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 ――それは、まぎれもなく彼の本音で。

 帝の心からの素直な気持ちに思えて、私は今にも泣き出しそうになった。


 うまく言えないけれど……どうしてか胸がいっぱいで。


 まだ付き合って4ヵ月しか経ってないのに、こんなにも自分を理解してくれている彼のことが、とても不思議で……でも、嬉しくて。何だかほっとしてしまって。


 この人になら、どんなことを言っても大丈夫なんじゃないかって、全部全部受け入れてくれるんじゃないのかって……そんな気持ちになるのだ。


「……千早、泣きそうな顔してる」


 彼はそう言って、私の顔を覗き込む。


「そう言えば、初めて会ったときも千早、泣いてたな」

 ――と、そんなことを呟きながら。


「俺さ、思うんだよ。自分の(こう)不幸(ふこう)も、他人に決められることじゃないって。自分が決めることだって。だからさ、別に自分が恵まれてるからって、他人に引け目を感じることはないんだよ。こんなに恵まれてるんだから、せめて自分くらい笑ってなきゃって、無理する必要はないんだよ」


 そう言って、彼は私を抱きしめる。

 それはとても優しい声だった。だけど、どこか悲しい声でもあった。まるで自分自身に言い聞かせているような、苦しみを抱えたような声だった。


 それは多分、気のせいではない。

 今の今まで気づかなかったけれど、きっと彼は私とどこか似てるのだ。彼は、私を自分自身とどこか重ねて見ているのだ。


 その理由も根拠もわからないけれど。

 でもきっと……そう。


 私は彼の言葉を噛み締めながら、今度は自分から手を伸ばした。

 彼の胸から顔を上げ、その頬にそっと手を添える。


 するととても驚いたように、帝はハッと息を止めた。


「……いい、のか?」

 ――それは彼らしくない物言いだった。

 “いいのか”だなんて、いつも自信満々で、私の前では横柄な態度を取っている帝らしくない言葉だった。


 けれど私は、微笑み、頷く。

 ごくり――と、喉を鳴らす音を耳の奥で聞きながら、私は首を傾ける。お互いの唇が――触れ合うように。



 それが私たちの初めてのキスだった。


 私の――生まれて初めての口づけだった。



◆◆◆



「――っ!」


 刹那――私は我に返った。そうして、その場で飛び起きた。


 そうだ、今はこんなことをしている場合じゃない。池田屋に行かなければならないのだ――と。


 だが、そう思ってようやく今の自分の状況を理解した。


 私が眠ってしまっていたことに。部屋の外は――すっかり暗くなってしまっていることに。


「……え」

 ――どういう、こと……?


 私は混乱した。

 だって、今の今まで帝と一緒にいた筈なのに、いったいどうして……。


 布団から這い出して、私は急いで障子を開ける。

 するとやはり、外は真っ暗闇だった。それに人の気配も感じない。


 つまり、皆は既に出払ってしまっているということで……。


「……置いて……いかれた……?」

 その事実を悟らざるを得ず、私は今度こそ茫然とした。


 帝が私にしたことに。

 あのキスは、私を眠らせる為のものだったという、その現実に打ちのめされて。


「――そんな……」

 確かに私も帝を騙そうとした。

 帝の提案を受け入れたふりをして、でも本当は着いていくつもりでいた。


 だから、私に帝を責める義理なんてないことはわかる。私は帝を責められない。

 でも……だからってこんなのはあんまりではないか。問答無用で眠らせて置いて行くなんて……あまりにも酷いのではないか。 


 ――あるいは……そうでもしなければならないくらい、池田屋ではもっと酷いことが起きるとでも……?

 私を眠らせ置いて行く――それが些細なことだと言ってしまえるほどのことが、池田屋で起こっているとでも言うのか。


「――っ」

 ――何だろう。

 すごく嫌な予感がする。


 幸せな夢を見ていた筈なのに……この胸騒ぎはなんだろう。


 身体が震えて……すごく寒い。

 寒くて寒くて……足に力が入らない。


 ――帝……どうして……?


 両腕で自分の身体を抱きしめ、私は俯く。

 胸のざわめきを必死に押さえつけるように。


「……大丈夫、大丈夫。きっと薬のせい……大丈夫」

 私は一人繰り返す。何度も何度も、自分に言い聞かせるようにして。胸騒ぎなんて気のせいだと言い聞かせて。


 そうして私は、ようやくその場に立ち上がった。


 とにかく今は、状況を把握しなければと。

 帝たちが今どうしているのか、知らなければ――と。


 ――すると、そのときだ。


 真っ暗闇の縁側の向こうから、ぼんやりと淡い光が現れたのは。


「佐倉君……?」

「……山南(やまなみ)、さん」


 そこに居るのは山南さんだった。

 右手に蝋燭の火を(たずさ)えた、山南さんの姿だった。


 彼はその光で足元を照らすようにしながら、私の方へゆっくりと近づいてくる。


「体の具合はもういいのですか?」

 彼はそう尋ねながら、優しい眼差しで私を見下ろした。


 けれど、私はそれに答えることが出来なかった。

 やっぱり私は帝に置いていかれたのだと――突き付けられたその事実が悲しくて。悔しくて。


 するとそんな私の様子に何を思ったのか、山南さんは瞼を細めた。

 眼鏡の奥の瞳に、蝋燭の火を揺らめかせる。


 そうして彼は、全てを悟ったように呟いた。


やはり(・・・)、彼の独断だったようですね」――と。


「――ッ」

 瞬間、私の中に込み上げる怒り。

 それは言葉にしがたい、強い苛立ち。


 だって……だって……。


「どうして……どうして起こしてくれなかったんですか。気付いていたなら……どうして……!」

 だって、この人は気付いていたんだ。

 私が帝に眠らされたことを、知っていたのだ。


 それなのに、そんな帝の行動を見過ごした。私の意思を無視する帝を咎めもしなかった。


 それがとても悔しくて、許せなくて。


 でも本当は私だってわかってる。山南さんが少しも悪くないことくらい。

 これは私と帝の問題だ。山南さんを責めるのはお門違いというもの。

 わかってる、そんなことはわかっている。……でも、それでも。


「知っていて……どうして帝だけ行かせたんですか!? どうして私を起こしてくれなかったんですか!?」

 ――悔しい。悔しい。


 私だって戦えるのに。私にだって……日向と同じように出来ることはある筈なのに。


 どうして帝は私を置いていったのか。どうして自分だけで戦おうとするのだろうか。


「私だってやれるのに……! 私だって、皆と同じように戦えるのに!」

 ――ああ、こんなのただの八つ当たりだ。

 子供の我儘だ。……わかってる。


 だけど、どうしても止まらなかった。言葉を止められなかった。


 私の声を黙って受け止める山南さんに――どうしてもその答えを問わずにはいられなかった。


「どうして……!?」

 とうとう――涙が溢れ出す。


 悲しくて、悔しくて、切なくて……もう泣かないと決めたのに。

 泣かないって、決めたのに……。沖田さんに言われて、そう決めたはずなのに……。


「……佐倉君」


 山南さんが、優しく私の肩を叩く。

 困ったように微笑んで――、でも、その瞳はどこか鋭くて……。


「少し、歩きませんか」


 そう言いながら、山南さんは夜空に浮かぶ月を見上げた。細く消え入りそうな淡い月を憐れむように見つめながら、彼は私に静かに告げる。


「まだ夜は長い。少し私の話相手になってくれませんか、佐倉君」

「……」

 それはとても優しい声音。

 だけど、有無を言わせないような意志の強い声で……私は思わず頷いてしまった。本当は、話なんてする気分じゃないのに……。


「ありがとう。では……庭にでも出ましょうか」

 それでも、山南さんは私に向かって手を差し出すのだ。私の気持ちを全て理解しているというような顔をして、私を真っ直ぐに見据えながら……。


 ――ああ、一体どんな話をするのだろう。彼は私に何を言うのだろう。

 そこにあるのは、少しの期待と……微かな恐怖。


「さあ、佐倉君」

 私の目の前に差し出される、山南さんの左手。

 私はその大きな手のひら見つめ、覚悟を決める。

 

 そうして私は――涙を袖で拭い去って――足を一歩前へと踏み出した。

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