許婚とはどういう風に出会えばいいですか
「明日、許婚が来るから準備をしておくように」
そう言われたわたしは、反射的にはいと答えていた。
許婚が居ることも初めて知った。常識的に考えれば生まれたときから居たのだろうが、かといって自分から尋ねることもしなかった。
父から許婚として挙げられた青年を、わたし、サーシャは良く知らない。
レイデンブルク家の三男、リオン・レイデンブルク。
家名はもちろん知っている。レイデンブルク家といえば知らない人の居ない公爵家だ。
子爵に過ぎないわたしが嫁ぐにはあまりに不釣り合いで、父が苦労して根回しをしたことが容易に想像できた。
父に形ばかりの感謝を述べるが、何の感慨もわかず、少し申し訳なくなる。
書斎を出ると、すぐ扉の前で義妹と出くわした。
義妹はわたしと違って背が高い。そのため、自然見上げるような形になる。
「ごきげんよう。」
慌てて脇によけ軽く挨拶をするが、返って来たのは舌打ちだった。
まあ、こういう態度には慣れている。が、今日はいつにもまして辛辣だ。
義妹はわたしを無視するように足早に、父の書斎に入っていった。
母を早くに亡くしたわたしとは異なり、義妹は義母にべったりだった。
そこでどう聞かされたかは分からないが、自分がローゼン家の正当な後継者だと信じて疑わなくなってしまったのだ。
冷たくあたられたことは一度や二度ではない。
それでも父が、わたしたち姉妹を平等に扱おうとしてくれていたため、辛うじて居場所を確保できていたが、義妹はそれですら我慢ならないらしい。
「どうしてわたしじゃなくて、お姉さまなのよ!」
扉が閉まろうとしている中、室内からヒステリックな声が聞こえてきた。
室内で響く嵐のような叫び声を扉越しに繋ぎ合わせて、わたしが推論した内容は存外、シンプルだった。
義妹にも婚約者の話が出たようだ。どうやらわたしたち姉妹は同時に縁談が進められていたらしい。
わたしはレイデンブルク家に嫁ぎ、そして義妹はサスティア家から婿をもらう。
通常、男子が生まれなかった家では、姉妹のうち姉の方が婿を取り、家督を継ぐことが多いが、今回妹が婿をもらうことになったのは、義母が存命なための父の配慮だろう。
妥当な判断だと思う。だが、それが義妹には気に食わなかったらしい。
義妹が学園で、貴族たちに恋慕していることは知っていた。
流行り病のように次々相手を変え、時間場所問わずにいちゃつくものだから、学園中で噂になっていた。
わたしも二度ほど出くわしたことがある。
そうして彼女が好きになる男性は、決まって身分が高かった。
大方、いざ決まった縁談の結果として、わたしの相手の方が身分が高いことに腹を立てているのだろう。
いくら公爵家とはいえ三男と、子爵家の家督を継ぐのでは大体同じくらいな気もするが、そんな理屈が通じる相手でもない。
彼女にとっては公爵家の夫人という肩書きこそが重要なのだ。
わたしは未だ荒れ狂う書斎から足早に歩き去った。
別邸にある自室に戻ってベッドに飛び込むと、もやもやした気持ちが胸を覆った。
特に好きな人が居るわけでもない。恋愛結婚がしたいという訳でもない。
まして、義妹に遠慮しているわけでもない。
貴族において、政略結婚が如何に重要かというのは分かっている。
何故か片付かない気持ちに釈然としないまま、泣き出すでもなく枕に顔を埋めていたが、ふと思いついて顔を上げた。
そうだこんな時は、あそこに向かおう。
幸い、侍従も明日の来客のための準備で忙しそうだ。
こっそりと扉を開け、サーシャは部屋を抜け出した。
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屋敷の屋上まで来たサーシャの長い髪を、容赦なく風が巻き上げる。
屋上は危険だからと、普段は来てはいけないことになっている。とはいえ、四六時中監視するような場所でもない。
鍵が壊れていることに気づいてからというもの、気分が滅入ったときに隠れて出入りするサーシャのお気に入りポイントだった。
身をかがめて注意深く建物の端まで来ると、靴を揃えて脱いだ。
建物の縁に腰掛け、脚を空中に放り出す。
王都が一望できるこの景色が、屋敷の中で一番好きな場所だった。
日の当たる朝の景色もきっと綺麗だろうが、こうして腰掛けて過ごすには、今くらいの暗い時分が望ましい。
万が一にも下から見られたら、飛び降りようとしているんじゃないかと大騒ぎになる。
そうなったら、屋上には今度こそ出入りを禁じられてしまうだろう。
眼下に広がる石畳を覗き込んでいると、ふと今日の昼、令嬢たちとした茶会を思い出した。
相手との距離を推し量るような、中身のない表層上の会話。
本人の前では常に同調するのに、その反面、貶める相手を絶えず探している。
人を傷つけないためと、配慮という言葉で正当化された、常識の盾に隠れ住む人たち。
誰もが思慮深い振りをして、目の前の相手より少しでも賢しいつもりでいる。
くだらない。そう感じる自分が嫌になる。
きっと、彼女たちにしてみればそんなつもりは毛頭ないはずだ。
"心"から優しい彼女たちのことだ。わたしが傷つく道理もないし、何なら彼女たちを傷つけているのは、客観的に見ればわたしの方だ。
これはきっと被害妄想に過ぎない。
それでも頭をよぎってしまうのは、わたしがおかしいのかもしれない。普通なのか、異常なのか、いずれにせよ、これまでの人生のうち、どこかで間違えたのだろう。
ああ、駄目だ。この考え方は。こうしていても良くなることなんてない。
もし、ここから飛び降りてみたら。そうしたら、少しは気が晴れるだろうか。
そんな勇気もない癖に、地面に広がる赤い血溜まりとその中央に倒れる自分を、自嘲的に想像してみる。
想像した世界は、現実と同様、あまりに魅力的じゃなかった。
もやもやした気持ちが落ち着くどころか増幅しているみたいだ。
もっと自由に生きれたら。
サーシャはふいと顔を上げ、風に吹かれるまま、ぼんやりと時計台を見つめた。
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見られていることに気付いたのは、それから数分が経ってからだった。
尖塔の先端に、細い青年が立っている。
紺の短髪がはためき、バランスの悪い足場で、仁王立ちするようにたたずんでいる。
見覚えのある服を着ている。サーシャと同じ学園の学生服だ。
大きく目を見開き、こちらを驚いたようにじっと見つめていた。
どこか猫のようなその姿は今にも夜空に飛び出すようで、果てしなく自由に見えた。
見つめあっていたのは数秒だっただろうか。先に動いたのはサーシャだった。
通報されてはもうここに来ることもできない。
指を口の前に持っていき、黙っていてとジェスチャーをした。
不思議そうにしていたが、相手も同じポーズを返す。
よく考えれば彼も、あんなところに許可を得て登っているわけではないだろう。お互い様である。どうやら通報されることはなさそうだ。
しかし居心地が悪くなって、サーシャは慌てて脚を引き上げ、靴を履いた。
今日は冷える。
足早に屋上を後にしようとして、最後に振り返る。尖塔の先端で、彼はこちらを見て微笑んでいるように見えた。
暗さによる見間違いかもしれないが、サーシャは振り返ることなく自室に戻った。
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夢を見た。
わたしの婚約者として、二十ばかりも年上の男が紹介される夢だ。
父が格式ばった顔をして、神父のように、わたしと婚約者の間に立つ。
婚約者はお世辞にも優れた容姿とはいえず、わたしの好みとはかけ離れた外見だったが、何も思わなかった。
若い娘が、父のような年齢のものに嫁ぐのは、貴族の世ではよくあることだ。何も思わない自分が、自分で少し嫌になる。
脂ぎった肌がてかてかと光る。荒い鼻息が首元にかかる。
女性として、婚約者を好きになることは義務だとしても、これはなかなか骨が折れそうだ。
このまま結婚すると、わたしは屋敷を出ることになる。
そうなるともう、空は見えなくなるのかもしれない。
風を浴びて腰掛けた、あの冷たい感覚が遠いものに感じられる。
王都の景色を思い出し、ぼんやりとそれは嫌だな、と思う。
妹が勝ち誇ったような顔で拍手しているのが見える。
あんなに顔を歪めなければ美人なのに。けして本人には言わないけどそう思う。
妹から始まった拍手は徐々に大きくなり、うねりとなっていった。
顔の見えない様々な人が立ち上がり、義務のように、味気なく手をたたく。
気分が悪くなってくる。やめてほしい。でも、止められない。
無作為に、揃わないまま、ただ音だけが大きくなっていく。
視界がゆがむ。
暗転。拍手。
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ぱちぱちと音が鳴る。
サーシャは焦げた匂いで目を覚ました。
初めに、目に映ったのは赤い龍だった。
お気に入りのカーテンにとりつくように大きくうねり、壁を舐めるように広がっている。
龍じゃない。これは、炎だ。
部屋中が夕日に照らされた時よりも、遥かに濃い赤に照らされている。
燃え盛る別邸で、サーシャは一人取り残されていた。
やられた。
何かが爆ぜるような音が聞こえ、一際激しい熱風で、頬に熱さが広がる。
慌ててベッドから飛び降り、扉に取りつく。
発火だろうか、放火だろうか。火をつけたのは誰か。
何故か義妹の顔がふっと浮かぶ。
わたしが死んだとて、義妹が公爵家に嫁ぐわけではない。
そんなこと分かりそうなものだが、あの義妹ならばそう考えるかもしれないのが嫌なところだ。
開けた扉の先も、室内よりなお燃え盛る廊下だった。
早く逃げないと。
玄関の方を一目見て、諦める。酷い熱気と煙だ。
黒煙で視界が遮られ通れる気がしないし、上手く通過できたとしても、良くて火傷、悪くて消し炭だ。
踵を返して、裏口の方角に取って返す。こちらもこちらで、なかなかの焼け具合だが、可能性があるとすればこっちしかない。
廊下を駆け抜ける。踏み出すたびに足裏が痛むが、そんなことは言っていられない。そこの角を曲がれば、もう裏口だ。
身をかがめ、角を曲がり、そこに広がる裏口の光景を見て、サーシャは思わず膝から崩れ落ちそうになった。
出入り口は見る影もなかった。
天井は崩落し、しっかりと行き先を塞ぐ。嘲笑するようにその上で、炎が舞い踊る。
どうする?どうしたらいい?
考えがまとまらないうちに、天井がミシミシと音を立てる。
脳裏に泡のように、様々な顔が現れては消える。
楽しそうに微笑みかける昔の友人、わたしに食って掛かる義妹、父は困り眉で優しく語りかける。そして写真で見た母の顔。
あれ、もしかしてこれは走馬灯ってやつじゃないか?
あ、これ、駄目かも。
そう思うと同時に、天井が音を立てて降ってきた。
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天井とともに降って来たのは、青年だった。
細身の体躯が柔らかく跳ね、猫のように着地する。
宝剣が煌めき、無数の瓦礫を目に見えぬ速さで打ち落とす。
「やあ、初めまして。昨日ぶりだね。」
火の粉を纏って、宝剣を鞘に仕舞った青年が声を上げる。
紺の短髪がチリチリと音を立てた。橙に照らされた瞳がまっすぐにわたしを見つめる。
「僕はリオン・レイデンブルク。キミの婚約者だ。」
初めて見るはずの婚約者は、昨夜、夜景越しに見た顔をしていた。
「さて、ちょっと揺れるよ」
「きゃっ!ちょ、ちょっと!」
リオンは制止も聞かずに、呆然としているわたしの膝と腰に手を回し、一思いに抱え上げた。
必然バランスをとるために、彼の首にしがみつくことになった。
やってから気付いたが、恋物語でしか聞いたことのないようなポーズだ。
「ねえちょっと!」
恥ずかしくて声を上げるが、リオンは聞く耳持たず駆け出した。
リオンは燃え盛る屋敷の中を走りながら、息も切らせず、耳元で囁く。
「ふふ、まさかキミが婚約者なんてね。」
「あ、貴方こそ。」
頭がうまく回らない。夢と現実の境界がよく分からない。
周りでは炎が燃え盛っているが、現実味がない。リオンは走りながらも話すのを止めない。
「昨日までは、僕は婚約がとても嫌だったんだ。自由になれないことがもどかしくて、死んでやろうかと思ってた。飛び降りようかと考えてたんだ。」
昨夜、飛び降りようと尖塔を訪れたリオンの目に飛び込んできたのは、銀髪をたなびかせる妖精だった。
星空の下、高さなんて忘れたかのように、空中に脚を投げ出し、建物の縁に腰掛けるその姿は、一枚の絵画のようだった。
「なんか、その瞬間、馬鹿馬鹿しくなっちゃって。僕と違って、キミは、どこまでも自由に見えた。」
「自由に見えたのは...。」
自由に見えたのは、貴方の方だ。サーシャの声は言葉にならず、どこかで建物の、崩落する音が聞こえた。
リオンがすいと左に身体を傾けると、天井の右側が大きく崩れ落ち、もうもうと煙が上がる。
「その時決めたんだ。もともと失くすつもりだったんだし、自由に生きよう。この命はキミに捧げようって。」
今にも崩れそうな瓦礫に足をかける。サーシャを抱えているとは思えないほど、身軽にバランスを取り、器用に駆け上っていく。
思わず、抱き着く手を強めたサーシャにリオンは微笑みを浮かべる。
「大丈夫、絶対に死なせないよ。」
絶体絶命の状況で、彼の声は不思議と明朗に響いた。
頬が熱くなっているのは、炎のせいだけではないかもしれないことを、サーシャはようやく自覚した。