四
◇
突然出て行ってしまった帝の姿に、そしてそんな帝を一人にしたまま入れ替わりで入ってきた沖田さんの姿に、私はただうろたえる。
だって、沖田さんからは怪しい行動をしたらただじゃおかないと言われていたのに……果たして帝を一人にしてしまっていいのだろうか、と、そう思ったから。
厳しい目つきで私のすぐ目の前まで歩いてくる沖田さん。
その沖田さんのあまりにも恐い表情に、私はそれ何も言えずに視線を反らすことしか出来なかった。
「千早」
「……っ」
目線を床に落としたままの私の耳に届く、沖田さんの低い声。
それがとても恐ろしい。
一体何を言われるのか、私一人でどうやって説明すればいいのか、何一つわからなくて。
けれど、そうやって怯える私に、沖田さんは口調だけは根絶丁寧にこう言った。
「秋月のことは気にしなくていいから。彼が千早を置いて脱走するなんてこと、考えられないし」
それは相変わらず気が立っている声だった。でも、私への最大限の気遣いが感じ取れる。
「だからとりあえず座って。そして……秋月が戻って来るまで話をしよう。彼からは、君が説明してくれるって聞いたんだけど?」
彼はこう言うと、立ち尽くす私を尻目に席につく。
そうして、反対側の席から、私の顔を覗きこむようにして続けた。
「僕はちゃんと覚悟を決めたよ。“君の話を疑わない”と。だから、君の方こそ僕を裏切らないで。――いいね?」
「……っ」
その声に私がようやく顔を上げれば、沖田さんの瞳がこちらをじっと見つめていた。それはただ真っ直ぐに、少しも揺らぐことなく……。
その強い眼差しに、私は悟る。
少なくとも今の沖田さんは本気だ、と。本気で私の話を受け入れる覚悟が出来ているのだ、と。
もしかしたらそれは、実際私の話を聞いて変わってしまうものかもしれないけれど。
それでも、目の前の沖田さんは私の話を精いっぱい聞こうと決めてくれている。
ならば、やはりこちらも嘘をつくことなど出来ない。小細工も誤魔化しも効かない。もしも嘘などつこうものなら、きっと一瞬で見破られてしまう……そんな気がするから。
それにそもそも、私には帝のように嘘と真実を入り交ぜて上手く話すようなことは出来ないのだ。
帝のように周りの心を掌握し、信じさせる話術は……私にはない。
つまり、私には最初から真実を話す選択肢しか用意されていないのだ。それしか、今の私に出来ることはない。
――いいんだよね、帝……。全部、話しちゃっても……。
私は沖田さんの真っ直ぐな視線に囚われて、再び息を呑む。
――やっぱり、怖い。
でも、きっと大丈夫。沖田さんなら……きっと信じてくれる。少なくとも土方さんよりは……。
そうだよ。だって沖田さん、本当は優しいところあるもの。
街で迷子になったときだって、襲われたときだって……ちゃんと助けてくれたもの。
私はそのときのことを思い出しながら、ようやく椅子に腰を下ろした。
そうして膝の上で両手を強く握りしめ、心に決める。
――全部話そう、と。
私たちが未来の人間であること。気がついたらこの時代にいたこと。
そして……新選組の未来を知ってしまっていること。
だって、帝は“私に任せる”って言ったんだから。なら……私はこの目の前の沖田さんを信じて、全てを話そう。
信じてもらえるかはわからない。でも、沖田さんは“疑わない”と言ってくれたから……。
――だから……。
私はようやく顔を上げる。そうして、私を見据える沖田さんを真っ直ぐに見返し――ゆっくりと、唇を開いた。
◇◇◇
「クソッ」
――何やってんだよ俺は……!
団子屋を出た俺は、沖田さんと短い言葉を交わした後、その場を離れていた。
“ちょっと喧嘩しちゃって。頭冷やしてきてもいいですか。話は……千早から聞いて下さい”
そう言った俺の顔を見て、沖田さんは訝し気に顔をしかめた。けれど、どういうわけか一言も反対はしなかった。
「そう。わかった」――と、それだけ言って、彼は再びのれんをくぐり抜けて行った。
そうして俺は今、街の喧噪の中をただ一人歩いている。
夏の日差しの下、それでも21世紀に比べればずっと涼しい街の中を、ただあてもなくフラフラと歩きまわっていた。
――ああ、走りたいな。
人ごみをかき分けるように歩き続けながら、俺はふとそう思う。
先ほど千早に言ってしまった言葉。
“新選組を出よう”と、つい口を滑らせてしまったあの言葉。――それを深く後悔しながら、俺は今にも駆け出したい衝動に駆られていた。
こっちに来るまでは毎日10キロは走り込んでいた。それが、今では走る機会はめっきり減った。
以前は走れば大抵の悩みや不安、衝動と言った負の感情は発散させらたというのに、その手段を奪われた今、胸の中に生まれたしこりは日に日に肥大化していくばかり。
――んっとに、……最悪。
あんなことを言うつもりはなかった。本当はもう少し時期を見て言うつもりでいた。
なのに、沖田さんの千早を見るあの眼差しを見て、自分の中の衝動を抑えることが出来なくなってしまった。
「……どーすんだよ、んっとに」
俺は自身に対する苛立ちを抑えきれず、拳を強く握りしめる。以前に比べ手入れの雑な自身の鋭い爪の先が、手のひらに鋭く食い込んだ。
けれど今の俺にとっては、その痛みすら心地良い。
痛みは俺に教えてくれる。……これが現実なのだ、と。
いくら後悔してももう遅い。言ってしまったことは取り返せない。どうしようもなく、今この時こそが、俺の居る場所なのだと。
――そうだ。確かに俺は考えていたんだ。まだ言うつもりはない、と自分自身に言い訳をしたって、俺がずっとその言葉を胸に抱えていたことに変わりはない。
いつ言おう、もう言わなければと、そう思っていたことに嘘はない。
つまり、あの言葉は紛れもなく俺の本心だった。
新選組を出て……吉田に協力する。それが、俺たちが未来へ帰るための一番の近道になるはずなのだから。
――つまり、後悔してる場合じゃねーってことだ。
そう、後悔してる場合じゃない。そんな時間があったら少しでも先のことを考えなければ。
千早はきっと沖田さんに全てを話すだろう。そして沖田さんは……少なくとも、表面上は千早の言葉を信じる振りをするはず。だって沖田さんは千早のことが好きだから。
到底信じられないような千早の話も、きっと信じる振りをする。
――だが……それが振りであったなら……やはり、どう考えてもこれ以上ここにはいられない。
千早を危険な場所には置いておけない。
だいたい、土方さんに、山南さん、そして近藤さんに……沖田さん。俺の知る限り、もう四人に知られてしまっているのだ。
近藤さんには直接正体を明かしていないけれど、土方さんに知られてしまっている以上、近藤さんも知っていると思っていた方がいい。
それに、それ以外の幹部らにも。――知られるのは時間の問題だ。
そうなる前に、俺たちは新選組を離脱しなければ。新選組に情を抱き始めている千早をどうにか説得し、ここから離れなければ……。
俺は街中を速足で進みながら、出来るだけ思考を巡らせる。
――と、その時だった。
突然、どくん――と、俺の鼓動が高鳴った。
それは、どこか気味の悪い感覚。誰かに見られているような、そんな違和感。
いや、見られているなんてもんじゃない。
これは――観察する目だ。
「――ッ」
その気持ちの悪い視線に、俺は辺りを見回した。
行き交う人々の往来の中、一人その場に立ち止り、その視線の主を探す。
すると――、いた。
そいつは俺から隠れるでもなく、視線を反らすでもなく、こちらに視線を向け続けている。
人目を逃れるように路地の隙間に身をひそめ……けれど俺を見つめるその瞳はまるで、自分の存在に気付いてくれ――と訴えるかのように重い。
「……あいつッ」
瞬間、その正体に気付いた俺は戦慄し――そして同時に、歓喜した。
その見覚えのある眼差しに、その姿形に――俺はそいつのいる場所へと、打たれたように走りだす。
なぜって、それがよく見知った顔だったからだ。見覚えのある、なんてもんじゃない。
その男こそが、今の俺の目的だった。
俺は路地裏へと駆け込む。
真っ昼間だと言うのにそこは薄暗く、けれど熱がこもるからか酷く蒸し暑い。
そんな場所で、その男は逃げるでもなく、姿を隠すでもなく、俺の姿を認識した途端口を開いた。
「待たせたね、秋月くん。ではさっそくで申し訳ないが、まずは君の答えを聞かせてもらおうか」
そうして、彼――本来なら池田屋事件の夜に俺が殺したはずの――吉田稔麿は、その端正な顔に薄い笑みを浮かべた。