺めながらそんな事を考えていると、馬車の車体がひとつ、大きく揺れた。
(しかし、なんという酷い有り様だろうか……。本当にこれは、ドラセルオードの街なのか?これぞまさに、“地獄絵図”だな)
馬車の扉に備え付けられた窓から覗くドラセルオードの街。
至る所に火の手が上がり、市民たちはまるで下水道を走り回る鼠たちのような姿で、混乱と恐慌の中を逃げ惑っていた。
建物に群がって逃げようとしない者たちは、おそらく暴徒たちだろう。文字通りの火事場泥棒と化して、商店、民家の別なく荒らし回っている。
今や市民たちにとっての脅威には、火災の炎の熱と煙だけでなく、暴徒たちがもたらす暴力と破壊とが、追い討ちとしてそこへ加えられていた。
ブランドンはふと思う。
今回の《ドラセルオード・チャンピオンシップ》は、成功したと言えるだろうか?
いや、最後にこれほどの大事件が発生したのだ。客観的に見て、「成功した」とはとても言えないはずだ。
結果としては、“ドラセルオードの怪人”ことヒャクリキを仕留めた“凶刃”が。彼を擁するチーム《エンシェント・ディバウアーズ》が、チャンピオンとして大会を見事に連覇した。そういう事になるだろう。
しかし街がこの有り様では、表彰式を開くのがいつになるのかさえ分からない。
最終的に今大会の評判がどのようなものに落ち着くのか?
それはブランドンには、まったく予想できない事だった。
それにしてもブランドンの視界の中、そこかしこで暴れ回っている暴徒たちの数。その数は異常と言えた。暴徒のほとんどは《ドラセルオード・チャンピオンシップ》での賭けに負け、少なくない財産を失って自暴自棄になった観客たちだと思われるのだが、そうだとしても数が多過ぎる。
予想だにしなかった暴徒の数の多さと、それらがもたらす目に見える破壊の大きさに、ブランドンは驚愕の念を禁じ得ない。
(それにしても……)
「何をノロノロと走っているんだ‼︎ もう少し急げないのか⁉︎ 」
ブランドンは窓から頭を出し、御者台に座る下男に向かって大声で言う。
馬車は先ほどから何度も大きく揺れるのだが、その割にはブランドンが思うほどの距離を進んでいなかった。
「そうは言われても旦那、道に死体がゴロゴロ転がってまして、こんな状況じゃあ下手に馬を走らせると踏んづけて、車体ごと傾いて倒れちまいますぜ!」
下男もまた大声でブランドンに応える。
その言葉でブランドンが窓枠から出した顔を地面に向けると、暴徒の暴力の犠牲になったであろうと思われる哀れな市民の死体が、道のそこかしこ、石畳の上のあちこちに、無造作に投げ出されるようにして転がっていた。
確かにブランドンが所有するこの2頭立ての箱型四輪馬車は、下男の言う通り悪路を走行できるようには設計されていない。
しかしそんな理由で納得できるほど、ブランドンは今の速度に満足してはいなかった。彼は目に飛び込んで来る周囲の状況を見るにつけ、自分の焦りがより大きく膨らんでいくのを自覚していた。
「細心の注意を払って、可能な限り中央広場まで急ぐんだ!こうしている今この時でさえ、暴徒どもの汚い手がマーテルに伸びているかも知れないんだぞ‼︎」
「そんな事言われても、無理なものは無理なんだよなぁ……俺っちだってこんな危ない事してないで、さっさとここから逃げ出してぇよ……」
下男は不満を隠そうともしない怯えた横顔でボヤく。ブランドンは心の中で舌打ちしながらも、そのボヤきを置き去りにするかのようにして馬車の中へ頭を引っ込めた。
中央広場で発生した火災。その異変を察知したブランドンは、すぐさまこの馬車を停めていた停車場に向かって駆け出していた。そして走って停車場まで辿り着き、息を切らせて馬車に乗り込んだ時には、すでに暴徒たちが街を破壊し始めている光景が、ブランドンの目に飛び込んで来ていた。
ブランドンはマーテルを回収するため、運営事務局が入っているあの建物へと、この馬車を急ぎ走らせているのだった。
(今マーテルを失うわけにはいかん……俺にはあの女が必要だ)
ブランドンの脳内にあるのはその思いだった。
(失うには惜しい女だ。あの美しさもあの肢体も、その能力もな……)
ブランドンが認識しているマーテルの価値は、その美貌によってブランドンが「成功者」であると周囲にアピールする事と、愛人として側に置き、奉仕させる事だけには留まらない。
彼女は奴隷時代に骨の髄まで叩き込まれた礼儀作法と生来の頭の回転の速さによって、ブランドンの社交において今や欠かす事のできない存在となっていた。
(あの女の反抗的な態度はそろそろ許容できないものへとなりつつあるが……それに関しては“再教育”を施せば済む)
彼女を横に従えているだけで、今までどれだけ権威に凝り固まった貴族たちの頑なな態度が柔いで来た事だろうか。その成功事例は数え上げればキリが無い。
彼女という存在を失う事によって、どれだけ自身の社交界での立場と振る舞いが難しいものになるのか、実のところブランドンは良く理解していた。
(例え暇を出すにしろ、今はまだその時では無い。いずれにせよ手放すのであれば、それは利用できるだけ利用しつくした、その後の事だ)
仮にマーテルが反抗的であり続けたとしても、自分が名実ともに貴族の仲間入りをしてしまえば、その態度は一変するだろう。そうなった時に用済みとばかりに無慈悲に切り捨てれば、それはそれで良い意趣返しになるはずだ。
(……そうだな、切り捨てる、か……そうだ、そうだぞ!)
“切り捨てる”と言えば、冒険者たちは自分の狙い通りに良く働いてくれたな、と改めてブランドンは思い返す。
なんらかのトラブルによって映像は途切れてしまったが、自分の栄達にとって致命的な障害となる可能性の有ったあの男、ヒャクリキが彼らによって見事に討ち取られたのを、ブランドンはその目で確かに見た。
あの男がなぜ生きていたのかは不明のままだが、あの迷宮の奥で起きた出来事から10年越しに、今度は確実にあの男をブランドンの進む道から排除し、切り捨てる事に成功したのだ。
障害が消えた事で、ブランドンは大きな安堵感を得る事ができた。
そういった意味では、少なくともブランドンにとっては今回の《ドラセルオード・チャンピオンシップ》は成功に終わったと言える。
(そうとも、俺はまだまだ昇ってみせるぞ!障害を排除し、不必要なものは切り捨て、さらなる高みへと登ってみせる‼︎ 俺は神に与えられたこの能力と運命を、決して無駄にはしない。俺が居るべき場所は、さらなる高みに存在するのだ!俺は必ずその場所へと、辿り着いてみせる‼︎)
ブランドンの胸の内で、いつものように野望の炎が沸沸と燃え上がり始めたその時だった。
いきなり馬車が車体を大きく揺らしたかと思うと、どうした事か進むのを止めて、完全に停止してしまった。
「何をやっているんだ!急げと言っただろう、止まっている場合か!」
窓から頭を出したブランドンは、御者台へ向かって声を荒げる。
御者台の下男は、困惑したような顔でブランドンに答えた。
「いえ、旦那、すみません。ただ、目の前に居るあの連中が、立ち止まったまま動こうとしないんでさ。……おぉい、アンタら!早くそこをどいてくれ!こっちは急いでるんだ!」
下男は馬車の前方に顔を向けると、大きな声で警告した。
暴徒たちが馬車を襲うつもりで行手を遮っているのだろうか?ブランドンは湧き上がった警戒心から腰の剣の柄に手をかけると、馬車の扉を音を立てないように開き、その身を車外に乗り出す。
「‼︎⁉︎……ビクター!ビクターじゃないか‼︎ こんな所で何をしているんだ⁉︎」
警戒しながら馬車の前方を見ると、そこには見知った男の姿が有った。
「その声は……ブランドン⁉︎ ブランドンなのか⁉︎ これはありがたい!助けてくれ‼︎ 眼鏡を落としてしまって、何も見えないんだ‼︎」
ビクターはブランドンが居る場所へ顔を向けながら叫ぶように言う。なるほど、顔はこちらに向けているが、目はまるで違う場所を見ているようだ。
「こっちだ!早く俺の馬車に乗り込め!これからマーテルを拾いに行く‼︎」
ビクターは手探りで馬車の車体を探し当てると、それを伝ってブランドンに近付いて来る。何故かもう1人、女がビクターにひっついて来たが、ブランドンは仕方無くその女ごとビクターを車内に引っ張り上げた。
「ああ、助かった!神よ、感謝いたします!」
ビクターは座席に座ると目を閉じて天を仰ぎ、柄にも無い事を言った。
よほど安堵したのであろう事が、その表情から読み取れる。
本来は二人でゆったりと乗る設計になっている車内は、乗客が三人になった事で急に狭苦しくなった。
それに若干の苛立ちを覚えながらも、同時にブランドンはこれほどの混乱の中でビクターに遭遇した己の強運を、頼もしくも感じていた。長年の付き合いであるビクターもまた彼にとって、マーテルと同じく非常に“使える”手駒なのだ。失うのは惜しい。
とは言えブランドンにはまだ、彼にとって本命である「マーテルの回収」という仕事が残っている。
ビクターを拾えたのは運が良かったが、それは同時にタイムロスになってしまっている事も、また事実である。
急がなければ。今はとにかく1秒でも時間が惜しい。
「さあ出発だ!急いでくれよ!マーテルを拾ったら、すぐに街を離れて屋敷に戻るぞ‼︎」
ブランドンが下男に指示を出すと、馬車は目的地へと向かって再び走り出した。
周辺のドラセルオード市街地にまで混乱と狂騒と暴力と破壊が拡大している状況ではあったが、それは発生源となった中央広場も依然として変わらず、むしろあちこちで燃え盛る炎とともにその剣呑さと悲惨さを、より一層増しつつあった。
広場の外周を覆うように並ぶ出店の数々も、破壊され、炎で焼け落ち、そのほとんどが元の形を留める事なく、まさに壊滅的な被害を受けている。
それは「ルナルド商会」の店舗も例外ではなかった。
従業員たちが即席で築いたバリケードの外側には暴徒たちが押し寄せ、どこから現れるのか、増援が加わるようにしてその数は膨れ上がっていく。
「ああぁ!ダメだ!もう駄目だぁ‼︎」
従業員の一人が悲鳴混じりの叫び声を上げる。
暴徒たちの圧力に耐え切れず、バリケードはついに崩壊した。
堤防の決壊を思わせる勢いで、暴徒たちがの店舗内になだれ込んで来る。
その勢いに押し込まれるようにして、ルナルドと従業員たちは店舗の隅へと追いやられ、暴徒たちにぐるりとまわりを取り囲まれてしまった。
暴徒たちは角材やナイフ、はたまた火の着いた松明など、手にした凶器を前へ前へと押し出すようにしてルナルドたちを圧迫する。
結果、ルナルドと従業員たちは押し合うようにして固まり、ついには身動きが取れないほど密着した状態で立ち尽くすしかなくなってしまった。
あっという間に起きた出来事にルナルドは呆気に取られていたが、何が起きたのかを理解すると、その心の内には猛烈な怒りの感情が湧き上がった。
(なあぁぁにをやってンだよ‼︎ 突破されちまったじゃねぇか‼︎ ホンッッッット使えねぇなぁぁぁぁ!コイツらはよぉ‼︎‼︎)
ルナルドは心の中で、不甲斐無い従業員たちを罵った。
しかし彼の怒りの感情はすぐさまその色を変化させ、冷静さを取り戻す。
こうなってしまっては、暴徒たちはその暴力によって店舗に残っている商品を強奪し、このイベントで観客から吸い上げた莫大な売り上げも奪い去っていくだろう。
そうなってしまっては、せっかく見出した次のビジネスチャンスを棒に振る事になってしまう。
ルナルドの頭脳は高速で思考を巡らせ、瞬時に今するべき行動を捻り出した。
「あらぁん、こんなに大勢が集まって、乱暴だわぁん。みなさん、一旦落ち着きましょ?ね?大会が中途半端な形で途切れちゃって、納得が行かないその気持ち、ワタクシ、よぉく分かるわぁん」
普段通りの口調に戻ったルナルドは、内心の怒りと焦りを隠しつつも自身の精神を落ち着けようと、意識してゆっくりとした速さで話す。そうしながらもその目は暴徒たちの反応を窺い、その反応次第で採るべき対応策の選択肢を、頭の中で次々と並べていく。
「そう、だからね、落ち着いて……落ち着いて、お話しましょ。慌てないで、じっくりお話すれば、あなたたちにとっても、ワタクシにとっても、お互いに実りのあるお話ができると思うわぁん」
ルナルドは話しながら、居並ぶ暴徒たちの表情を一つ一つ、つぶさに観察する。
暴徒たちの眼光はギラついているが、ルナルドはそこから彼らの暴力が即座に爆発するわけではなさそうである事を読み取った。
(交渉する余地は……ありそうだ。であれば、こちらの被害が最小限になる事を狙って話を持っていけば…………ようし、腕の見せどころだぜ!)
「そうよ、まずは落ち着いて……落ち着いて考えてみて欲しいんだけどぉ、ね。どういうわけか今は街の衛兵さんたち、守備隊が動いていないみたいだけどぉ……みなさんだって、いつまでもこうして暴れていられるわけじゃないと思うのよねぇ」
暴徒たちは動きを止めてルナルドの話を聞いている。
聞いてもらえるなら、この状況はどうにでも打開できるはず。確信に近い思いを抱きながら、ルナルドは言葉を続ける。
「きっと夜が明けて守備隊が戻ったら、執行官さんたちが仕事を始めるわ。そうなったら、捜査によって今夜暴れていた人たちは犯人として炙り出されて、捕まっちゃうわねぇん。ワタクシは、捕まって監獄送りになる、そんな未来をあなたたちに歩んで欲しくはないわぁん」
目の前の暴徒たちは一時の熱に浮かされているだけだ。まずは自身の行いがどのような不利益をもたらすのか、それを浮き彫りにして、冷静な思考を取り戻させるのだ。
「だから、こうしましょお。ワタクシ、この場に居るみなさんにお一人あたり、もれなく銀貨10枚差し上げるわぁん。だから何も無かった事にして、ワタクシたちを見逃して欲しいのよぉん。もちろん、あとで執行官さんに何か聞かれても、ワタクシは何も見てない、何もされてないって、そう答えるわぁん」
そして不利益に対する利益を分かりやすく提示する。それらを暴徒たちが頭の中の天秤にかけて測り始めたら、あとはもう、こちらのものだ。
「どう?この提案。悪くないでしょお?みなさんだって、いくらあるのか分からない売り上げを奪い合うなんて事になるよりも、その方が余計な手間が無くて良いんじゃないかと思うんだけどぉ……」
このまま交渉を自分のペースに持っていける。そうルナルドが確信したその時だった。
「カッカッカッカッカッカッ!」
目の前の暴徒たちの最前列、その一角から、しわがれた甲高い笑い声が聞こえてきた。
つられてルナルドが声のした方を見ると、初老の男が、何本か歯の抜けた口を大きく開けて、体を揺すりながら笑っている。
「カッカッカッカッカ…………変わっておらん、変わっておらんのぉ、ルナルドよ。儂は嬉しいよ、お前が変わらずそんな人間でいてくれた事が、儂は嬉しい」
どうにもくたびれた身なりの老人だ。ツギハギだらけのひどく粗末な服を身に纏い、その服の隙間に見えるのは皺だらけの荒れた肌。まばらに生えた頭髪はちぢれて煤けて、あちこち野放図に飛び跳ねている。
おそらくは実年齢よりも老けて見えているであろう、ひと目で“非人窟”の住人だと分かる風貌だった。
「気持ちの悪い言葉遣いでその真っ黒な肚の内を覆い隠し、言葉巧みに他人を欺いては己の利益を最優先で追求する。ああ、本当に変わっておらん。それでこそ……それでこそ儂のお前に対する復讐が、復讐の正義が、揺らがずにあってくれるというものよ」
……この老人は一体何を言っているのだろうか?
ルナルドには理解できなかった。何よりルナルドはその老人に、全く見覚えが無いのだ。“復讐”とは、一体どういう事なのだろうか?
「……その様子だと、どうやら儂を覚えてさえおらんようだな。まあ良い、無理も無い。お前によって地獄に堕とされた人間の数は、それこそお前の両手両足その全ての指を使ったとしても、数え切れん事だろうからな」
老人はそう言って、呆れたように小さくため息を吐いた。
同時に、老人の目にはこびり付くかのような昏く澱んだ影が差し、怨嗟の色を滲ませた視線をルナルドに送って来た。
「儂が女房と力を合わせて小さいながらも必死で続けて来た商売を。子供がおらんかった儂らにとってはそれこそ我が子と言っても良かったあの店を。お前は虫けらに対してそうするかのように踏み潰し、跡形も無く踏み躙りおった。その恨み、儂は女房が死んだ後も、一日たりとて忘れた事は無いぞ」
なるほど、どうやら目の前の老人は「ルナルド商会」とビジネス上でバッティングした、かつての商売敵の一人であるらしい。
老人の言う通り小さな商店など、ルナルドと彼の商会は数え切れないほど蹴散らし、叩き潰して来た。商売の世界は弱肉強食だ。義理人情や綺麗事などでは渡って行けないのだ。
「申し訳ないけど、ワタクシも自分の商会を大きくするのに必死だったから、関わった全ての人なんて覚えていられないわぁ。でも、でもねぇ、だからこうして、今こうしてお金をお渡しする事で、多少なりとも罪滅ぼしができたらと思うのよぉん」
そんな逆恨みをしたところで、老人には銅貨一枚の得だってありはしない。
ルナルドは老人を、心の中で憐れんだ。
なんのかんの言ったところで、結局この世でモノを言うのは金なのだ。
この老人だって、もし仮に目の前に金貨の山を積み上げてやれば、そんな恨みや心の痛みなど消し飛んでしまうに決まっている。
具体的にどうするつもりなのか知らないが、“復讐”するなどという馬鹿げた考えも同時に消え失せてしまうだろう。
「……そうだわ!そうよぉん!さっき言った通り、みなさんにはここで当座のお金を差し上げるし、もしそれでもお金に困っているのなら、ワタクシの商会で雇って差し上げるわぁん。どうかしらぁん?とっても建設的で、今だけしかしない提案よぉん」
暴徒たちの変化を見逃すまいと、ルナルドは油断無く彼らの顔を見回す。
彼らの心はルナルドの提案に揺らいでいるように見えた。
これならあと一押しで状況が変わる。
そうルナルドが思った瞬間、あの初老の男が再び口を開いた。
「ふん、馬鹿げとる。儂やここにおるような者らがお前の甘い言葉に乗って、今さら多少の金を手にしたところで何になると言うのか……お前の言う事はまったく馬鹿げとるよ。それにな……気付かんか?お前は今の状況を、おかしいとは思わんのか?」
老人の昏い目には呆れるような、侮蔑するような色が僅かに滲む。
「そもそも、今そこかしこで燃えておる炎じゃが、なぜこんなに早く燃え拡がったと思う?元の火種は小火か何かの“事故”だった、とお前は考えておるかも知れんがな、あれは儂らが……儂の仲間が計画の開始の合図として、意図的に付け火したんじゃよ」
老人の目には怪しい光が燃えている。怒りの炎が放つ光が。
「分かるか?儂らの計画は成功した!会場に火を着け、この大会で不満と怒りを溜め込んだ観客を扇動し、この大騒ぎを引き起こした。儂らの計画は予想を超えて大成功したぞ。見るが良い!燃えて壊れて、人が大勢死んで。お前たちの大会も、この街も、もう無茶苦茶だわい!」
憎しみの音が、怨嗟の響きが、老人のしわがれた声に混じっている。
「お前のような人間や貴族ども、醜くブクブクと肥え太った者どもに、今度は儂らが、踏み躙られた者たちが、こうして裁きの鉄鎚を下すのよ!神も王も頼りにならん、何の役にも立ちはせん。だから儂らで、儂らのこの手でやってやるのだ!」
老人の顔は嗤っていた。狂気に取り憑かれた、歪んだ嗤いだ。
「とくと思い知るが良い。儂らの怒り、恨み、そして力を!お前たちがその視界から、意識からはじき出した者たち、持たざる者たちの力に、せいぜい恐れ慄くが良い!そしてその力を、お前たちのその体と!その命で!とくと味わうが良いわ!!」
老人の言葉が終わるが早いか、暴徒たちの壁から一本の鋤が突き出されたかと思うと、数本に分かれたその鉄製の鋭利な先端がルナルドの腹部に突き立った。
ルナルドは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
彼の美食で膨れた丸い腹から生えるようにして、鋤の金具がその長さの中ほどまで、深々と突き刺さっている。
急激に襲って来た強烈な腹部の痛みと、何かが込み上げてくるような強烈な吐き気。
耐え難い苦痛にルナルドの足は力を失い、彼はその場に頽れた。
痛い。
痛い。
痛い!!
なんだこれは?
一体、何がどうなってる?
おかしい。
おかしいぞ。
こいつら一体、何を考えてるンだ??
金が欲しくないのか?
縛り首になりたいのか?
どうして攻撃して来たんだ?さっぱり分からねぇ!
痛い、痛いよ。
怖い。怖い。怖い!
なんで俺がこんな目に?
嘘だと言ってくれ!
そうだ!そうだよ。これは悪い夢なんだ!
早く、早く醒めてくれ!
痛くて、怖くて、堪らねぇ‼︎
ルナルドの顔と言わずその全身から、どっと脂汗が噴き出した。
「やっ、やめてくれぇ!俺たちはただ商会の従業員ってだけなんだ!あんたらには何の関係も無いだろ?やめてくれ!見逃してくれぇ‼︎」
「うるせぇ!関係ねぇよ‼︎ テメェらも、このブタの道連れだぁ‼︎」
ルナルドの視界の端っこで、従業員たちが暴徒に襲われている。
「ヒャッハァァー‼︎ やれやれぇ!やっちまえぇ‼︎」
暴徒たちは従業員たちを角材で殴りつけ、地面に引き倒し、数人がかりで踏み付け、ナイフで滅多刺しにし、松明の炎を押し付ける。
今まさに、この場は暴力と破壊の坩堝と化していた。
暴徒たちのサディスティックな笑顔は、もれなく狂気に歪んでいる。
「そこに積んである荷物をバラしちまえ!銭や金目の物が入ってるに違いねぇ!」
我先にと運び出す予定だった荷物に群がる暴徒たち。
まるでお祭り騒ぎのような騒々しさだ。
苦悶に身動きできないままルナルドがその様子を見ていると、彼に近付いて来る者があった。
ルナルドが顔を上げると、先ほどまで彼と話していたあの初老の男が、目の前に立って彼を見下ろしている。
「じいさん、こいつはあんたに殺らせてやるよ。“復讐”が果たせて良かったじゃねぇか。さあ、思いっきりやってやりな!」
「なんだ、じいさん、あんた何も“道具”を持ってねぇじゃねぇか。ほれ、貸してやるよ。これを使いな」
老人の近くに居た暴徒が、手に持っていた凶器を老人に渡す。
それは金具の部分が酷く錆びついたツルハシだった。
「う、嘘でしょお……やめてよぉ、やめて…………やめろ!やめろっつッてンだろ‼︎」
老人は震える両手で受け取ったそれをしっかりと握ると体の前で構え、蹲ったルナルドを見下ろして一つ大きく呼吸する。
そして背中を仰け反らせるようにして、大きくツルハシを振りかぶった。
(お、俺が死ぬ⁉︎ こんな、こんなところで、こんなジジイに殺されて、俺が死ぬ⁉︎ 俺が終わる⁉︎ そ、そんな‼︎ そんな馬鹿な‼︎‼︎)
勢い良くツルハシが振り下ろされる。
無機質な金属の感触と衝撃に脳天から貫かれ、ルナルドは即死した。
大会運営事務局が入っていた建物を飛び出したマンチェットは、マーテルとともに街路を駆けていた。
道を挟んで並ぶ建物のあちこちで、煌々と激しい炎が燃えている。
走りながらチラチラと周囲に目をやると、暴徒たちの暴力と破壊がもたらした結末が、街のいたる所で無惨な爪痕となって刻み込まれていた。
民家の窓から、おそらく息絶えているであろう住人の上半身が力無く垂れ下がっている。
入り口を破壊された商店は、まるで中身を小虫に食い荒らされた甲虫の空っぽの死骸のように、無惨に荒らされた内部を晒している。
道のそこかしこには暴力の犠牲となった哀れな市民の死体が転がり、どこからともなく悲鳴や苦しそうなうめき声、子供の鳴き声が、こだまするかのように聞こえて来る。
マンチェットは今まさに、現実として出現した地獄の中を駆けていた。
そう、まさに地獄。この状況を一言で言い表せるとしたら、その言葉しか思い付かない。
惨憺たる街の状況だったが、どうしてこんな事になっているのか?
マンチェットはその頭では未だ原因を究明する事ができないながらも、感覚の方ではこの状況にそれほど違和感を抱いていない自分に気付いていた。
もしかしたら、この状況は当然の帰結なのかも知れない。
この状況は、起きるべくして起きた。それが真実であるのかも知れない。
息を切らせて走りながら、マンチェットはそう感じていた。
マンチェットはここ数年“ダンジョンコンクエスト”が、そしてそれに関連するビジネス全体が、競技という形での「冒険」ではなく、商業としての価値に重きを置いた「娯楽」へと、傾いていく事を憂慮して来た。
その憂慮が現実的な形を伴って、今ここに現れたのではないだろうか?
マンチェットがこの地獄のような状況に違和感を感じていないのは、そう考えずにはいられないからだ。
この国はもう随分と長く衰退を続けており、人口も経済もじわじわと縮小するばかりで好転する兆しなどまるで見えず、もはや明らかに未来に希望など持てない、そんな国になってしまったと、誰もが皆、そう思っている。
そんな国に突如生まれ、10年足らずで驚くほどの成長を遂げた“ダンジョンコンクエスト”というビジネス。
それは、熱狂的な支持を伴って国民全体に受け入れられた。
ダンジョン攻略という「冒険」に、観客は熱狂し、出場する冒険者たちは自分たちの栄誉と成功を求めて身を投じる。
特に若者たちが、自分たちにとっての希望とばかりに、この新しいビジネスに群がっていった。
国民の多くは間違い無く“ダンジョンコンクエスト”に大きな期待を寄せていた。
「逆転の一手」としてこの衰退の時代を切り開き、国民に新たな夢と希望を与えてくれる。
そんな、過分としか言いようの無い期待を。
しかし実際にはあのルナルドをはじめとするような、自分たちさえ良ければそれでいい、自分の利益の事ばかり考えているような人間たちの、手垢まみれの手によって“ダンジョンコンクエスト”は弄りに弄り回され、その結果「娯楽」的な側面ばかりが拡大し、成長し、肥大していったのである。
「冒険」はいつの間にか、無知で無鉄砲な若者を冒険者稼業に惹き寄せるための“撒き餌”となって形骸化して行き、気付けばそこから本質が失われていく。
ランキング上位チームに所属する、全体の数からすればほんの一握りの数の冒険者。彼らに憧れて身を投じた若者たちの人生を搾取しながら、ビジネス全体に流れる金の量が加速度的に膨れ上がっていく。
本質を見失ったまま、コントロールも効かず、ただただ流れに任せてひたすら膨張を続けていく。
その結果、大会運営の上層部、ビジネスを中心になって動かしている者たち、資金を提供する出資者たち、それら一部の人間が利益を得る目的のためだけに“作られ”、“仕立て上げられ”た「娯楽」としての「冒険」。
それが“ダンジョンコンクエスト”というビジネスの実態になってしまっていた。
(これは……“報い”なのだろうか?)
マンチェットはそう考えてしまう。
このビジネスの立ち上がりから現在までを通して、そこに深く関わって来た者として、どうしてもその考えを抱かざるを得ない。
もし“ダンジョンコンクエスト”がもっと健全な成長を遂げていたとしたら、こんな事件が起きただろうか?
もし自分も含めたこのビジネスに関わる者たちが、かつてマンチェットの胸を焦がした「冒険」というものの本質を、もっと丁寧に、もっと真摯に扱っていたなら、果たしてこんな地獄が出現していただろうか?
いや、こんな事にはなっていなかっただろう。
もっと違った未来があったはずだ。
冒険者たちは煌びやかな虚構の中で輝く「偶像」に対する、無自覚、かつ無責任な「憧れ」や「羨望」の眼差しなどではなく、
未知を攻略し、困難に挑戦し続ける「英雄」に対しての、確かな「尊敬」や「敬愛」の眼差しを持って、大衆に支持、賞賛されたかも知れない。
観客は「賭けの対象」としてや、日常で鬱積した不満を自分たちの代わりに脅威生物にぶつけてくれる「暴力装置」としてではなく、
苦難を克服し、問題を解決し、ダンジョン攻略の中で成長していく「自己投影の対象」として、もっと純粋な「熱狂」や「情熱」を持って、冒険者たちを応援したかも知れない。
しかし、そうはならなかった。
“ダンジョンコンクエスト”は金儲けの道具としての実態を、虚構と虚飾の「化けの皮」で覆い隠し、ただただビジネスとして、グロテスクなまでの膨張を続けるばかりだったのだ。
今こうして目の前に出現しているこの地獄は、一見して華やかに見えるこのビジネスの「化けの皮」が、ついに剥がされ、実態が露呈してしまった、
その結果なのではないだろうか?
“ダンジョンコンクエスト”というビジネスの犠牲になった者たち。
無念にも戦死したり負傷で不具となった冒険者や、賭けによって財産を失った観客は、一体どれほどの数になるのだろう?
世間はそういった者たちを「自己責任」だ、と突き放す。
それを選択した、当人の責任だと。
確かにそう言える部分、そう言うしかない部分もいくらかはあるだろう。
しかし、犠牲となった当事者たちの声にならない悲鳴、苦しみ、恨み、悲しみは、この社会、この世界に、目には見えない感情の泥濘として蓄積していく。
間違い無く、確実に、積み重なって、膨れ上がっていく。
それは“ダンジョンコンクエスト”においてだけではない。
多くの国民、多くの市民が、延々と続く衰退と格差の拡大によって、彼らが望む“幸福で満ち足りた生活”から、必死の抵抗もむなしく零れ落ちてしまっている。
そういった者たちの心の奥底、そういった者たちで構成される社会の奥底の、目には見えない深く深くに、埋み火のような感情が、着実に積み重なって来たのだ。
この地獄は、その積み重なった怨嗟、積み重なった泥濘、
積み重なったルサンチマンの埋み火が、現実の世界に炎として噴出した。
その一端では無いのだろうか?
小賢しい一部の人間たちがどれほど虚構や虚飾で誤魔化そうとしても、圧倒的な現実の力の前ではどうする事もできなかった。
つまりはそういう事なのだろう。
歪に捻じ曲げられ、抑圧されて来た“現実”が、明確な災厄としての実体を伴って、ついに“虚構”へと反旗を翻したのだ!
襲って来る恐怖と、焦燥と、無力感と、そして諦念。
それらに押し潰されそうになりながらも、マンチェットは必死に足を動かして、目的地である冒険者組合へと急いでいた。
マンチェットの自宅は街の中心からは、かなり離れた場所に有る。
今のところはまだこの地獄に飲み込まれていないと思うが、家族の身の安全も気掛かりだった。
妻と子供たちの顔が、マンチェットの脳裏を掠める。
しかし、自宅へ戻る道を進むよりは組合の事務所に逃げ込んだ方が安全だ。
そう判断して目的地を選択したマンチェットにできる事は、ただただ家族の無事を神に祈る事だけだった。
呼吸が乱れる。
肺が痛い。
マンチェットがこれほどまでに彼の心肺機能を酷使するのは、一体いつぶりになるのだろうか?
普段の運動不足を痛感しながらも、同時にマンチェットはすぐ後ろを走るマーテルの体力に驚いている。
ぜいぜいと息を切らしている自分とは違って、彼女の呼吸はまったく乱れていない。
時おり後ろを振り返ってちゃんと彼女が付いて来ているかを確認すると、彼女はその度に変わらない余裕の表情でマンチェットに軽く頷いて応える。
ヨタヨタ、バタバタとおぼつかない動きの自分の足ともこれまた違い、履いていた踵の高い靴を脱ぎ捨てて裸足で駆けている彼女の足は、規則正しく一定のリズムで、しっかりとした力強い足音を立てているのだった。
「うわっっ!!」
ほんの一瞬であったが、マーテルの足音に意識を奪われていたマンチェットは、道端に転がっていた哀れな市民の亡骸に躓いて、体勢を立て直せないまま派手に転倒してしまった。
「トリダー様、大丈夫ですか?」
起き上がろうとしたマンチェットにマーテルが駆け寄り、手を貸す。
マーテルの目の前で無様に転んでしまった事、そして情けなくも彼女に助け起こされてしまっている自分に対する羞恥心が、マンチェットの胸の内に湧き上がって来る。
「お怪我は有りませんか?走る事は、できそうですか?」
追い打ちのように優しく話しかけてくるマーテルの声に、マンチェットは恥ずかしさで顔から火が出そうな心持ちになるが、すぐに体に疾る痛みが彼を現実へと引き戻す。
「え、ええ。ご心配なく、大丈夫です。」
マーテルに支えられながら、マンチェットは立ち上がる。
そうだ、行こう。痛みに立ち止まってなどいられない。
マンチェットの心には小さな、しかし確かな、燃えるような使命感が、植物の萌芽が芽生えるようにして生まれていた。
それは組合の一員として冒険者稼業に関わって来た者として、“ダンジョンコンクエスト”のあり方を変えていかなければいけないという使命感だ。
自分一人の力などたかが知れているが、それでもその力を振り絞って、例えそれがどれほどささやかなものであったとしても、この世界を変えるのだ。
この世界と、戦うのだ。
その思いに、マンチェットの心は燃えていた。
しかしそのためには、まずはこの地獄を生き延びなければならない。
マンチェットはマーテルと顔を見合わせて頷くと、再び目的地である冒険者組合を目指して駆け出そうとする。
その時だった。
目の前に一台の馬車が躍り出たかと思うと、いきなりその車体を急停止させる。
ブレーキ機構が備え付けられたタイプの馬車なのだろう。しかし馬車のブレーキは、駐車時に車体が動かないよう固定するのが本来の用途であり、走行中の減速には原則として使用しない。
そのブレーキを無理矢理作動させた事によって、耳障りな機械音とともに激しく車体を揺らし、あわや横倒しに倒れそうになりながらもなんとか踏み止まるかのようにして、馬車はそのやかましい動きを停止させた。
馬車に繋がれている2頭の馬のうち1頭が、乱暴で急な制動に驚いたのか、怒りを露わにするかのように後ろ脚で立ち上がって、大きくいなないた。
突然現れた馬車に驚き、マンチェットの視線が釘付けになる。
一呼吸数えるほどの時間、停車した馬車は時が止まったかのように動かなかったが、いきなりその扉が勢い良く開かれた。
「マーテル!こんなところに居たのか!探したぞ‼︎」
大声で叫びながら、ブランドン・エフロイドが、開いた扉の枠に手をかけてその身を乗り出す。
マンチェットが観客の避難経路の確保のために出店を解体しようとして、運営事務局が入っていた建物を離れていた間、どうやらブランドンはこの地獄からの脱出用に自分の馬車を取りに行っていたようだ。
マンチェットがあの建物に戻った時、そこに居た関係者たちはすでに逃げ出してしまっており、マーテルだけがポツンと独り、取り残されていた。
(まさかブランドンは彼女を見捨てて逃げ出したのか?)
あの時のマンチェットの考えは、どうやら邪推だったようだ。「探した」という言葉から分かる通り、ブランドンは馬車を取りに行った後マーテルを迎えに、あの建物まで引き返したのだろう。
タイミングの妙ではあったが、結果的にマンチェットはブランドンと入れ違いになって、マーテルを建物から連れ出してしまっていたらしい。
「さあ来い、早く馬車に乗るんだ!急いでここから離れるぞ!」
ブランドンはそう言って、マーテルへと向かって手を差し伸べた。
マンチェットに対しては一瞥もくれない。
開いた馬車の扉とブランドンの体との隙間から見える車内には、先に乗り込んでいる先客らしき姿が見える。
それを見る限り、どうやらマンチェットを一緒に乗せる余裕は無さそうだ。
(しかし……良かった。これで少なくともマーテルさんはここから逃げ出せる。自分と一緒に居るよりは、馬車の車体に守られている方が間違い無く安全だろう)
そう考えながら、マンチェットはマーテルを見る。
一瞬、マンチェットの中で時間が停止するかのような、奇妙な感覚があった。
マンチェットの視点から見える彼女の横顔は、燃える建物の炎の光に照らされて、そこには何とも不思議な、面妖な美しさが湛えられていた。
その顔は空中を飛び交う煤によってすっかり汚れてしまい、走るに任せて振り乱した髪は整えられていた元の髪型から大きく崩れている。
彼女は着ているイブニングドレスの裾を、走りの邪魔にならないように大きく捲り上げて結んでおり、剥き出しになった裸足の足は、走るうちにできた小さな傷とそこから流れる血、飛び跳ねた道端の泥で酷く汚れていた。
しかしマーテルの、瞳が湛える凜とした光と引き締まったその表情は、乱れて汚れた彼女の姿全体の中にあって、むしろより強く、より印象的に輝いて見えるのだ。
初めて紹介された時の、やや陰のある整った美しさから感じた印象ではなく、
あのしっかりとした掌の感触と、今の乱れて崩れた姿。そこから感じられる力強さ、生命力、その印象の方こそが、
彼女の本質であるような、そんな気がマンチェットにはするのだった。
(……美しい……)
どうしてだろうか?
ここで彼女と別れる事に対して、惜しいような、残念なような、体の一部をちぎり取られるかのような、そんな感覚が自分の心の中に存在している事に、マンチェットは気付いていた。
「……何をしているんだ?急げ、マーテル!いつここにも暴徒どもが押し寄せて来るか、分からんのだぞ‼︎」
ブランドンの声が大きくなる。
その声、その表情には、隠せない焦りの色が混じっている。
しかし、声を向けられている当のマーテルは立っている場所から一歩も動こうとはしない。
その颯爽とした立ち姿のまま、変わらず凜とした横顔と、何かしらの決意を宿した視線を向けて、ブランドンを静かに見返していた。
「???…………どういうつもりだ?何を考えている?……マーテル、お前まさか…………来ないつもりなのか?」
ブランドンの声が困惑するような色へと変化する。
怪訝さを浮かべて歪む彼の表情に、微かな狼狽の色が混じった。
「ブランドン様‼︎」
不意にマーテルが返事をする。
細くはあるが力強く響くその声には、確かな決意、意志の力が込められていた。
「申し訳ございません!我ながら誠に勝手、大変な不義理ではございますが、今日この時を持って、私は貴方様からお暇をいただきます‼︎ 」
マーテルのその言葉に、マンチェットは目を見開いて驚いた。
いや、マンチェットだけではない。言われたブランドンも目を見開き、驚愕の表情を浮かべている。
「行きましょう」
その言葉とともに、マーテルはマンチェットの手を取った。
実際にはマンチェットの手首を掴んだのだが、マーテルはブランドンに向けていた視線を振り切ると、そのまま何も言わず駆け出した。
「えっ?……ええっ⁉︎」
マーテルに引っ張られるようにして、混乱しながらマンチェットも走り出す。
二人は燃え上がる建物に挟まれた路地を駆けて、停車した馬車からぐんぐんと離れていく。
ブランドンは差し伸べた先にマーテルが居ないその手を前方に伸ばしたままの体勢で、呆けたように固まって動かなかった。