八
そして残される私と沖田さん。
沖田さんは、二人の消えた先をじっと見つめて何か考えているようだった。
そんな沖田さんの真剣すぎる横顔に、私は再び思い出す。
そう言えば、私は沖田さんに未来のモノを見せてしまったのだ……と。
――まさかこれから、先ほどの私と帝のやり取りについて問い詰められたりするのだろうか。
私の脳裏にそんな不安がよぎる。が、その予想はありがたいことに外れていた。
なんと沖田さんは、私の心配事など知りもしない様子で、突如ぷっと吹き出したのだ。
「あっはははは! 千早、見た!? 土方さん、秋月に完全に調子狂わされてたね!」
「――え?」
「ひっ……ふふっ。もう、あんな顔した土方さんっ、久しぶりに見たよ、何年ぶりかな!」
「……!?!?」
困惑する私の横で、沖田さんはお腹を抱えて笑い転げる。
それはもうプリクラのこともゴムのことも忘れてしまっているかのような豪快な笑いっぷりで、私は拍子抜けするしかなかった。
「あっ……あの、沖田さん……」
まぁ確かに先ほどの土方さんは帝に振り回されているようにしか見えなかったけれど。でも、こんなに声を上げて笑ったら土方さんに聞こえちゃうんじゃ……。
私はどうにもそれが心配になり、二人が姿を消した先の様子を伺ってしまう。――が、土方さんが戻ってくる様子はなかった。
どうやら聞こえていなかったみたい。良かった。
「くっ……ふふふふふっ。ってゆーか何なの、自我を失くす薬って! 土方さん、作った薬は必ず自分が真っ先に飲んで効果を確かめるんだよ。……どんな風になったんだろうね? 君も気になるよね?」
「そ……それは確かに気になりますけど、でも笑い事じゃないですよ」
「笑い事でしょ! 今笑わなくていつ笑うの……! あー、山崎さんあたりに聞けばわかるかなぁ。土方さんの自我がどんなふうに変になったのか」
「……お、沖田さんっ!」
全く。沖田さんは一体何を考えているのだろうか。
先ほどまでは凄く真剣な顔をしていたのに、今の沖田さんからはその面影すらない。
沖田さんに先ほど一瞬感じた感謝……あるいは尊敬の念も、爆笑する沖田さんを見ているとスーっと自分の中から消えていくようで……。
「くっ、ふふふっ」
「あの……いい加減笑うのやめましょう? 失礼ですよ」
「無理っ。むりー」
「……」
土方さんと帝が居なくなってしばらくしても、沖田さんは私の隣で笑い転げていた。
私はそんな沖田さんを見やりながら、心中深い溜息をつく。そうして、気持ちを切り替えた。
「あの……沖田さん、私、部屋に戻りますね」
帝のことは心配だけれど、今は土方さんに任せるしかない。帝が回復するまで、私はただ大人しく過ごそう。
そう決めて、私は沖田さんに踵を返す。――が、その刹那、沖田さんに腕を掴まれた。
「……沖田さん?」
――もしや、今度こそプリクラのことを蒸し返される? と不安を感じたのも束の間……。
沖田さんはどういうわけか、私の頭に右手を乗せたのだ。
「――?」
そうして、ポンポン……と、頭を撫でるように優しく二度叩かれる。
「――ッ」
その予期せぬ沖田さんの行動に、私は変な悲鳴を上げてしまいそうになった。
だって、あまりに予想外だったから。――それに、今の今まで爆笑していた筈の沖田さんが、今は優しい顔で微笑んでいたから。
「……な、なん、何……ですか、急にっ」
それは私の知っている沖田さんじゃないみたいな顔で……。
「ああ、ごめん、つい」
「……つい?」
「うん、つい。……でも良かったね。僕は安心したよ」
「……え? 何が……ですか」
「秋月のこと。様子がおかしいとは思ってたけど、薬のせいだったってことがわかってさ」
「……あ」
そう言った沖田さんのは、確かにその言葉通りどこか安堵した表情を見せた。それは以前私が街で迷子になったとき、私を見つけてくれた沖田さんの顔によく似ていて……でも、あの時に比べるともっとずっと優しくて……。
本当に私のことを心配してくれていたことが伝わってくる。
それは何とありがたいことだろう。
「……そうですね、ありがとうございます」
「うん。それに何て言うか、僕が言うのもおかしいけど、さっきの秋月の言葉は本心じゃなかったと思う。だからまた後日ちゃんと話し合ってごらん。きっと大丈夫だから」
「……はい、そうします。私、もう一度ちゃんと帝と話し合ってみます」
「うん、その意気だよ」
そう言うと、沖田さんは更に笑みを深くする。
そうしてどこか満足げな様子で、私に背を向けた。――と同時に彼は何かを呟いたけれど、その声が私に届くことはなかった。
「沖田さん、今何か言いました?」
「ううん。何でもないよ」
「……そう、ですか?」
「うん」
――最後の一言はよく聞こえなかったけれど、何でもないと言うのなら大したことではないのだろう。
私はそう考えて、沖田さんの背中を今度こそ見送った。
そうして自分も――そのときの沖田さんが何を考えていたのかなど知る由もないまま――そのまま部屋へと戻ったのだった。
◇◇◇
ちなみに後日。
すっかり薬の抜けきった帝に今日のことを話したけれど、やはり彼は何一つ覚えていなかった。
薬を飲んだ記憶もなく、帝は私の話を顔を蒼くして聞いていた。
「――それで、このプリクラの女の子って」
「……」
私が尋ねれば、彼は観念したように目を伏せる。
「……本当ごめん。嫌な思いさせたよな。それ後輩だった子なんだ。面識はその日まで全くなかったんだけど」
「後輩……だった?」
「ああ。去年の文化祭の後に告られて。でも、俺付き合ってる奴いるからって断ったら、“知ってる。別に付き合いたいとかじゃない。もうすぐ転校するから、気持ちだけ伝えたかった”って言われて」
その時のことが思い出されるのだろうか、帝は申し訳なさそうに視線を下げ、小声で続ける。
「しかもそれをクラスの奴らが偶然聞いてて、“思い出作りでプリクラくらい撮ってやったらー?”とかわけわかんねぇこと言いだして……。相手の女の子も是非……とか言ってくるし」
帝はそう言って、今度は神妙な顔で私を見つめた。
「千早には本当悪いと思ったんだけど……。あ――でも誤解しないで欲しい。そのキスは本当に不意打ちで。そんなつもりなかったし。――や、まぁでも、隙だらけだった俺が悪いんだけど。だから千早に許してくれとは言えないんだけど……。だから……とにかく、その……ごめん。ごめんなさい」
そうして、その場で私に向かって頭を下げる帝の姿。
そこには帝の真摯な気持ちが確かにあって……だから私は、全てに納得できたわけではないけど、一応許す気持ちを持つことにした。
でも、やっぱりまだ気になることもある。
「なら、どうしてそのプリクラが貼ったゴムなんて……」
私が言いかければ、帝はパッと頭を上げる。
そうして、今度は苦々し気に呟いた。
「……ああ、それは」
帝は顔を曇らせる。
「凄く言い辛いんだけどそのプリクラ……あの時目撃してたクラスの奴らは全員持ってるらしくて……」
「――!?」
「何て言うか……俺の弱み、ってことなんだろうな。そのプリクラも……多分俺をからかってるつもりなんだと……思うんだけど」
「なっ……そ、それって」
れっきとしたとした犯罪なんじゃ……。と言うか、帝にそんなことするなんてどんな怖いもの知らずなのだろう。
「とにかくごめん! 本当にごめんなさい! 全面的に俺が悪いです! 向こうに戻ったらちゃんと対応するから……だから……その。許してとは言わないけど……でもやっぱり許してくれたら嬉しい……です」
「……」
「……許して、くれませんか?」
「…………」
「千早……さん?」
「……はぁ。もう、しょうがないなぁ」
「――! じゃあ……!」
私が溜息をつくと同時に、帝がパッと顔を上げる。
そこには、心からの安堵の様子が見て取れた。
「言っておくけど、二度目はないからね?」
「わかってる! 二度とこんなことにはならないって約束する!」
「絶対だからね?」
「勿論! 俺が好きなのは千早だけだから……もう二度と疑われるようなことも、千早を傷つけるようなこともしない」
「……うん」
「……じゃあ仲直りってことで……キス、してもいい?」
「――っ!?」
「いいだろ? 今、他に誰もいないし……」
「そ……そうだけど」
「じゃ――そういうことで」
瞬間、問答無用で私の背中に回される帝の右腕。
私の返事も待たないまま、彼は私にピタリと身体を寄せる。
それは明らかにあからさまな行動だったけれど、でも私は結局、拒否することはしなかった。
タイミングを考えれば止めておいた方が良かったのかもしれないけど……でもやっぱり私は帝のことが好きだから。
それに、プリクラのことは帝のせいだけじゃないってことがちゃんとわかったし、帝も謝ってくれたから。
「……あー。千早、目、閉じてくんない?」
「あっ、うん」
いけない、考え事をしていたら目を閉じるのを忘れていた。
私は帝に指摘され、ムードも何もないまま急いで両目を閉じる。
すると今度こそ、私の唇が帝の唇でふさがれた。
帝の舌が私の唇をゆっくりとなぞり、徐々に咥内へと侵入してくる。
その感覚は、いつまで経っても慣れなくて……。
もう数えきれないほど繰り返している行為なのに、帝に口の中を舐め上げられる度、私の中に沸き上がるぞくぞくとした感覚が私自身の熱を上げ、帝の体熱と溶け合っていく。
それがとても気持ちよくて……だから私は、どうしたって帝を受け入れてしまうのだ。そしてそんな私のことを、帝はよく理解していて、だからこそ喧嘩の後はいつだって“仲直りのキス”を提案してくる。
そうしてしまえばそれ以上、私が何も言えなくなることを知っていて――。
「――んっ、……ふ」
「千早……舌、出して」
「……う、んッ」
「……そうそう。上手」
「あっ……ん、――んんっ」
「……ははッ、いい顔」
ああ……帝は卑怯だ。
彼はとても卑怯だ。
でも、そうと知っていて受け入れる私は、もっと卑怯。こうしていれば、彼が私の隣に居続けてくれると悟った上での行動なのだから……私だって大概だ。
結局私たちは、似た者同士なのだろう。
私はそんなことを考えながら、帝の要求に答え続けた。何度も何度もキスを交わし、お互いの首筋に吸い付き、そしてときおり甘噛みする。
彼の指先の器用な動きに絆されながら、恍惚とした笑みを浮かべる帝を見上げた。
「ねぇ、……帝」
「……ん?」
「私たち、ずっと一緒に……いられるよね?」
「何言ってんの。当たり前だろ? 千早が離れたいって言っても俺、絶対離れないから」
「……そう、だよね」
「ああ」
――帝はいつだって、私の欲しい言葉をくれる。
昔も、今も……そしてきっと、これからだって。
私たちは、お互いを求め合う。どこまでも、どこまでも……。
本当の居場所などどこにもない、この幕末の時代で――。
それはある種とても平穏な時間だった。
誰にも、何にも邪魔されない、それは束の間の休息と呼ぶべきものだった。
だからそのときの私は、ほんの少しも予想していなかったのだ。
この日の帝の言葉が……あまりにもあっさりと破られてしまうということを。