第三十八話 奥田真理子の事情
「母は……、野犬に襲われた兄を庇って、亡くなったの」
マリが小さな声で、でもハッキリとした口調で話しだした。
「私が小さかったころ、小学生になったばかりの兄と母と3人で、近くの公園へ遊びに行ったの。
公園につくまでの間に、生ゴミの収集場所があって、今朝出されたばかりのゴミの袋がいくつか重ねてあった。
公園で遊具を使ったり、木の下に落ちている枝を拾って兄のチャンバラごっこに付き合ったりして遊んだわ。
良く覚えていないのだけど、そんなに長く遊んでいなかったんじゃないかな、帰りにまだゴミが収集されずに残っていたから。
行きと違っていたのは、野犬が鼻先を突っ込むようにしてゴミをあさっていたこと。
よせばいいのに兄は、まだ手に持っていたチャンバラごっこに使った木の枝を振りかざして、野犬に向かっていった。
母は止めたのよ、やめなさいって。
野犬も、お腹を空かせて気が立っていたんだと思う。
兄の足に噛みついた。
母は、兄のもとに駆け寄り、兄が落とした木の枝を取って野犬のほほに向かって打ち付けた。
そうしたら……」
そこまで話して、マリは急に押し黙り、そうかと思うと体を震わせながら嗚咽を漏らしはじめた。
「母の……喉元に……、うっ、うぐっ、うっ……」
俺は、そっとマリの頭を自分の胸に抱えるように手をまわす。
マリは、そのまま体を預けてくる。
「わかった、もう話さなくてもいいよ」
俺の言葉と同時にマリの嗚咽が慟哭へと変わる。
どれぐらいそうしていただろうか、宿の階下から4人の声と階段を上ってくる音がしてきた。
マリの肩を掴んで、そっと引き剥がす。
「ちょっと、行ってくる。大丈夫?」
マリは小さくうなずく。
それを確認して、俺はベッドの縁から立ち上がり、マリの部屋を後にする。
ちょうど、廊下に平行に作られた階段を上りきって、自分たちの部屋のある方に折り返そうとする4人と目が合った。
「どうだ、マリは?」
リップオフが聞いてくる。
「うん、話を聞いた。幼少の頃の重い事情によってトラウマになっているみたい」
「重い事情?犬に噛まれたとか?」
リュークが聞いてくる。
なかなかに鋭い。
でも、そんなものでは済まない。
「う……ん。話してくれるかどうか分からないけど、詳しくは本人から聞いて。本人の承諾無しに、俺の口から言える事ではないよ」
「今はどうだ?聞けそうか?」
リップオフは遠慮しない。
「どうだろう、今まで泣いてたから」
「その話をしながら泣いてたんだろう?同じ話で、また泣くよりも、今聞いた方が1度で済んでいいんじゃないのか?」
それはどうだろう?あまりにも、配慮が無さすぎるのでは?
「もうすぐ昼飯でしょう。食べながらにしませんか?そっちの様子も聞きたいし」
俺は提案をする。
「わかった、食堂に先に行ってるからマリを連れてきてくれ」
リップオフはそういうと階段を下りて行った。
エヴリウェアがその後につづき、リュークとハタカが
「頼む」「お願いします」と、俺に声をかけながら下りて行った。
俺は、マリの部屋の前まで戻ってドアをノックする。
「マリ、少し早いけどお昼ご飯を食べようって」
中から声はするけど、何を言っているのか聞き取れない。
マリの方もそうかもしれないな。
辛うじて、「入って」という声が聞こえたのでドアを開けて顔を覗かせる。
「マリ、少し早いけどお昼ご飯を食べようって」
俺はもう一度言う。
「先に食べてて。後から行く」
少し鼻にかかったような声になっている。
さっきまで泣いていたからだろう。
かわいいと思ってしまったのは不謹慎だろうか。
「皆が、マリの話を聞きたがってる……」
「コウさん、話してくれる?私がいない所で……。先に行って話しておいてもらえる?」
「いいの?」
「うん」
「わかった。簡潔に話すから、10分もしたら下りておいでね」
昼食を取りながら、マリの話は本当に簡潔に終わらせた。
目の前で母親が犬に噛み殺され、それが恐らくトラウマになっているだろうと。
それが今回の俺の生死を彷徨う程の事件と重なったであろうことは、想像に難くない。
「マリは、もう戦えないかもしれないですね」
俺は感じたことを話した。
すると、
「そうでもないさ、トラウマすなわち心的外傷後ストレス障害っていうのは、克服は難しいが上手く付き合っていく方法はいくらでもある」
リュークが話を始める。
流石、研修医だな。
「過去の記憶に振り回されずに生活することは充分可能なんだ。
方法の1つとしては、トラウマ体験者を孤立させないようにして、安心できる仲間や身近な存在などの“コミュニティ”で支えること。
マリは今、一人じゃない。
同じ目的を持った仲間と行動を共にしている。
俺たちがいる。
間違っちゃいけないのは、マリに対する俺たちの態度だ。
マリの過去に触れないようにしようとすると、それが却ってマリを孤立させる。
大切なのは、トラウマを抱えた人の言葉に耳を傾けて一緒に乗り越えていこうという“寄り添い”の気持ちだ」
む、難しい……。
なんだか、もっともらしいこと言っているけど、全然理解できない。
「マリがコウに話をした、その話をコウが聞いてあげた時点で、トラウマのカウンセリング第1段階はクリアできたことになる」
なるほど、それはわかる。
「それと今後、戦闘を続けるからには、マリのトラウマとなっている記憶は想起され続けることになるから、戦闘は絶対安全、安心なものだと感じさせる必要がある」
「それって、矛盾してない?絶対安全、安心な戦闘なんてないだろう?死んでも生き返るゲームじゃないんだから」
「そうは言っても、このゲームは俺たちを殺すことが目的ではないだろう?色々な面で、プレイヤーの生存率を高めるようシステムは組まれている。プレイヤーが死ぬこと忌避する傾向にあるんだ」
全く同じことを、俺もついこの間までは思っていた。
でも……。
「俺は、死にかけたけど……?」
これについてリュークはどう説明する?
「それは、俺たちのこのゲームのプレイの仕方が間違ってるからだよ」
うっ……、俺がアドバイスしてきたゲームプレイの仕方が間違っていると?
「俺たちは、“職業は2つ組み合わせることができる”と聞いて、得られたステータスポイントとスキルポイントをその2つ目に置いておくため、振り切らずに残した状態で戦ってきただろう?それがレベル適正ではなかったってことだ。スキルポイントなんて、半分近く残している」
確かに、スキルレベルの上限を解放すると能力も上がるスキルは多い。
真紅眼狼に破られた『ウォール』もレベル上限を解放すると受け止められるダメージ量も上がっていく。
今まで、ダメージ量オーバーで『ウォール』が消滅することが無かったから、レベル上限の解放を最小限に抑えていたことが仇になったようだ。
「お前たち、そんなことしてたのか?どうりで……」
リップオフも今回の件は納得いかないところがあったらしく、原因がどこにあったのか分からなかったらしい。
「じゃあ、ステータスポイントを割り振って、スキルを適正レベルまで解放していれば、安心、安全な戦闘ができると?」
俺が聞くと、
「だろうな」
リュークではなくリップオフが答える。
「そう。そこで、マリには今までのプレイが少し間違っていたんだよと伝え、ノーダメージに近い状態で、もう1度真紅眼狼を目の前で倒してやれば、うまく復帰できるはずだ」
と、リュークは分析する。
「問題は、森に行けるかどうかですね?」
ハタカが返す。
「大丈夫、行けるわ」
壁の向こうから声が聞こえ、マリが顔を覗かせる。
「ごめんなさい、聞き耳たてちゃった」
「いつから、そこに?」
「コウさんの、マリは、もう戦えないかもしれないですね。から。リュークさんのうん蓄は流石ね」
だいぶ前から聞いていたようだ。
「それが生業ですから」
リュークはちょっと澄ましたように答える。
「コウさんに聞いてもらえて良かった。私、森には行ってみるわ。その後、うまく戦えるようになるかどうかは、分からないけど。それと、『キュア』のレベル上限も解放しておくね」
「良かった」
俺は、素直にそう思った。
「コウも、スキルレベルは上げておけよ」
「わかってる。『ウォール』だけじゃなく、『シールドブロック』『ショルダー』も上げておく」
「どれだけ、スキルポイント残してたんだ?」
リップオフに聞かれて、
「6」と答えると、残し過ぎだと叱られた。
4人に森での話を聞くと、亡くなった3人の骨らしきものが、それぞれ少しずつ残っていたらしい。
それをかき集めてそれぞれの墓を建てたという事だった。
また、エヴリウェアに詳しく話を聞くとレベルはまだ6に上がったばかり、そりゃ殺られるわな。
完全に適正レベルではないので、安心、安全な戦闘をマリに実感させるにはエヴリウェアは正直邪魔になる。
リップオフの伝手を使って適正レベルのメンバーを探してもらうことになり、俺たちは2手に分かれることにした。
もともとの4人組パーティーで森へ。
リップオフはエヴリウェアのパーティーメンバー探し。
見つかったら俺たちに合流する。
リップオフもエヴリウェアも、その組み合わせにお互い渋っていたが、申し訳ないけどそれぞれ自業自得な部分があるので文句は言わせない。
数日の足止めをくらったけど、とりあえず、次の街への進行再開となった。