ドラセルオード大火
放映会場である中央広場の混乱は、ますます大きくなる一方だった。
まるで飛び火するかのように、あちこちで新たに火の手が上がる。
さらには追い討ちとばかりに群衆による「破壊」が、まるで燃え盛る炎を追いかけるかのようにして拡がっていく。
「トリダーさん!危険です!ここまで無茶苦茶になってしまってはもう、我々ではどうしようもありません。早くここを離れましょう!」
マンチェットを手伝っていた運営のスタッフがたまらず声を上げる。
しかしマンチェットはその声が聞こえているのかいないのか、作業の手を止めたままの状態で、呆然と眼前の光景に目を奪われたままになっていた。
(何故だ……一体、一体どうしてこんな事に?)
マンチェットの脳内はその疑問で一杯になっている。
目の前に拡がっているこの光景は、本当に現実なのだろうか?
「このままここに留まっていたら、我々も危険です!後の成り行きはもう、神に委ねるしかありませんよ!」
若い男のスタッフは大声でマンチェットに呼びかけるが、その声すら掻き消すほどに広場の狂騒は凄まじいものへと変化しつつある。
群衆の一部は暴徒と化していた。
何物にもコントロールされる事の無い無軌道な暴力が、放映会場だった広場のそこかしこで無遠慮な牙を剥いている。
運良くまだ火の手が上がっていない出店は、しかし炎の代わりに群衆の襲撃にさらされていた。
観客としてこの場にいたはずの者たちが出店に取り付いて破壊していく。
数人がかりで出店の柱を押し倒し、天幕を引き裂いてわざと火を着けている。
商品を納めている箱や容器を破壊し、そこから我先にと奪い、持ち去っていく。
売り上げが入れられた金庫を破壊し、袋を奪い合い、何人もの人間が地面に這いつくばって、撒き散らされた硬貨を服のポケットが張り裂けんばかりに詰め込んでいる。
制止する出店の店員を大勢で囲み、袋叩きにしている。手にした角材で気が触れたように店員を殴りつけているその顔は、笑っているようにしか見えない。
その様はまるで小動物の死骸にわらわらと集って悍ましく蠢く、無数の小虫のようだった。
ふと気付けば、少し離れた場所で衛兵たちが暴徒と小競り合いをしているのが見える。ありがたい事にこんな混乱の最中でも彼らの職務に対する責任感と忠誠心は揺るがないでくれていたようだ。
しかし大勢の群衆に取り囲まれた彼らからは、日頃の警邏任務中に見られるような余裕や不遜さがまるで感じられない。群衆の暴力を抑えるどころか、自分たちの身を守る事で手一杯のようだった。
「トリダーさん‼︎」
肩を掴んで揺さぶられる事で、ようやくマンチェットは自分に声を掛けるスタッフの存在に気付く。
この場の熱気のせいなのか声を掛けて来たスタッフの顔は、噴き出した汗が炎の光を反射して煤で汚れながら、鈍く怪しげに光っていた。
声を掛けられて我に返ったマンチェットは、自身の置かれた状況を改めて認識する。
離れた場所だけではない。見ればマンチェットたちがいる場所のすぐ近くにも、剥き出しの暴力は出現している。
「そうだな、これは、この状況は……もはや我々だけではどうしようも無い。残念だが…………皆、撤退だ!運営事務局が有るあの建物まで戻るぞ!」
振り返って大声で言うと、マンチェットが指示を飛ばすまでも無く、既に手伝ってくれていたスタッフはその大半が逃げ出していた。
遅ればせながらそれに続こうと駆け出したマンチェットは、逃げようとした経路上に数人の男たちが集まってこちらを見ている事に気付く。
それぞれが手に手に角材や私物であろうナイフを握った男たちは、マンチェットにジメッとギラついた視線を向けている。
「おっ、なんだなんだ、やろうってのか?オッサン。これは俺たちのモンだ、てめえらにくれてやる分なんてありゃしねぇよ!」
一人がそう言うと男たちは剣呑な雰囲気を纏いながら、マンチェットに向かって動き始めた。
どうやら男たちはマンチェットと彼のまわりに居る数人のスタッフを、彼らと同じく暴力によって出店を略奪している集団だと勘違いしたらしい。
なぜそんな勘違いを?と疑問に思いながらも同時に、マンチェットは出店の解体のために自分が握っている斧の存在に気付く。
(しまった!これを持っているせいか!)
慌ててあなたたちと事を構えるつもりなど無い、と弁明するため口を開きかけたマンチェットだったが、男たちのギラつく目を見る限り、話を聞いてもらえる可能性は低いと判断せざるを得ないようだ。
困った事になった、どうにかこの場を切り抜けなければ。
マンチェットがそう思ったその時だった、何かが破壊される大きな音が耳に飛び込んで来た。
つられて音がした方にマンチェットが目を向けると、広場の外周で燃え盛る出店のさらに向こう、設置されている大型のクリスタルモニターのうち1台が、地面に落下して無惨に破壊されているのが見えた。
櫓を組むようにして建てられていた台座から、暴徒たちによって引きずり落とされたらしい。地面にぶつかったと思われる箇所から、その画面には大きく派手にヒビが入り、粉々になった破片をあたりに派手に撒き散らしていた。
(いかん!こんな事に気を取られている場合では無い!)
そう思って自分に近付いて来る男たちに向き直ったマンチェットは、男たちもまた、破壊されたクリスタルモニターに目を奪われているらしい事に気付く。
「今だ!逃げるぞ!走れ、走るんだ‼︎」
降って湧いた好機に、大声で言うのが早いかマンチェットは駆け出していた。
他のスタッフたちもマンチェットに遅れまいと走り始める。
「あっ!テメエこら!待ちやがれ‼︎」
「ほっとけ!それより次はあっちだ!あの店をやるぞ!」
「スッちまった分にはまだまだ全然足りねえ!もっと金目のものを探すぞ、ついて来いお前ら!」
背後に男たちのわめき声を聞きながら、マンチェットは走る。
走るのが得意なほうでは無いと自覚しているマンチェットだが、背中を炙るような危機感のせいだろうか、自分でも驚くような速さで両足は動いてくれていた。
(とにかくまずは運営事務局に戻らなければ!しかし……一体どうする?どうすればいいんだ?この状況を。暴動と言って良いこの状況を!一体どうすれば収集できると言うんだ!?)
事務局の建物を目指して駆けながら、マンチェットは思考を回転させる。
(運営委員会の上層部や出資者である貴族たちに助力を求めるか?しかし求めたところで、一体どれだけの人間が応えてくれるだろうか?……いやむしろ、あの建物とそこに居る者たちも危ないぞ。暴徒と化した群衆が迫って来るのも時間の問題だ!)
マンチェットの耳には、風切り音に混じって暴徒たちの歓声が背中から聞こえて来る。
広場の狂騒からは遠ざかっているはずなのに、その音が小さくなっていく気がまるでしない。
(まずい!まずいぞ!早く街を出ている衛兵の本隊に戻って来てもらわなければ、このままではどこまで被害が拡大するのか、まるで見当が付かない!)
今のマンチェットにできるのは、とにかく足を動かす事だけだ。
自身の乱れる呼吸に肺を焼かれるような痛みを感じながら、それでもマンチェットは駆け続けるのだった。
「ビクターさん!こちらです、急いでください!」
運営のスタッフ数名に誘導されながら、ビクターは群衆の中を、まるで波を掻き分けるかのようにして進んでいた。
横からぶつかり、押し込んで来る他人の体にもみくちゃにされながらも、先を進むスタッフを見失わないようにしながら、必死でその後を追う。
ビクターの脳内は、まわりを取り囲む群衆とそっくりそのまま、同じように酷く混乱していた。今はこの場から逃げる事に集中しなければならないにも関わらず、しばらく前から混濁した思考が、ぐるぐると渦巻いて暴れて、ビクターの頭に纏わり付いたまま離れない。
(そんな……そんなバカな‼︎ なぜだ?なぜ生きている⁉︎ あの男は、あそこで……あの“キュルケゴルダ迷宮”で、死んだはずじゃあないか‼︎)
間違い無い。見間違いなどでは無い。
あの目……そう、あの目だ。粗野で粗暴で、品性など欠片も感じられない、飢えた獣のような、あの目。
まるで噛み付くかのように圧迫してくるあのギラつく眼光。
「どうして……一体、一体どうやって?どうやってあの冷たい迷宮の奥深くから戻って来たというんだ⁉︎」
漏れ出すような声でビクターは呟く。
実際のところ“怪人”があの不気味なバシネットを脱ぎ捨て、その素顔を晒した瞬間から、ビクターは大会の解説をするどころではなくなっていた。
実況役の女が振ってくる質問にこそ顔を顰めながら答えてはいたが、頭の中はほとんど上の空、心ここに在らずの状態で、襲って来る理由のはっきりしない恐怖に、ただただ戦慄するばかりだった。
角鬼どもと戦う“怪人”の姿を見た時、その大きな体に嫌な既視感を覚えたのは、やはり気のせいなどではなかった。
なぜならあの“怪人”の正体は、あの迷宮でビクターたちが見殺しにして置き去りにした、あの男だったのだから。
「ヒャクリキ……どうして、どうして生きている⁉︎ どうして再び現れたんだ⁉︎ 有り得ない、そんな事は……有り得ない!あの男が生きているなど、そんな事は有り得ない‼︎」
これは現実なのだろうか?
何か悪い夢を見ているのではないだろうか?
恐ろしい。何が恐ろしいのかが分からない。
分からないのに、とにかくひどく恐ろしい。
……なぜビクターは恐れているのだろうか?
“怪人”は結局のところは冒険者たちに包囲され、激しい戦闘の末に“凶刃”の一撃によって仕留められた。
ビクターは確かにその目で見た。体を深々と切り裂かれた“怪人”の最期を。
つまり“怪人”は死んだのだ。あの男は今度こそ、死んだのだ。
ならば何も恐れる必要は無いではないか。
一体何を自分は恐れているというのだろうか?
しかし同時にビクターは思う。あれは果たして本当に、“決着”と呼べるものなのだろうか?
切り裂かれた“怪人”の体からは赤い血ではなく、謎の「黒い霧」が噴き出したのを、これまたビクターはその目で見ている。
死んだはずのあの男は“ドラセルオードの怪人”となってビクターの前に現れた。
何か得体の知れない存在として甦り、再び彼の前に現れたのだ。
普通に考えれば、“凶刃”が“怪人”に与えた一撃は確実に致命傷を与えるものだろう。
“怪人”は、あの男は、ヒャクリキは、間違い無く死んだはずだ。
そう、普通に考えれば……死んだはずだ。死んだはずなのだ。
ならばどうして、これほど恐ろしいのだろうか?
分からないようで、実はビクターは分かっているような気もしている。
“怪人”から「黒い霧」が噴き出した途端にクリスタルモニターの映像は途切れた。
何らかの事故が発生したのは明らかだが、あのタイミングで発生したのは果たして偶然だろうか?
いや、そうではない。あれは偶然などでは無い。
ビクターは無意識のうちにそう感じている。
今ここで、放映会場で巻き起こっているこの大混乱と、あの男、ヒャクリキが“怪人”として登場した事とはどこかで繋がっている。因果関係が存在する。
そんな気がしてならないのだ。
言い換えるなら、死んだはずのヒャクリキこと“ドラセルオードの怪人”が、あの迷宮の奥底から混乱と破壊を、燃え盛る炎とともに連れて来た。
何ひとつ論理的な裏付けが有るわけでも無いのに、そんな気がしてならないのだ。
「何をバカな事を…………」
ビクターの口から思わず言葉が漏れたその時、近くを走る観客が勢い良くぶつかって来た。弾き飛ばされたビクターは踏み止まる事もできずに呆気なく転倒する。
「うわぁっ!」
地面に膝をついて四つん這いになった状態のビクターのすぐ横を、無数の足音がやかましく通り過ぎていく。
このままでは混乱した群衆に踏みつけられて大怪我をしてしまう。そう思った焦りから、体の痛みに呻きながらもビクターはそそくさと起き上がった。
「ぐう……」
何とか立ち上がりはしたものの、襲って来た痛みにビクターは顔を歪める。
どうやら腰と左肩、左腕の肘が痛むようだ。特に肘の痛みは異様な酷さで、これはもしかすると骨が折れているかも知れない。
「ビクターさん!大丈夫ですか⁉︎」
拡がり始めた痛みの中で後ろから聞こえて来た声は、あの実況役の女のよく通る声だった。今初めて気付いたが、どうやらビクターにくっ付いて一緒に逃げて来ていたらしい。
声がした方を向いたビクターは、女の顔がぼやけている事に気付く。
そこにあるはずの目や鼻や口が、ぼんやりと朧げにしか認識できない。
「!!!…………ああぁぁ!!眼鏡!眼鏡が‼︎ 私の眼鏡が!」
ビクターは慌てて周囲を見回すが、観客と思われる無数の影が、ぼやけた視界の中を縦横無尽に動き回るのが見えるだけだ。この混乱の中でどこかに飛んで行った眼鏡を探すのは不可能だろう。
「あああぁぁ!!見えない!何も見えないぃぃ!!!」
思わず悲鳴のような声を上げてしまう。
怖い。
怖い!
怖い!!
まるでおぼつかない裸眼の視力では、周囲の状況を認識できない。
よりにもよってこんな、こんな混乱の中で!
暴走し、一部は暴徒と化した群衆の中で!
あちらこちらで燃え上がり、今なお拡大を続ける炎の中で!
何という事だろうか!眼鏡を失くしてしまうとは!
「見えない!見えない!見えないぃぃ!!」
炎の光に照らされながら動き回るいくつもの影が、殴りつけるようにしてビクターにぶつかっては通り過ぎて行く。
「ビクターさん!落ち着いてください!さっきから私たちを誘導していた運営のスタッフさんの姿が見えません。私たちはどこに向かえばいいんでしょうか?」
こんな状況だというのに、実況役の女はさらにとんでもない事実をビクターに告げて来た。
何という事だろうか、こんな混乱の中でスタッフとはぐれて置き去りにされてしまったと言うのか!
怖い!見えない!
怖い!
身体が痛い!痛い!
見えない!見えない!
どこに行けば良いんだ⁉︎
怖い!怖い!怖い!
「ビクターさん!立ち止まっていると危ないですよ!早くここを離れましょう!」
そんな事は実況役の女に言われるまでもなく、ビクターには分かりきっている事だった。
「ああ、あああああ…………あああ……」
しかし、ビクターはぼやけた視界と周囲の騒音の中、恐怖に竦んで動く事ができず、その場に立ち尽くしたままでいる。
ただただその身を“恐怖の鎖”でがんじがらめに縛られたまま、引き攣った表情でキョロキョロとあたりを見回す事しかできないのだった。
「くっそ!なんだってこんな事になってるンだよ!なんで観客が暴れ始めたんだ?わけがわからねぇ!」
ルナルドは丸い顔に粘つく汗を噴き出しながら、思わず声を荒げていた。
クリスタルモニターなどの、大会で使用している機材である魔導具に発生したトラブルは、結局は解決するどころかトラブルの原因さえ分からずじまいで、運営のスタッフが対応に追われているうちに会場内で火災が発生し、さらには観客が暴れ始めた。
その状況と経緯は把握しているルナルドだったが、なぜそんな事になったのかについては、まったく分からないままだった。
彼の周囲では彼の部下や従業員たちが忙しく商品の回収作業を行っている。
そこからさほど離れていない距離では、同じく従業員たちがテーブルや木箱で即席のバリケードを組んで暴徒と向かい合い、店舗の内部を暴力に晒されないように必死で守っていた。
「急げ!急げってんだよ‼︎ 何をチンタラしてやがる!この給金泥棒どもめが‼︎」
ルナルドは焦りを抑えられず、従業員に向かってどやしつける。しかし店舗に配置していた従業員の半数以上が押し寄せる暴徒への対処に追われており、残された少ない人数による回収作業は、遅々として一向に進まない。
彼はこの混乱が拡大し始めたあたりから、会場に出店していた「ルナルド商会」の店舗に急行し、そこで撤収のための陣頭指揮を執っていた。
日頃の不摂生のためだろうか、作業を手伝うわけでもなく口頭であれこれ指示を出しているだけなのに、ルナルドの体からは汗が噴き出して来るのだった。
「衛兵どもは何やってんだ⁉︎ どいつもこいつも何の役にも立ちゃしねえ‼︎ 俺の商品、俺の金に、何か有ったらどうしてくれンだよ‼︎‼︎」
自分の商品と売上は何としても死守しなければ。
その強い思いから、ルナルドの不満が口汚い言葉となって飛び出す。
街の守備隊のほとんどが街から出てしまっている事をルナルドは知らない。
また、今回のイベントに参加するほとんどの商会、組合が加入している各種保険に、彼の商会は一切加入していなかった。
「払わなくて済む金は、ビタ一文払わない」
それがルナルドの商売における鉄則だった。従業員へ支払う給金も、取引先への代金も、可能な限り抑え、削って、値切り、遅らせ、税金すらもあれやこれやと誤魔化して、とにもかくにもギリギリまで支払わない。
彼はそうやって、一代で事業をここまで拡大して来たのだ。その鉄則は彼にとって絶対の正義であり、戒律であった。
「会長ぉ、こりゃもう無理っすよぉ!抑えきれませんって!逃げないと、俺らもヤバいですぜ」
従業員の一人がたまらず悲鳴を上げる。
「馬ッ鹿ヤロウ‼︎ 泣き言言ってんじゃねぇ‼︎ この場に有る商品も金も、言ってみりゃ俺の血、俺の肉、俺の魂なンだよ‼︎ 商品ひとつ、銅貨一枚でも回収し損ねてみやがれ!テメエらの今月の給金、払いやしねぇからな‼︎」
そう、この大会で得られた売上は大切な資金なのだ。次のビジネスに投資するための。
運営の事務局になっていたあの建物からこの店舗に駆け付けるまでの間に、ルナルドは暴徒たちの破壊がついには広場からも飛び出して、周辺の建物にまで拡大し始めたのをその目で見ていた。
守備隊がなぜその機能を喪っているのかは分からないが、その機能が回復するまで、もしくは近くの街から応援の守備隊が駆けつけるまで、この破壊は拡大し続けると思われる。
(これは……もしかすると、新たな“商売の種”が蒔かれ始めてるンじゃねぇか⁉︎)
暴徒たちによって内部を荒らされ、放たれた火によって燃え上がる建物。それを見たルナルドの頭脳にその時、天啓にも似た“閃き”が疾ったのだ。
この火災と混乱による「破壊」の被害がどれほどのものになるかは不明だが、そこから街を元通りにするため、建物を建て直すためには必ず資材、建材が必要になる。
今回得られた売上を含めた彼の財産を、他の誰よりもいち早くその建材の取引に投資するのだ。
先だってヴァルスラッグ銀行が融資を決定した石工組合などは格好の狙い目と言える。コネの有る貴族に話を持ち掛けて石切り場の採掘権を獲得してしまえば、需要が跳ね上がる石材をほぼ自分の言い値で取引できるかも知れない。
降って湧いた一攫千金の大チャンスだ。みすみすこの機会を逃すなど、有り得ない!
「馬車を取りに行ったヤツらはまだ戻って来ねぇのか⁉︎ 何をグズグズしてやがんだ‼︎ 金と商品を積み込む時間も必要だってのに、まったく!どいつもこいつも、使えねぇったらありゃしねぇ‼︎」
暴徒と化した観客による破壊は、暴動と呼んで差し支えないレベルまで、すでに拡大している。
おそらく暴動の原因は、賭けに負けた観客の不満が抑えられなくなった事によるものだろう。
賭けに参加して財産を失うのは完全な自己責任だ。なのにその不満を暴力に変えて周囲にぶつけるという愚劣極まる観客の行動に、ルナルドは怒りを通り越して呆れの感情さえ覚えていた。
しかしその愚劣さは形を変えて、予想だにしなかったチャンスを彼にもたらすかも知れない、その可能性にルナルドは気付いたのだ。
(そうだ、まったく、どいつもこいつも、ってヤツだ。へへへ……目先の欲に振り回されるような馬鹿どもは、結局は俺のような賢い人間の“養分”になるだけなのさ……。暴れろ、暴れろ!踊れ、踊れ!馬鹿どもが。せいぜい頑張って、ほど良く街を壊してくれよ)
「おい!そこのお前とお前‼︎ テメェらも、何ボサっとしてやがんだ!馬車が到着したらすぐに積み込めるように、荷物をまとめておくンだよ!さっさとしやがれ‼︎」
近いうちに舞い込む大金への期待と、思うように進まない撤収作業への苛立ちを心の中でない混ぜにしながら、ルナルドは一際大きな声で近くに居る従業員をどやしつけた。
あの時と同じだ。
マーテルの体の震えが止まらない。
バルコニーから見下ろす放映会場の光景は、忌まわしい記憶の中に在る、「奴隷狩り」に襲われて燃やされていくマーテルの村と、そっくりそのまま同じだった。
燃え盛る炎、逃げ惑う人びとが上げる悲鳴、目に飛び込んで来る、そこかしこで繰り広げられる暴力。
何も違わない。悲劇の犠牲になる者たちの悲痛な叫びは、狂気と暴力の前に虚しく掻き消されていく。
マーテルはそんな眼下の光景を、ただ震えて眺めている事しかできなかった。
このままここに留まっているのは危険だ。新たな火の手があちこちで起こり、それは放映会場である広場の中だけでなく、市街地にまで拡大し始めている。
マーテルの視界に広がるこの地獄は、そのうちマーテルが居るこの建物と、マーテル自身をも飲み込んでしまうだろう。
逃げるべきだ。頭では分かっているはずなのに、体が動いてくれない。
恐怖で萎縮した体は、動くための力を完全に喪ってしまったかのようだった。
(何故?何故なの?…………どうして世界は、こんなにも残酷なの?)
マーテルは思う。
奴隷の身に堕ちたその時から、彼女が居るこの世界は、常に苦悩と悲痛で塗り潰されていた。
ささやかな幸福に時折で良いから包まれつつ、心安らかな日々を送る。
それだけで良い、そう願いながら生きる人々がほとんどのはずなのに、現実はその願いからはまるで遠いところに在る。
視界に飛び込んで来る光景についに耐えきれず、マーテルは目を閉じた。
しかし動かない体とは対照的に、頭の中では彼女の苦悩と悲痛とが、ぐるぐると渦を描いて回転し続けている。
まるで彼女が持つ生命力を、暴れ続ける彼女の感情がひたすらにその回転で浪費しているかのようだった。
回転する感情の中に一瞬だけ。冒険者たちに散々に嬲られ、最期には一刀両断されるヒャクリキの背中が、クリスタルモニターに映し出されたその光景が、一瞬だけ表れて消えて行く。
生きていた事を喜ぶ暇さえ与えられず、ヒャクリキの命は儚くマーテルの目の前で消えて行った。
(世界は……私が生きて来たこの世界は、こんなにも救いようがないものだった。それが、それが真実だと言うの?)
感情と合わせて回転する彼女の思考はどういうわけか、これまで生きて来た彼女の人生を、その脳内に再生し始めた。
幼い頃の村での生活。昨日と変わらない一日が永遠に続くかのような、そんな穏やかな毎日。
寡黙で真面目な父親と、少し体が弱かった母親。どちらとも、彼女を深く愛してくれた。
生意気でとにかく腕白だった弟。でも嵐の夜は、怯えるあの子を宥めながら、同じベッドで一緒に眠ったっけ。
村の青年に抱いた淡い恋心。それはキラキラと輝いて、まるで宝石のような感覚だった事を覚えている。
焼け落ちる家屋。村人たちの悲鳴。生き物が焼ける臭い。
血まみれで倒れたまま動かない、両親と弟の体。
少し離れた場所には、腹部を剣で刺し貫かれ、苦しそうに顔を歪めるあの青年の姿が……。
異臭を放つ糞尿と吐瀉物に塗れた床。細い光が差し込むだけの小さな格子窓。
暗く、陰鬱で、殺風景な監禁部屋。同居人は狂ったように、土壁に頭を打ちつけ続けている。
どん。どん。どん。同じ間隔でいつまでも響く鈍い音。止めさせたいけど、私の体は動かない。私の口も、何も言わない。
(これは何?……これが、話に聞く“走馬灯”というものなの?)
今より若い、精悍なブランドンの顔。後ろに居るのはジョエルと……ビクターだろうか?
今でも覚えている。あの時は「コイツにする。早く鎖を解いてやれ」、私を見てそう言ったあの人に後光が差して、まるで輝いているかのように見えた。
私の腕の中で息絶えていく人たち。お願いだからそんな目で私を見ないで。
ごめんなさい。赦して。あなたを救けられない私を赦して。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……
遠ざかって行くヒャクリキの体。松明の光が届く範囲は狭く、冷たい地面に横たわった彼の大きな体は、暗闇に包まれてすぐに見えなくなった。
「俺も晴れて冒険者を引退だ。お前もよくやってくれたからな、ここらで奴隷から解放してやろうと思う。どうだ、嬉しいだろう?」
あの人のその言葉を聞いた私は、それが何故なのか自分でも理解できず混乱してしまうほどに、何も、何も感じなかった。
粗布のおくるみに包まれたその小さな体を、優しく抱き上げる。
お人形のように小さな手足、まばらに生え始めた柔らかな髪の毛。
キラキラ輝く瞳は、まっすぐに私を見ている。その輝きに吸い込まれてしまいそうだ。
笑った。
私を見て、笑っている。
なんて愛おしいんだろう。この子が笑っている間だけは、世界に色が着いているように感じられる。
マーテルは閉じていた目をゆっくりと開けた。
「……そうよ、私は死ぬわけにはいかない。こんな所で、終わるわけにはいかない!」
生きるのだ。こんな世界でも、こんな残酷な世界でも、生きるのだ。
今の私には、生きるべき理由が、確かな理由があるのだから。
意識を集中して震える膝に力を入れる。バルコニーの手すりに腕を絡ませて、重い体を持ち上げる。
恐怖に竦んだ身体を、悲壮な決意で動かしていく。
「帰らないと。あの子のところへ、生きて、帰らないと!」
ついにマーテルは立ち上がった。膝がガクガクと震える両足に意識を集中し、自分の体重を乗せてどうにか支える。
そして手すりに乗せた腕にも力を込めて上体を支えながら、バルコニーから部屋の中をゆっくりと振り返った。
誰も居ない。部屋の中に居た者たちはとっくにここから逃げ出してしまったようだった。
そこからはさも当然であるかのように、ブランドンの姿も消えていた。
(ああ、やっぱり。それはそうよね)
もぬけの殻になった部屋で一人、マーテルは思う。
主人に見捨てられたという現実に、何の感情も湧いてこなかった。
衆目の前であそこまでハッキリと楯突いたのだ。見捨てられてもそれは仕方が無い事だと言えた。
「いずれにせよ、もう限界だったという事よね……」
マーテルはその言葉とともに無意識にため息を吐く。
その瞬間、ドタドタと階段を駆け上がる音がしたかと思うと、すぐに一人の男が部屋の中に飛び込んで来た。
「貴女は!……ええっと、マーテルさん、でしたね。ご無事でしたか、ああ、良かった……」
ゼエゼエと荒い呼吸をしながらそう言うこの男は確か、ブランドンに冒険者組合の主任と紹介された男だった。
名前は確か……トリダーとか言っただろうか。
何が有ったのか知らないが、整えていた髪は乱れ、顔じゅう滝のような汗を流し、服は煤で真っ黒に汚れている。
「……などとのんびりしている場合ではありません!ここに居ると危険です!さあ、早く一緒にここから逃げましょう!」
男はそう言うとマーテルに向かって手を差し出す。
マーテルにはまっすぐ自分に向けられた男の眼差しが、彼の真剣さと緊張感、そして優しさと強さを映し出すような、そんな光を放っているように感じられた。
それは懐かしい光だった。かつてブランドンに救われた時に感じた、あの後光のような輝きだ。
マーテルはこくり、と一つ頷く。
そして未だ震えるその足で何かを確かめるかのようにして、ゆっくりと一歩目を踏み出した。