終幕
最初に動いたのは《ハイカイ・メキシキーセ》のメンバーたちだった。
空間の入り口を目指して、生き残りのメンバー四人ともが脱兎の如く駆け出す。
もはや“怪人”を“制圧”する事は不可能だ、と判断したのだろう。彼らは他のチームに先駆けて“撤退”を選択したようだった。
しかし、“怪人”はまるでその行動を予測していたかのように、すぐさま彼らを追うように駆け出すと、大きな体からは想像できない速さで走って追い縋る。
そして入り口付近でついに追い付くと、鋭くウォーハンマーの一撃を振り下ろした。
逃走する《ハイカイ・メキシキーセ》のメンバーのうち、最後尾に居た一人は手にしたあの“謎の武器”で迎撃しようとしたがまるで間に合わず、あえなく頭部を無惨な形に叩き潰された。
“怪人”はさらに続け様に振るった一撃を、すぐ前を走っていたもう一人にも命中させる。肩のあたりに背後からの一撃を喰らったメンバーは体勢を崩し、走っていた勢いそのままに、もんどり打って地面に転倒した。
その隙に、仲間を切り捨てた残りの二名は入り口に飛び込んで姿を消した。
“怪人”は一瞬だけ彼らを追いかけるか迷うような素振りを見せたが、すぐに諦めたのか、その足を止める。
そして地面にうつ伏せになったまま苦しそうに這いずり、なおも逃げようともがく残ったメンバーに向かってゆっくりと歩いて近付いていくと、止めとばかりにウォーハンマーを振り下ろし、またしても頭部を無惨に割り潰した。
湿って絡みつくような鈍い音が、空間に響き渡る。
頭部に赤い花が咲いたかのような異国の冒険者の体は、それきりピクリとも動かなくなった。
振り下ろしたウォーハンマーを持ち上げた“怪人”の横を、今なお燃え続ける人の形をした火焔が、足を引き摺りながら入り口へ向かってゆっくりと歩いて行く。
“怪人”は一瞬だけ火焔に目をやったが、やはり興味を失っているのか、すぐさま首を動かして次の標的を探し始めた。
そこまでの一部始終を見たところで、コーネリアはようやく自分の体がガタガタと震えている事に気付いた。
奥歯がカチカチと乾いた音を鳴らし続ける。まるでコーネリアの顎が、自動で音を鳴らす器械仕掛けの打楽器にでもなってしまったかのようだ。
コーネリアの脳内で、次々と感情や思考が浮かんでは忙しく動き回り、渋滞を起こし、それら同士で衝突しては砕けて消えていく。
震えを抑えようとしてみても、体はまるでコーネリアの意識から切り離されているかのように、言う事を聞いてくれなかった。
「ヒィッ!来るな!来るなぁぁぁぁ‼︎」
“怪人”が次の標的に定めたであろう冒険者が上擦った悲鳴を上げる。
悲鳴とともに冒険者が慌てて放った「魔素の矢」は、詠唱によってきちんと魔素を練っていない事が丸分かりな頼りない速度で飛んで行き、“怪人”の剥き出しの胸板に突き刺さった。
しかし“怪人”は意に介さない足取りで、ゆっくりと歩いて近付いていく。
冒険者はさらに続けて数発、魔術を発射するが、恐怖に呑まれて放つ粗忽な魔術は、標的の体を掠めて、外れて、まともに命中せず、そのいずれも“怪人”の足を止める事ができない。
「やめっ!止めろぉ‼︎ やめてく……ああぁあ‼︎」
グシャッ!
またしても湿った音が空間に響く。どさり、と冒険者の体が地面に倒れた音が続く。
冒険者たちはこの空間から逃げようにも、気付けば《ハイカイ・メキシキーセ》を追って入り口付近まで移動した“怪人”に、通せんぼされるような位置関係になってしまっていた。
このままでは逃げられない。逃げようとした者から優先的に“怪人”の標的になっていくだけだろう。
その状況が迷わせるのか、どの冒険者もここからどう動いて良いのか判断できない様子で、隠せない動揺が漏れ出すかのようにオロオロとまごつくばかりだった。
そんな冒険者たちにはまるでお構い無しに、“怪人”は続けて自分から最も近い冒険者を新たな標的に定めると、再びゆっくりと歩き始める。
「いっ!いやああぁぁぁぁ‼︎ 来ないで!来ないでぇぇ‼︎」
金切り声で悲鳴を上げたその冒険者にコーネリアは見覚えが有った。確か《ヴァーミリオン・ヘル・ナイン》の主軸を担う女魔術師だ。
腰が抜けでもしたのか尻餅をついた体勢のまま、“怪人”から離れようと必死で後退りしている。
あれでは逃げられない。“怪人”はお構い無しに距離を詰めていく。
たとえ相手が女であろうと、“怪人”は手心を加えるつもりなど一切無いらしい。何一つ変わらない足取りで、ゆっくりと近付いていく。
「やめて!お願い、何でもするから殺さないで!ころさ……」
グシャッ!
“怪人”は躊躇する事無くウォーハンマーを振り下ろす。
鈍い音とともにまた一つ、赤い花が咲いた。
(こ、攻撃、攻撃しないと…………私も、私も魔術で攻撃しないと……)
何をするべきなのか、コーネリアには分かっている。
分かっているのに、体が動かない。
鈍重な鉛のように粘つく恐怖がコーネリアに絡みついて、意識と体の自由を奪う。
コーネリアの視界がぼうっと、白いモヤがかかるかのように霞んだ。
(こんなの、こんなの有り得ないわ!何かの間違いよ!だって、だって、しばらく前まではどのチームが“怪人”を制圧するかで競ってたのよ!こんなの……良いはずが無い!こんな事、こんな結末、有って良いはずが無いわ‼︎)
焦点の定まらないコーネリアの視界の中、“怪人”はまた動き始める。
やはりゆっくりとした足取りで向かうその先には……地面に蹲ったままのシュベルツと、彼の救護に当たっているアンネが居る!
“怪人”が二人を次の標的に定めた事は明白だった。
「ハッ!……ハー、ハッ!ヒュー…………ハッ!ハッ!」
コーネリアは二人に逃げるように指示を出そうとするが、どうした事だろう?声が出ない。彼女の口からは風切り音のような、奇妙な音が鳴るだけだ。
(ああ!ダメ!駄目よ!そんなのは駄目‼︎ どうして⁉︎ どうしてこんな事になってしまったの⁉︎)
視界がぼやける。
声が出ない。
呼吸が苦しい。
コーネリアを取り巻く周囲の光景が、ぐるぐると回転しているような感じがする。
「に、逃げ……逃げ……さい、そこから……逃げ……」
やっとの事でコーネリアの口から出たその言葉は、蚊が鳴くように小さな音で、虚しくその場に響くだけだった。
ゆらゆらと体を揺らすようにして、“怪人”が近付いて来る。
ゆっくりとした足取りで、一歩一歩、踏み締めるように歩いて来る。
「アンネ、もう良い。お前だけでも逃げろ」
両腕の痛みに顔を歪めたまま、額からは脂汗を流しながらシュベルツが言った。
シュベルツの腕に当てた添え木の上から包帯を巻きつけている途中のアンネは、その言葉を聞くとシュベルツの顔を見た後、首を横に振った。
「ダメよ!シュベルツ、立って!私が肩を貸すから!」
そう言った後で、アンネはシュベルツの視線が自分を見ていない事に気付き、その先を辿って、“怪人”が自分たちに向かって近付いて来ている事を認識した。
途端にアンネは慌てた様子でシュベルツを立ち上がらせるため、彼の脇に腕を通してその体を必死で持ち上げようとし始める。
「無理だ、俺を抱えたままで“怪人”からは逃げられねえ。見ただろ、あの野郎、あんなでかい図体のくせして、走っても速いんだ。お前はコーネリアとミントを連れて、ここから逃げろ。俺が時間を稼ぐから……」
そう言うと、蹲っていたシュベルツは膝をがくがくと震わせながら、ふらつきながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「だけど……ダメよ!そんなのダメ!逃げるなら一緒に……」
「良いから行け‼︎ 無事に地上に戻って、冒険者組合に駆け込むんだ!」
シュベルツは吠えるようにそう言うと、食い下がるアンネを既に添え木が当てられた方の腕で力無く押し除け、自ら“怪人”に向かって足を引き摺るようにして一歩踏み出す。まるで“怪人”を迎え撃とうとするかのように。
「お前たちだけでも生きて戻ってくれ。そしてアイツに……妹に、俺の金を渡してやって欲しい。頼んだぜ、お前たちなら信用できる」
腕をダラリと下げたまま、さらにもう一歩踏み出すと、シュベルツは横目でアンネを見ながら最期の願いを口にした。
覚悟を決めた表情だった。口元には微かに笑みを浮かべている。
アンネはなおもシュベルツを説得しようと口を開くが、無駄だと悟ったのか、それとも言葉が出ないのか、すぐにその口をつぐむと、何かを振り切るかのようにシュベルツから離れて駆け出した。
シュベルツが走り去るアンネの背中から視線を移すと、“怪人”は逃げて行くアンネには目もくれず、まっすぐこちらを見たまま、変わらずゆっくりとした歩みで近付いて来ていた。
(これで良い……まさかこんな最期になるとは思いもしなかったがな。後はもう、コーネリアたちが逃げられるように、少しでも時間を稼ぐだけだ)
シュベルツがもう一歩、足を引き摺ったところで、“怪人”もその足を止める。
向かい合う両者。シュベルツは“怪人”の攻撃の間合いに、その身を捉われている。
次の瞬間には“怪人”が、あのウォーハンマーの一撃を浴びせて来るかも知れない。
そう思った瞬間、シュベルツの体がブルリと震えた。
改めて目の前にすると、“怪人”が身に纏っていた「黒い霧」はほとんど消え失せ、首筋に浮かんでいた血管のような赤黒い模様も消えていた。
“怪人”の顔を見てみれば、あの真っ赤になっていた目も、やや充血してはいるがほとんど元の白目に戻り、その中心にギラギラと怪しく白色に光っていた瞳孔も、元の黒目に戻っている。
“怪人”の見た目は、しばらく前までの化け物じみたものから、いつの間にかほとんど人間に近い状態にまで戻っていた。
今の“怪人”なら、こちらが話しかければ向こうも応えて来るのではないだろうか?
そんな気がしたシュベルツは、意を決して口を開く。
「それにしても、やってくれたな。見事だよ。アンタ一人に手こずった挙句、俺らはこんなザマになっちまった。……なあ、“ドラセルオードの怪人”、アンタは一体何者なんだ?そうだな……名前は?アンタ名前は何ていうんだ?」
時間稼ぎを狙ってシュベルツは“怪人”に問いかける。それに付き合ってくれるかは賭けだったが、“怪人”はシュベルツを見据えたまま、少し考えるような素振りを見せた。
「…………無慈悲な闘神が、それで扱いを変えるとも思えんが……そうだな、ザラスの御前に貴様の魂が引き出された時には告げるが良い。貴様が誰の手で送られたのか、その名をな」
“怪人”はそう言うと、右手に握ったウォーハンマーを持ち上げる。そしてその鎚頭を、シュベルツの胸、心臓のあたりに軽く押し当てた。
「俺の名はヒャクリキ。ハリクの子、ヒャクリキだ。俺の父ハリクは、間違い無くマハイ・ベージの戦士たちの列に加わっている事だろう。もし父に俺の名が届けば、きっと……そうだ、俺が戦士として生きている事を、きっと誇りに思ってくれる……思ってくれるはずだ……」
“怪人”の顔からは残忍さの色が消えていた。むしろ名前を名乗った時のその瞳には、真摯な純粋さとでも呼ぶべきものが光ったのを、シュベルツは見て取った。
「ハリクの子、ヒャクリキ。……ああ、ちゃんと覚えたぜ。もし本当にアンタの神サマの前に行く事があったら、伝えておいてやるよ」
シュベルツのその言葉を聞いた“怪人”は、ゆっくりとウォーハンマーを下ろした。そして一つ、微かに安堵したかのような表情で、小さく溜息を吐いた。
この調子ならもう少し時間を稼げるか?
そう考えて、シュベルツは言葉を続ける。
「だけどヒャクリキ。アンタ、阿呆な真似をしたな。こんな事をしでかしたんだ、冒険者組合は血眼でアンタを探すぜ。この街だけじゃない、この国すべての冒険者組合、すべての冒険者がアンタの敵に回る。無事に逃げられると思ってるのか?」
わざと挑発するような話題をシュベルツは選択した。相手が機嫌を損ねて話題に乗ってくれれば、さらに時間が稼げると考えての事だ。
一瞬だけチラリと視線を流して見ると、コーネリアは何を考えているのか立ち尽くしたままで、逃げ出してすらいなかった。
(何やってんだよ!早く、早く逃げろ!俺の悪あがきが無駄になるじゃねえか!)
考えを悟られまいとシュベルツが急いで視線を戻すと、ヒャクリキと名乗った“怪人”が口を開く。
「ふん、望むところだ。俺の道は決まっているのだからな。もし貴様の言う通り、冒険者どもが俺を追い、それによってザラスに捧げる“戦い”に事欠かなくなるのであれば、それはむしろ戦士の本懐というものだ」
“怪人”は口元を微かに歪め、笑っていた。
(ああ……そうか、なるほどな。狂っている。狂っていやがるのか……)
“怪人”の微笑につられてシュベルツも口の端を釣り上げる。すると、今度は“怪人”の方からシュベルツに問いかけて来た。
「ところで、それが最後の言葉で良いのか?まあ、これ以上貴様の話を聞いてやる義理も、べつに無いがな……」
そう言いながら“怪人”はウォーハンマーを持ち上げたかと思うと、肩に担ぐようにして身構えた。
当然の事ながら、シュベルツに“怪人”の攻撃を防ぐ手段は無い。
シュベルツは自分に最期の瞬間が訪れた事を理解する。
(ここまでか。まあ、そうだな、“相手が悪かった”と、つまりはそういう事なんだろうな……)
最後に見たのは“怪人”が凄まじい速度で放つ、横薙ぎの一閃だった。
シュベルツの意識は破裂するかのように弾け飛び、一瞬で闇の中へと霧散した。
「ヒッッッ‼︎‼︎」
コーネリアは無意識のうちに悲鳴を上げていた。
頭部に赤い花を咲かせたシュベルツの体は直立の姿勢を保ったまま膝を折って崩れ落ちる。そして膝立ちの状態で一呼吸置いた後、ゆっくりと前のめりに倒れて動かなくなった。
“怪人”はその様子を、ウォーハンマーを振り抜いた体勢のまま見届けていた。
そしてゆっくりとその体勢を解くと、何か思うところがあったのか、しばらく地面に倒れ伏したシュベルツを眺めていた。
不意にクロスボウのボルトが“怪人”の左肩に突き立つ。
この場に残った冒険者の誰かが撃ったらしい。
それが惨劇の再開、その合図となった。
“怪人”はボルトを無造作に掴んで引き抜くと、それが飛んで来た方向に向き直る。
そして自分を撃った下手人らしき冒険者を標的に定めると、いきなり途轍も無い速さで走り始めた。
(ああ……あ…………あああ……)
コーネリアの体は動かない。
彼女の白く霞むような視界の中で、次なる哀れな犠牲者が生まれていく。
一人、
二人、
さらに三人目……、
冒険者たちは次々と“怪人”の凶手によって、物言わぬ肉塊に変えられていく。
「どうして……どうしてこんな事に……」
この空間に残された冒険者たちに、“怪人”に対抗、抵抗できる力はすでに無く、ただただ時間の経過とともに犠牲者の数だけが増えていく。
しかし目の前で繰り広げられる惨劇を目の当たりにしても、コーネリアの体は震えるばかりで、動こうとはしなかった。
「コーネリア!何をボーッと突っ立ってるの⁉︎ 逃げるわよ!早く‼︎‼︎」
コーネリアは自身の肩を誰かが強く掴んだ事に気付く。
聞こえて来た声はミントのものだろうか。
「どうしたの⁉︎ コーネリア‼︎ あの“怪人”が他の冒険者を襲っている今しか、逃げるチャンスは無いのよ⁉︎ 早く!早く逃げましょう‼︎」
ミントは掴んだコーネリアの肩を激しく揺さぶって来る。
必死の様相でコーネリアに語りかけるその声はかなり大きいはずなのに、コーネリアはその声がどこか遠くから聞こえて来るように感じていた。
周囲の空間が自分をぬるりと包んで抑え込んでいるかのような、どうにも曖昧な感覚に包まれている。
「どうして動かないの‼︎ コーネリア!早く逃げ…………ヒぃッ‼︎」
コーネリアの肩を揺さぶる手が止まった。
霞む視界の中で、動きを止めた“怪人”がこちらを見ている。
コーネリアと“怪人”の目が合い、お互いの視線が交錯する。
こちらを見つめる“怪人”の目には、なぜか残虐な光が感じられなかった。
ただただ空虚な、感情を感じさせない、渇いた、それでいて確かな意志を宿した眼差しが、まっすぐにコーネリアを射抜いていた。
(あ……あ……あ…………)
“怪人”はゆっくりと体の向きを変えたかと思うと、コーネリアがいる場所に向かって歩き始める。
「いやあああぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」
コーネリアの肩を掴む手の感触と重さが消える。
それと同時に聞こえて来たミントの悲鳴は、あっという間にコーネリアから遠ざかり、離れて行った。
近付いて来る。
ゆっくりと歩いて、近付いて来る。
コーネリアは冒険者として生きてきたこれまでの時間の中で、死を覚悟する瞬間、場面には数え切れないほど遭遇して来た。
しかし、今感じている死の予感は、これまでに感じたそれらのどれよりも、ハッキリとした明確な輪郭を伴って、彼女をその腕の中に抱え込んで離そうとしないように感じられた。
ああ、死が。
私の、死が。
“怪人”の姿に形を変えて、こうして目の前に存在している。
近付くにつれ、大きくなっていく、私の死。
一歩、一歩、確実に、近付いて来る。
徐々に大きさを増していく“怪人”の体。
あれだけ大きな体なのに、霞んでボヤけて、コーネリアにはよく見えない。
“怪人”のブーツが地面の砂利を踏み締める音が聞こえて来たその瞬間、
“怪人”の姿を捉えていたコーネリアの視界が、いきなり上に向かって跳ね上がる。
そして自身の視界に写ったのがこの空間の天井である事に気付いたのと同時に、
コーネリアの意識は、白く霞む視界に飲み込まれるようにして静かに消えた。