青年は最後の時を知る
お久しぶりです。
ヒロインがここで初めて出てくるって……
高校生、相丘琥太郎の一日は早い。
学生というのはどうしても朝が早くなってしまうものであり、当然のことながら体がそれに慣れなければ、辛くなってしまうものである。
「……おはようございます」
暗闇の中で、小さな声が響く。反応はない。まったくといっていいほどない。
「おはようございます。朝ですよ。起きてくださいませ」
声がだんだんと大きくなっていく。同時に響くのはかつかつとした音。歩く足音だ。言葉と共に、その音が近づいてくる。それでも反応はない。どこまでも静かだ。
「……5秒」
ぴたりと足音が止まった。小さな言葉が紡がれる。
「もし5秒たっても起きなければ、おはようのちゅーをしますよ。ごー……よーん……さーん……」
がばぁっ! ゆっくりと数える音が聞こえた瞬間、布団が大きく波打つ。間違うことは絶対にない。青年が跳ね起きた音だった。
「おはようございます。琥太郎さん。今日も早起きですね?」
跳ね起きて早々、琥太郎の耳に聞こえるは穏やかな女性の声。すぐに彼はその首を向ける。
「……おはよう、母さん」
「えぇ、おはようございます」
青年の言葉に優しい笑みを浮かべて返すのは、烏羽のような黒髪をすらっとまっすぐに垂らした、ゆったりとした雰囲気の女性だった。
彼女、相丘撫子は琥太郎の母である。仕事はどっかの博物館の学芸員らしいが、あまり興味のわかない琥太郎にはよくわからない。いつだったか本人自身でさえ忘れてしまったようだが、夫に逃げられて以降、女手一つで琥太郎を含めた家族を養ってきた。
「琥太郎さん、いつも早起きなのはうれしいのですけれど。私個人的には……一日くらいは遅起きさんでもいいのですよ? 母のおはようのちゅーを受けながら目覚めるのも、なかなか……」
「やめておきます。早寝早起きが一番なので」
「そうですか……。母は少し悲しいです。ですが早起きはとてもよろしいこと。朝ご飯がもうすぐできますので、一緒に食べましょう。あぁ……桜子さんは、すでに大学へ出かけられました……。ご飯も食べずに……」
撫子は赤い唇に指をピタッとくっつけて、軽く誘惑するようなそぶりを見せる。が、琥太郎はそれをさらっと流しつつベッドから降りて部屋を出ていった。撫子は息子の様子に、よよよと哀しがる様子を見せつつそう呟くのだった。
……ここまで見れば分かるが、撫子にとって家族、とりわけ息子である琥太郎は人生の全てのようなものである。
人生の全て。骨の髄まで琥太郎への愛に染まっているが故に、琥太郎のことは誰よりも深く知っていると、そう思い込んでいる。いや、思い込み過ぎてしまっていると言った方が正しいのかもしれない。そしてその思い込みから生まれる愛はもはや家族愛というより、男性に向ける愛といっても差し支えないほどであったりする。
そしてこの撫子、同じように古風を愛する女性でもあった。娘の名前は桜子で、息子の名前は琥太郎。とても古めかしい名前だ。からかわれの材料になってしまうかのような、そんな古風さ。
以前、琥太郎はどうして自分の名前が『琥太郎』というやけに古風な名前なのか、と質問したことがある。そんな中で撫子から帰ってきた解答は、
「大好きになる子供ですから。姓名診断とにらめっこしつつも、自分が一番好きなように名前を付けたかったのです」
といったものだった。
撫子という古風の名前をとても気に入っている母親であるがゆえに、琥太郎というちょっぴり古めかしい名前を、気に入ってつけたいと思うのはわかると、琥太郎自身も思っている。古めかしいことへの傾倒自体は問題じゃない。
琥太郎自身が思う問題は、この古めかしい感じと息子を愛する気持ちとが混ざっていて、目の前の相手が母というよりは妻か妾か何かなのか。そう思われそうになっているということなのだが。
「琥太郎さん琥太郎さん。はい、あーん……」
階段を降りてすぐに朝食。暖かい湯気の立ちのぼる白飯とみそ汁と、漬物に卵焼き。純和風の食事を食べ進めていると、目の前の椅子に座って同じご飯を食していた撫子が箸を動かして卵焼きを切った。それを琥太郎の口に運ぼうとする。完全に嫁が夫にするような、そんな仕草だ。撫子の表情は笑顔。だが本気だ。それを本気でやっている。
「……あーん、じゃないです」
口の近くに運ばれた卵焼きを、やんわりと拒否しながら自分の分の卵焼きを箸でつまんだ。箸を使って拒否はしない。それは箸渡しだ。それをしたら本気で怒られる。古風だから、マナーは厳しい。子供の頃からすごい勢いで覚えさせられたのを、琥太郎は覚えている。
「むぅ……。また拒否されてしまいました。琥太郎さんは厳しいですね……反抗期、ではないようですが……」
「いや、厳しいというか反抗期というか……。親と子の関係というか」
「そうですか? 私は琥太郎さんのことを愛していますよ? 親と子もそうですが……それ以上に」
「いや、母親としては大好きです。母親としては!」
「まぁ! 琥太郎さんが大好きと! 嬉しいです、今日は赤飯にしましょう! 琥太郎さんが大好きって言ってくださった記念日として!」
「ちょっと待って下さい。ストップでお願いします……。赤飯は美味しいし好きだから食べるけど……。それじゃごちそうさまでした。すぐ着替えていくので」
「お粗末様でした……。お皿、片づけておきますね。今日も琥太郎さんはかっこいいですよ」
テーブルから立ち上がり、パタパタと家の中を駆ける琥太郎へ、撫子は嬉しそうにくすっと微笑む。母の慈愛と、女としての愛と……。その二つが重なりあってるような、そんな笑顔だった。
「それでは、学校へ行ってきます」
「いってらっしゃいませ。今日も遅くならずにお帰り下さい。あぁ、今すぐにでも不安になってきました……。琥太郎さんが夜の魅惑に染まってしまったり、事故にあってしまったり……。あまつさえ不審者や異常者に襲われ、拐かされ、殺されてしまわないか、すごく不安に……。あの、学校までお送りしましょうか? そうしたら、帰りは迎えに行くだけで済むので……」
「いや、さすがに迎えに行かなくていいですので……。学校は通いなれてるし、徒歩で十五分もかかんないから大丈夫……」
「そうですか……。分かりました。本当に気を付けてくださいね?」
過保護の領域を飛び越えるような母親の言葉に見送られながら、白のワイシャツと黒いズボン、それに大きなリュックサック。いつもの格好を無難に着こなした琥太郎は家を出る。向かう先は学校。だけど背後で母は手を思いっきり振っている。たぶん自分の姿が見えなくなるまで、ずっと振っているつもりだろう。まるで上京する息子を涙ながらに送る親のようだ。それが毎日だと、さすがにつらくなる。
「……ふぅ……」
歩き始めてすぐ。右の角を曲がる。右の角を曲がるとそこは死角。家が見えなくなった。見えなくなると、軽く息を吐く。ため息というよりは、感情を切り替えるために吐く深呼吸のようなものだ。母と暮らす息子ムーブというか、そういったものを脱ぎ捨てて、一人の青年へと変わる。そんな合図だったりする。
「あ。こたろーいた。せーの、どーんっ」
その時、ふと後ろから声が響いた。それと同時に、誰かが自身へ襲い掛かる音が聞こえる。
感じられたのは、人間一人分の重さと、暖かさ。間違いない、人だ。人が自分へとぶつかって、抱き付いてきたか、くっついてきたかという音。
琥太郎には心当たりがあった。こんなことをするのは、彼女しかいない。
「……青葉さん? こんなところでいったい何をしていらっしゃるんですか?」
「こたろーがいたから。悪い?」
「いや。悪いというか……悪いわけじゃない……やっぱ悪い。動きづらいから、普通に」
悪びれもせずに言い放ったのはやっぱり彼女だった。おかっぱでぱっつんで、長いけどいろいろきっちりとした撫子とは違う、自然な柔らかさを纏った黒い髪が、抱き付いた衝撃で舞う。髪色と同じような黒い瞳と、綺麗なおでことが、琥太郎の姿を見据えた。紺のセーラー服が包むのは、柔らかさの中に確かな質量を持った二つのおっきな物体と、ふかふかとした肢体。
大きな肩掛けバッグからぴょんと飛び出ているのは、紫の布で包まれた竹刀だ。バッグの指定がされていないこの高校では、そう言ったことが簡単にできる。
彼女は高坂青葉。琥太郎の幼馴染であり……剣道部のエースでもある。
「むー……こたろーの草食系」
「それは悪口じゃないと思うんだが」
「十分悪口。私が悪く思ってるから」
琥太郎の返しにむくれつつ、それでもくっつけたその体を離そうとはしない。彼女と琥太郎は家が近いから一緒にいる期間も長いが、昔からそうだった。すっごく仲がいいねーって幼稚園の先生に言われたり、ガキ大将にからかわれたり……。それを見たり聞いたりした青葉のまんざらでもない表情を、琥太郎は覚えていたりする。
「……ほんとに青葉は離れたりしないよな、昔から」
「うん。だってこたろーと一緒にいるのが嬉しいから」
琥太郎の言葉にくすっと微笑みつつ、青葉は言葉を返す。まるでそれが当然だと言うように。青葉自身は本当に当然だと思っているかもしれないが。
「けれど……今は離れてくれ。さすがにつらい。それに……噂になっても困る」
「噂になってもいいけど……分かった。こたろーがそういうなら」
青葉はこくんとうなずいて、少し離れる。少しだけ。本当に少しだけ。ならんで寄り添ってという位置関係は変わっていない。変わっていないが、琥太郎は少しづつ学校への道を歩き始める。
そうして二人で歩き始めて数分経った頃だ。横の道からパタパタパタと駆ける音が聞こえた。
「……っ……」
その音に嫌悪感を浮かべたのは他ならぬ青葉だ。眉間にしわが寄っている。そしてぱたぱた音の主が、姿を見せた。
「よー、琥太郎。あたしも一緒に入れてくーんね?」
軽く手を振りながら、琥太郎の隣に立ったのはポニーテールの少女だった。その髪の形は、活発なイメージを周りに振りまく。
近所に住む同級生の少女、宮川玲。中学の時転校してきた少女であり……何の因果か高校に進んだ現在に至るまで、琥太郎とは仲のいい立場を築いている。築いているのだが。
「来るな山猿。目障りだし耳障り」
「だーれが山猿だってのっ!」
「猿じゃないなら何? 豚?」
「おーこら、太ってると言いたいのか。温厚なあたしでも怒る時は怒るぜ?」
早速言葉の応酬が始まった。
青葉と玲。とてつもなく二人の仲が悪い。どうしてだかわからないけど、本当に仲が悪いのだ。琥太郎自身には、仲が悪い理由なんてわからない。初めて会った時から、なんかこうだった気がするが。
「良いもん。玲に肉がついても……どうせ違うところにしかつかないだろうから」
「おいこらぁっ! 人が気にしてることをよくこんな平気な顔で言い放つな! 自分がそれを持ってるからってさ!」
「持つものはそれを消せないから。だから私は玲のストンとした寸胴がたまにものすごく羨ましく……」
「そこに直れ―――!!絶対本心じゃないだろそれ! 明らかに棒読みだったろ! ……うぅ……牛乳とか
飲んだり、サポーター買ったりしてるんだけどなあ」
玲と青葉の戦いはたいていそうだ。こうやって青葉が言葉で玲を切り伏せて勝利。剣道部のエースだから、言葉も切れ味が鋭いのかもしれない……というよりは、玲が口げんかに弱いだけかもしれないが。
「うー! そもそも琥太郎はどっちが好きなんだ? おっきなのとちっちゃいの!」
涙目になった玲がこっちに意見を求めてきた。釣り目に涙が溜まって、可哀想に見える。
「私も気になる。どっちがいいっていう回答で、これからの関係が大きく変わるかもしれない」
隣の青葉もじっと琥太郎を見つめてきた。足が止まる。二人の瞳が自分の体を射抜いているようで、正直焦る。冷や汗も出てきている。
「答えは出せないな。さすがに、今ここでは」
「いーや、答えを出してもらおう! きっぱりと!」
「うん、こたろーははっきりするべき」
「……本当に出さなきゃダメか?」
「あららら~~。それはそれは私も気になりますね~~」
『!!』
後ろから放たれた声に、琥太郎も青葉も玲も。皆思わず振り向いた。
そこには、白衣を着こなす大人の女性がいた。茶色のふわふわウェーブと、眼鏡。それらがこの女性におっとりとした雰囲気を与えている。その見た目に相応しいようなおっとりした口調で、話に混ざってきた。
「私です。おはようございます、相丘くん♪」
「……永田先生」
琥太郎は思わずそう呟いた。
彼女……永田輝美は高校入学からずっと担任教師となっている女性だ。ずっと親身になってくれている。白衣の教師なのに、なぜか担当は世界史なのだが。
「……教師なのにこたろーの好みが気になるの?」
「えぇ、気になりますね~~。教師としての性でしょうか~~」
「……教師?」
「えぇ、そうですよ~~。さて、相丘くん? ほんとに気になるんですよ……?」
おっとりした笑顔を浮かべつつ、輝美はゆっくりと琥太郎に近づいていく。やばい、すごく本気だ。そう思った。
そう思ったため、打開しようとした琥太郎は時計を確認する。
「……っと、もうすぐ門が閉まる時間だな。行くか」
そしてそう呟いて走り出した。
「こたろー、待って……!」
「琥太郎!? おーいー!」
「相丘く~ん?」
走り出した琥太郎へ、思わず三人もついていく。信号付きの交差点を、一気にかけていく。四人全員、一気に駆け出したせいか、突破することができた。交差点を抜けたら、もう正門が見える。
「はぁ……はぁ……こたろー……速すぎ」
「逃げ足だけははやいんだからなあ……琥太郎?」
追いついた三人が、琥太郎を見る。
琥太郎は、覚悟を決めたような、恐ろしい表情を浮かべていた。そして琥太郎の見ている方向に目線を向けると……。そこには一人交差点を渡る子供の姿。
その信号は赤。真っ赤な信号。しかもそれを……誰も気づかない。
「ええっ!? 子供……子供が道路に……!? 相丘君!!」
「こたろー、だめ……あぶない!!」
「車が、車が来てるぞ!!?」
叫び声が聞こえる中でも、体が勝手に動いていた。子供を救うために、琥太郎は一気に交差点へと走り出し、子供を思い切り突き飛ばす。
ちょうどその時、暴走車が思いっきり走ってきて……。
映像は、ここで途切れる。
異世界行くまで長いな……
もうすぐプロローグ終わります。