四
◇◇◇
「……やっぱり夜のうちに水につけておけば良かった」
池田屋事件から一週間が経ったその日の朝方、非番の私は一人、溜め息をつきながら外の水場で黙々とハンカチを洗っていた。
それはなぜかと問われれば、昨日うっかりドジを踏んで怪我をした帝の止血のため、私のハンカチが血で汚れてしまったからである。
ことの発端は昨日の午後に遡る。
昨日は斎藤さんの隊が非番の日で、帝は個人的に斎藤さんに稽古をつけて貰えるようにお願いしていた。
斎藤さんは快諾。二人は中庭で打ち合いを始めた。
それは真剣での稽古だったけれど、相手は斎藤さんだし、私も周りの誰も何の心配もしていなかった。
けれど一時間ほど経ったとき、帝がふいにバランスを崩してしまった。そのタイミングが悪く、斎藤さんの刀が帝の左肩を掠めてしまったのだ。
当番中だった私はその瞬間を見てはいない。中庭が騒がしいことに気付き駆け付けたときには、帝は肩を押さえて地面に座り込んでいる状況だったから。
――結論を言えば、斎藤さんが刀の軌道を咄嗟に反らしてくれたことで、大事には至らなかった。
帝本人も痛そうにはしていたけれど、「ちょっとドジっただけ」と笑っていたし。
だがそうであってもそれなりに血は出るわけで、咄嗟に傷を押さえるのに使った私のハンカチは血に染まってしまったと言うわけだ。
「……もう落ちないかな。……これ」
いつかのホワイトデーに兄から貰った、花柄の刺繡の入った桃色のハンカチ。気に入って使っていたのだが、ここまでシミになってしまうと水だけで落とすのは不可能だろう。
「台所でとぎ汁もらってこようかな……」
そんなことを呟きながら、私はふと思い出す。
ここに来たばかりのときに、帝の制服を洗ったことを。
結局あのときは水だけで洗濯したため、元の真っ白なシャツとは程遠い結果に終わってしまった。
――でもお米のとぎ汁があれば落とせるかもしれない……。
私はそう考える。
けれど、すぐに首を振った。
確かにハンカチは残念だけれど、帝の怪我が大したことなかったことが一番大事なことで。
帝は今日は大事を取って休んでいるけれど――でも怪我なんてしていないみたいに笑う帝の存在が、私にとっては何よりも大切で……。
だから、ハンカチ一枚駄目になったくらいで暗くなっていたらいけないのだ。
それに、お米のとぎ汁だってこの時代では大事なもの。私のわがままのために使うわけにはいかない。
そんな風に考えなおし、私はハンカチを絞って顔を上げる。
そうして、私を待つはずの帝のところへ戻ろうと、急ぎその場を後にした。
◇
「帝、ごめんねお待たせ――って……あれ、いない」
私が自分の部屋に戻ると、そこに帝の姿はなかった。
朝餉のとき、後でこの部屋に集合……と決めていた筈なのに。
何か用事でも済ませているのだろうか。
そう考えた私は、とりあえず待ってみることにした。――が、いつまで経っても帝はやって来ない。
これはおかしいな、そう思って再び部屋を出る。
するとそこに、ドタドタと大きな音を立てて二つの足音が近づいてきた。と同時に聞こえる、聞き覚えのある声。
「おいッ、止まれ平助! 逃げんじゃねえよ!」
「やーだね! 大体、止まれって言われて止まる奴なんかいねーだろ!」
「っざけんな、てめェ! マジで殺すぞ!」
「やれるもんならやってみろッてんだ!」
そう、それは帝と平助の声だった。
一体何事だろうか、そう思った次の瞬間、角を曲がって姿を現したのはやはりその二人で。
前に平助、後ろに帝。
それ自体はいいのだけれど……。
問題は、その二人が私の存在に気付いていないことだ。
平助は自分を追ってくる帝に気を取られているようで、自分を追う帝に……つまり背後に注意を向けている。対して帝も、平助しか目に入っていないようで……。
つまり、このままでは――ぶつかる。
そう思った私は、咄嗟に身体を部屋側に寄せた。――が、それとほぼ同じタイミングで平助も私に気付いたようだ。
彼はさっと顔を青ざめると、急減速した。が、そのせいで。
「止まれ平助ッ!……――あ?」
「――ぐえッ」
帝が、平助の背中めがけて勢いよく突っ込んだ。
そしてそのまま、私の目の前で床に転がる二人。それはまさに、一瞬の出来事で。
「ちょっと……二人とも大丈夫?」
私は唖然としつつも、仲良く床に突っ伏している二人に向かって声をかける。
一体何事だろうか。
そもそも帝は私と部屋で待ち合わせをしていたはずなのに、どうして平助と鬼ごっこしているのだろうか。
「ああー、くそ痛ぇ。何で急に止まんだよ、おもっきし頭打ったんだけど」
「はあ? お前が止まれって言ったんじゃねェか! つーかちゃんと前見ろよな!」
「は? お前こそ何言ってんだよ。そもそもはお前が俺の私物を――」
しかも二人は未だ私の問いに答える素振りすら見せず、言い争いを繰り広げている。
――その話を聞いているかぎり、平助が何か帝の私物を持ち去った……ということらしいけど。
そうは言っても、私達はこの時代にほぼ私物を持ってきていないのだ。それなのに、帝は一体何を取られたと言うのだろう。
「あー、もうマジで背中痛ぇんだけど。帝お前、身体でかいんだから気をつけろよな!」
「いやだから、そもそも悪いのはお前だろ! いいからさっさと返せよ」
「ったく、うるせーな。返せばいんだろ、返せば! ほらよ……って、あれ?」
「――!? 持ってねーじゃん!」
「あれ? どっかで落としたか?」
「はあああ!? マジでふざっけんなよ!」
――しかも、その何かを平助はどこかで落としてしまったらしい。
でも、落として気付かないくらいの大きさのものって、一体なんだろう。
そう思ったのも束の間、私はふと見下ろした視線の先に、既視感のあるモノが落ちていることに気が付いた。
――そう、それは口にするのもはばかられる、通称……コン○ーム。
「~~ッ!?!?」
その正体に気付いてしまった私は、わけもわからず放心した。だって、こんな場所に絶対にあるはずのないものがある訳で、どうしたらいいのかわからなくなってしまったのだ。
床に落ちている4、5センチ大の四角い袋。一見したらラムネか何かの袋にも見えなくもない、小さな袋の存在に。
その正体を知らなければ、特に気にせずに拾ってしまえるのであろう、そのモノに……。
――いやでも何で? どうして今ここにこれが落ちてるの? だいたい、どうして帝はこんなものを……?
だっておかしいではないか。私達はカバンすら持ってこられなかったのに、どうして狙ったようにこれだけがここにあるのか。もしや制服のポケットに入れていた? 確かに小さいものだから誰にも気づかれなかったのかもしれないけど。私が制服を洗ったときも全然気付かなかったけど……。
――でもでも、常時身に着けているってどういうことなの? 仮にも生徒会長なのに? 率先して風紀を乱すようなものを、どうして……?
私の頭の中はそんな疑問でいっぱいになった。
だが、だからと言って放置するわけにもいかず……結局私は、それを拾うことに決める。
本心では拾いたくなどなかったけれど、この時代のモノではないそれをこれ以上人目に触れさせておくわけにはいかなくて。
だが、それと同時に平助が「あっ、今佐倉が拾ったぞ!」などと大声を上げるものだから、私は思わず動きを止めてしまった。
「――あ」
するとその声によって、帝はようやく私の存在に気付いたようだ。
彼は一瞬呆けたような顔をしたあと、私の指先に視線を移し、途端に顔色を悪くする。
それはまるで、この世の終わりとでも言うかの様に……。
「……ち、千早。……あ、あの――違うんだ、それは……」
そう言って、微かに声を震わせる帝。
そんな彼の珍しい表情に、私は違和感を感じざるを得なかった。
だっていつもの帝なら、私にゴムを見られたくらいで慌てるはずないのだから。そもそも、何度も使用したことがあるわけだし。
それに何よりおかしいのは平助に対する帝の態度。
いつもなら私にさえここまで感情をあらわにしたりしないのに、今の帝は他人である平助にさえ素の自分を見せているのだ。
朝餉のときはいつも通りの帝であったはずなのに、これは一体どういうことだろう。
私がそう思ったのも束の間、帝は私へ向かって手を差し出してくる。
「拾ってくれて助かった」――とやや引きつった笑みを浮べながら。
つまりこれは、返せ……と言う意味だろう。
だが、こんな状況になってしまっては私だって簡単に返すわけにはいかない。
「あのさ、帝」
「……」
私の声がいつもより低くなったことを感じたのか、帝は気まずそうに私から目を反らす。
「どうしてこんなもの持ってるの? もしかして、常時持ち歩いてるわけじゃないよね……?」
「……そ、そんなわけないだろ? ソレは俺のじゃなくて、クラスの奴が……」
「何言ってるの? 帝にそんな付き合いの友達いるわけないでしょ?」
「――ッ、失礼な! ちゃんといるから、中学からの付き合いの奴とか……!」
「ふーん。もしそれが本当なら、ロクな友達じゃなさそうだけど……。でもつまり、これは人から貰ったものってことなのね?」
「……ああ」
「だったら、私が持っててもいいよね? それにどうせ……一人じゃ使えないでしょ」
――ああ、口にするのも恥ずかしい。けれど、このまま返してしまうのはどうしても癪で。
だから私はそれを帝に渡すことなく、自分の懐にしまおうとした。
が、帝はすかさずそれを制止する。
「待った! わかったから! もうこんなことには絶対ならないようにするって約束するから……だからそれ、……返して」
「……?」
そう言った帝はもうあまりの慌てぶりで、私は今度こそ確信した。やっぱり何かがおかしい――と。
ここまで帝がコレに執着する理由……それは一体何……?
と、そう思ったのも束の間――。
「何なのコレ。……っていうか、誰、この娘」
私のすぐ耳元で囁かれる聞き覚えのある声。
「――ッ!?」
その声に驚いてその場を飛びのけば、そこにはいつの間にやら沖田さんが立っていた。
それも、今まで私が持っていたソレを一瞬のうちに取り上げ、マジマジと観察しながら……。