五
◇◇◇
――私は山南さんと対峙していた。
腕を掴まれたまま、それでも、彼の問いに答えることは出来ないと。
だって、新選組の未来がどうなるかを教えるなんて出来るわけがないではないか。――この時代の人にそれを言ったら、間違いなく未来が変わってしまう。
そんなことになったら……。
――だから私は口を閉ざした。
山南さんの問いに答えることなく、ただその瞳を睨みつけて……。
「おや……どうしましたか? まさか答えられないと? それとも、何も知らないとでも……?」
暗闇の中、山南さんが私をじっと見つめてくる。私の反応を観察するような、舐めるような視線で……。
でも、それでもやっぱり私は、何も答えるつもりがないというこの姿勢を崩すわけにはいかなかった。
――それに、帝なら絶対にそうするから。帝ならきっと言わないと思うから。
この場をうまく切り抜けることは出来なくても、今池田屋で戦っている帝の為に、私は絶対に話すわけにはいかない。
それにそもそも、私は新選組がこれからどうなるかなんて殆ど知らないのだから。
――だがそれはつまり、新選組は存続しないということを意味している。それくらいのことは私にだってわかっていた。
その理由が皆の死によるものか……あるいはただの解散なのかはわからないけれど。
それに、新選組のことなんて歴史の授業では習わない。つまり言葉は悪いけれど――その程度の組織だったということ。
細かいことはわからなくとも……“明るい未来はない”と言うこと。
だが、そんなことを口に出来るわけがない。
今生きているこの人たちに……池田屋で戦っている皆のことを思えば、決して軽々しく口にしてしまえるはずが無い。
沖田さんも、土方さんも、斎藤さんや近藤さんや、そして今私の前にいる山南さんだって、皆生きてここにいる。
それなのに、そんな彼らに言えるわけがないではないか。
“新選組は遅かれ早かれ、無くなります”――だなんて。
「――っ」
ああ、考えたくなかった。こんなこと思いたくなかった。
だって皆生きているのに。――皆みんな、必死に生きているだけなのに。
どうして新選組は無くなってしまうんだろう。どうして皆戦わなければならないのだろう。
ただ守りたいだけなのに。自分の大切なものを、ただ守りたいだけなのに。
それなのに……。
「……どうして」
――刹那、ふと自分の口から洩れる声。
それは自分でも驚くくらい震えていて、今にも泣き出してしまいそうな声で……“やってしまった”と思った。
感情が自分の声に乗っていた。悲しみをつい表に出してしまった。
そしてそのことに、山南さんが気付かないはずがなかった。
「……やはり」
山南さんが呟く。
“やはり”――その言葉には、全てを理解したというような、悟ってしまったというような、そんな感情が込められていた。
「……あ、あの、――今のは別に」
「いいんですよ」
「――っ」
言い訳しようとする私の言葉を遮るように、山南さんは再び眼鏡を押し上げる。
そうして、掴んでいた私の腕をそっと放すのだ。「ありがとう、佐倉君」と、そう言いながら。
「……山南……さん?」
そんな彼の行動に、私は違和感を感じざるを得なかった。
だって、私はまだ何も言っていない。詳細なことは――ただの一つも。
それなのに山南さんはお礼を言った。この先新選組がどうなるのか……ただそれだけを察して、けれどその原因も要因も追及せずに、この話を終えようとするのだ。
ああ、これは一体どういうことだろう。
「どうして……? 何で、聞かないんですか」
わからなかった。
山南さんの考えていることがわからなかった。
彼の顔色も、目的も――何一つわからなかった。
私の腕を放した山南さんは、私から離れるように一歩後ずさる。
そうして彼は私に背を向け――静かに告げる。
「佐倉君、無礼な真似をして本当に申し訳ありませんでした。私にだってわかっているんですよ。今この時を生きる私たちが、先を知ることは決して許されないことであると――。
けれどどうしても知りたかったんです。君たちの生きる未来に、我々が生きているのかを……」
「……っ」
その声は低く重く、深い葛藤を抱えているように聞こえた。
「だが……我々の未来はそう長くはないようですね。まぁ、予想通りと言えばそうなのですが……」
「……そんな……ことは」
「いいんですよ。こればかりは仕方のないことなのですから。――今さらもう後に引くことは出来ませんし……引くつもりもないでしょう」
囁くような声で告げる山南さんの背中。それがいつもよりも小さく見えて……彼はもしや泣いているのではと、錯覚しそうになる。
「思えば、ずいぶん遠くまで来てしまいました。……あの頃は本当に楽しかった」
それは懐かしい過去を偲ぶ声で――私は悟る。
ああ、やっぱり彼は泣いている、と。心の奥深くで、きっと涙を流している。
心臓に刀を突き刺して――血の涙を流している。
ああ、だから彼は消したのだ。蝋燭の灯を――私に涙を見せたくなくて。
歪んだ顔を、見せたくなくて。
けれど私は、そんな彼にかける言葉が見つからなくて。
何一つ言えなくて……。
それなのに山南さんは私に言うのだ。
「ありがとう」と。そう繰り返すのだ。教えてくれてありがとう――と。
その声を聞いていると、辛くて辛くて、私も泣き出しそうになった。
けれど、そうするわけにはいかなかった。
辛いのは私じゃない。この人だ。
私が泣くのは失礼ではないか。
だから私は必死に堪える。――未来に生きる私が、山南さんに同情するなんて、出来るはずがなくて。
だから私はただ口を閉ざす。山南さんの言葉には何一つ答えずに。
“ありがとう”と言うその言葉すら、聞こえないふりをして……。
私はただ決意する。
もっと強くならねば――と。私の代わりに戦っている帝のために。そして、新選組の皆のために。
せめてもっと役に立てる自分になりたい、と……。
そしてもう二度と自分のための涙は流さないと。
自分を不幸に思って泣くのはお終いだ、と。帝に頼られるくらい、強い私になるのだと。
そうやって今度こそ、私は自分自身に誓いを立てた。
――細い月が池の水面に揺らめいている。そよ風が水面や木々の枝葉を揺らし、春の終わりの香りを運んでくる。
それはとても静かな夜だった。
歴史の丁度境目の、重大な事件のあったその夜は――とても穏やかな夜だった。
◇◇◇
「――おい、秋月。起きろ」
「……う」
その聞き覚えのある声に、俺はゆっくりと瞼を開けた。
するとそこには、立ったままで俺を見下ろす斎藤さんの姿があった。
どうやら自分は気を失っていたらしい。
辺りはまだ暗く、恐らくあれからそれほど時間は経っていないだろう。
「お前、怪我をしているのは手のひらだけか」
まだ意識の朦朧としている俺に、斎藤さんはいつも通りの無表情で問いかけた。
そしてその問いかけによって、俺は気を失う前のことをようやくはっきりと思い出した。
「――ッ」
瞬間、俺は飛び起きる。――否。身体を起こそうとして、背中に走る痛みに顔を歪めた。
――ああ、そうだ。気を失ったのは、背中を壁に打ち付けたからだった。
そう思いながら俺は一度深く息を吐き出して、今度こそ上半身を起こす。
「吉田は……」
そんなことを呟きながら、俺は辺りを見回した。
俺の怪我なんてどうでもよかった。こんな傷、ここに来て初日に受けたあの夜の傷に比べたらどうってことない。
それよりも今は吉田である。
記憶を失う寸前、俺に身体を貫かれた吉田は――一体どうなってしまったのか。
「吉田? それはあの男のことか」
俺の言葉に反応し、斎藤さんの視線が動く。
俺たちから7メートルほど離れた場所の――松明の灯りを手にした平隊士たちに囲まれて――血の海に沈んだ男の方へと。
冷たい地面に横たわり――ピクリとも動かなくなった、吉田の方へと……。
「――うっ」
瞬間、吐き気が込み上げる。
吉田の死に顔が千早の兄貴の顔と重なって、どうしようもない恐怖感に襲われた。
「殺ったのはお前か」
「……っ」
「あの刀はお前のものだろう」
ああ、確かにそうだ。
うつ伏せに倒れた吉田の背中に突き刺さったままの刀。それは俺の鞘に収まっていた筈の、紛れもない俺の刀。
土方さんから貸してもらった……俺の……。
――ああ、そうか。
そうして俺は理解した。
吉田の言った“僕は君に殺される”――と言った言葉の本当の意味を。
確かにそうだ。確かに吉田は殺された。
俺の目の前で、この俺自身の手にかかって。
――そしてそれこそが、これから俺が取り得るべき道はすでに一つしかないということを知らしめる。
ああ、わかったよ、吉田。
確かにお前の言う通りだ。俺には何一つ選ぶことなど出来ないらしい……。
そう悟った俺は考えることを放棄して、ゆっくりと斎藤さんを見上げた。
俺を怪訝そうに見下ろす斎藤さんを見据え……今度こそ彼の問いに答える。
「どうも……そうみたいですね。ちょっと必死すぎて……よく覚えていないんですけど」
「……そうか」
俺の頼りない返答に、けれど斎藤さんは納得をしたようだった。
「初めての戦場だ、そういうことはよくある」と、俺を慰めてくれさえした。
そんな斎藤さんに俺は内心感謝しながら――ゆっくりと立ち上がる。
血だまりに浮かぶ吉田に近づき、背中に突き刺さる刀を引き抜いた。
そして同時に――誓う。既に息絶えた吉田の横顔を、この目に嫌と言う程焼き付けながら。
――約束だ、と。絶対に忘れるな……と。
俺は確かにお前に協力しよう。だがそれは決してお前の為ではない。お前の言った神とやらの為でもない。
あくまで俺は千早の為に。ただそれだけの為に、お前に協力してやるだけだ。
それに……忘れるな。
お前に協力する変わりに、お前には何があろうと約束を果たしてもらう。必ず千早を……俺たちを、未来に帰してもらう。
それが俺とお前の、守るべき最初で最後の誓いだ。
――忘れるなよ、吉田稔麿。
俺は刀の血を振り払い鞘に納め、ただ黙って夜空を見上げた。
月明かりのない暗い空を。――冷えた空気に、ズキズキと痛む左手の傷をさらしながら。
――夜はまだ長い。
今夜も……そして俺たちの夜も……まだしばらくは明けそうにない。
「秋月、行くぞ。ここは他の隊士に任せておけ」
「はい」
斎藤さんに呼ばれ、俺は吉田に踵を返す。
そうしてもう二度と吉田を振り返ることなく、その場を後にした。
◇◇◇
この日、確かに吉田稔麿は死んだ。
歴史の針は狂うことなく時を刻み――結局は何も……変わることはなかった。




