虎穴に入らずんば
雨が降っている。
この真っ暗な洞窟の中からでも聞こえるくらいに激しく。
ただでさえ重いこの空気がどんよりと沈んでいくようだった—
あの子とはもう何日も顔を合わせていない。
同じ洞窟に一緒にいるはずなのにひとりぼっちのようだった。
トラ「はぁ……」
僕ら2匹、虎と熊はこの太伯山の山中で人間になれるように毎日毎日 天に祈っていた。
そんなある日、祈りが通じたのか天帝様御一行が僕らの前に現れ—
桓雄「1把のヨモギ、20個のニンニク。それらと共に100日間、洞窟の奥深く一切陽の光を浴びないで居られたならば、君たちは望み通り人間になれるであろう」
そう御告げを承り、僕らは大喜びで洞窟で忌籠もりを始めたのだった。
しかし真っ暗な洞窟の中、嫌でも己と向き合うことになるこの時間にいつしか僕は耐えきれなくなってしまった。
クマ「人間になれたら貴方は何がしたい?」
トラ(僕は…)
クマ「私は沢山の子供たちに囲まれて、大きな家族が作りたいの!そして、みんなのお母さんとして名前をもらうの。いつまでもみんなに呼んでもらえるような素敵な名前を…。あなたにも何か"夢"はあるんでしょ?」
トラ「…夢…。僕は…」
知ってしまった。
僕にはやりたいことも、夢も、何もない。
君がただ人間になりたいと一生懸命に願い、楽しそうに夢を語るキラキラとしたその姿に憧れ、ずっと側で見ていたかった。
ただそれだけだったのに。
今はその笑顔さえも見ていられないほど僕の胸を締め付ける。
空っぽの僕の中がじっとりとしたドス黒い感情で満たされていくのを感じる。
トラ「ゔぅっ……あぁっ!」
やり場のないどうしようもない感情が目の前の熊を切り裂いてしまいそうになる。
クマ「きゃっ!…どうしたの?大丈夫?」
なんの疑いもない目で心配そうにこちらを見つめる。
トラ「……!あ、あぁ……僕は……。ごめん」
もう無理だ—
そして僕は洞窟から逃げ出した。
あの洞窟の試練で僕は、今まで知らなかった自分自身の愚かな姿を知ってしまった。
空っぽで、ただ感情に支配されてしまう獣の姿。
そんな自分が人間になんてなれるはずがない、あの子の隣に立てる資格なんてない。
土砂降りの雨の中、泥だらけになりながら行くあてもなく。
人間に変わり始めた見慣れない姿で慣れない二足歩行に何度も転びながらひたすらに逃げ続けた。
あの子が、あの洞窟が、あの山が見えないところまで、どこか遠くに…。
洞窟を飛び出す直前に見たあの子の姿はとても綺麗だった。
あの悲しそうな目は僕に一体何を訴えかけていたのだろう…?
でも僕にそれを知る資格はない。
人間でも虎でもなくなった一匹の"トラ"は天を仰ぎ静かに泣いていた。
–『なぁ、オレらを助けてくれないか?』
ひとりぼっちの虎の耳に聞き慣れない声が聞こえた。
トラ「た、たす…ける…?」
そう復唱した虎の前に1つの真っ赤な木で作られた入り口のような、見慣れないものが現れた。
そのてっぺんにはふてぶてしく、茶色い羽毛の鶏が留まっている。
それはのちに"鳥居"と知るものだった。
いきなりのことで狼狽える虎にその鶏は先程聞こえたものと同じ声で再び鳴き出した。
–『オレらを助けて…。"十二支"として戦ってくれよ!』
その鶏の太々しい姿に似つかわしくない切羽詰まったその声に、おそらく遠くの誰かの声を届けているのだろうと思った。
いつのまにか虎の目の前に下りていた鶏はついてこいと言わんばかりにこちらを見つめ、鳥居の下をくぐっていった。
突然の出来事に唖然としていた虎だったが、とにかく見知らぬ誰かが自分に助けを求めていたことは分かった。
でも、しかし。
こんな自分に何が出来るのだろうか?
何も成し遂げられず、名前も持たない自分に。
それでも、震えた声で自分自身に助けを求めていた。
その声にあの子の姿を思い出した。
最後に見たあの悲しそうな目—
もう、逃げ出すのは嫌だ。
こんな何もない僕に助けを求めてくれた人がいる!
虎はおそるおそるその鳥居をくぐる。
一歩踏み入れると身体が勢いよく吸い込まれるような感覚に意識を奪われ、真っ白な光に包まれた—
—光の中で見たものは僕の知るはずのない未来。
忌籠りを終えた熊は一人の綺麗な女性となっていた。
懐かしい笑顔を見せる彼女は熊女という名前をもらい、たくさんの子供達に囲まれて子々孫々と長く続く国家の祖となっていた。
あぁ…願いを叶えたんだな…
それを知れただけで僕は、少し救われた気がした—
???「… … ……た!やった!成功したぞ!!」
トラの故郷での話。
2話からが本編開始的な部分もあります。
トラキャラクターページ:https://tota996.wixsite.com/jyu-nishinwa/tiger