三
――それは、まぎれもなく彼の本音で。
帝の心からの素直な気持ちに思えて、私は今にも泣き出しそうになった。
うまく言えないけれど……どうしてか胸がいっぱいで。
まだ付き合って4ヵ月しか経ってないのに、こんなにも自分を理解してくれている彼のことが、とても不思議で……でも、嬉しくて。何だかほっとしてしまって。
この人になら、どんなことを言っても大丈夫なんじゃないかって、全部全部受け入れてくれるんじゃないのかって……そんな気持ちになるのだ。
「……千早、泣きそうな顔してる」
彼はそう言って、私の顔を覗き込む。
「そう言えば、初めて会ったときも千早、泣いてたな」
――と、そんなことを呟きながら。
「俺さ、思うんだよ。自分の幸も不幸も、他人に決められることじゃないって。自分が決めることだって。だからさ、別に自分が恵まれてるからって、他人に引け目を感じることはないんだよ。こんなに恵まれてるんだから、せめて自分くらい笑ってなきゃって、無理する必要はないんだよ」
そう言って、彼は私を抱きしめる。
それはとても優しい声だった。だけど、どこか悲しい声でもあった。まるで自分自身に言い聞かせているような、苦しみを抱えたような声だった。
それは多分、気のせいではない。
今の今まで気づかなかったけれど、きっと彼は私とどこか似てるのだ。彼は、私を自分自身とどこか重ねて見ているのだ。
その理由も根拠もわからないけれど。
でもきっと……そう。
私は彼の言葉を噛み締めながら、今度は自分から手を伸ばした。
彼の胸から顔を上げ、その頬にそっと手を添える。
するととても驚いたように、帝はハッと息を止めた。
「……いい、のか?」
――それは彼らしくない物言いだった。
“いいのか”だなんて、いつも自信満々で、私の前では横柄な態度を取っている帝らしくない言葉だった。
けれど私は、微笑み、頷く。
ごくり――と、喉を鳴らす音を耳の奥で聞きながら、私は首を傾ける。お互いの唇が――触れ合うように。
それが私たちの初めてのキスだった。
私の――生まれて初めての口づけだった。
◆◆◆
「――っ!」
刹那――私は我に返った。そうして、その場で飛び起きた。
そうだ、今はこんなことをしている場合じゃない。池田屋に行かなければならないのだ――と。
だが、そう思ってようやく今の自分の状況を理解した。
私が眠ってしまっていたことに。部屋の外は――すっかり暗くなってしまっていることに。
「……え」
――どういう、こと……?
私は混乱した。
だって、今の今まで帝と一緒にいた筈なのに、いったいどうして……。
布団から這い出して、私は急いで障子を開ける。
するとやはり、外は真っ暗闇だった。それに人の気配も感じない。
つまり、皆は既に出払ってしまっているということで……。
「……置いて……いかれた……?」
その事実を悟らざるを得ず、私は今度こそ茫然とした。
帝が私にしたことに。
あのキスは、私を眠らせる為のものだったという、その現実に打ちのめされて。
「――そんな……」
確かに私も帝を騙そうとした。
帝の提案を受け入れたふりをして、でも本当は着いていくつもりでいた。
だから、私に帝を責める義理なんてないことはわかる。私は帝を責められない。
でも……だからってこんなのはあんまりではないか。問答無用で眠らせて置いて行くなんて……あまりにも酷いのではないか。
――あるいは……そうでもしなければならないくらい、池田屋ではもっと酷いことが起きるとでも……?
私を眠らせ置いて行く――それが些細なことだと言ってしまえるほどのことが、池田屋で起こっているとでも言うのか。
「――っ」
――何だろう。
すごく嫌な予感がする。
幸せな夢を見ていた筈なのに……この胸騒ぎはなんだろう。
身体が震えて……すごく寒い。
寒くて寒くて……足に力が入らない。
――帝……どうして……?
両腕で自分の身体を抱きしめ、私は俯く。
胸のざわめきを必死に押さえつけるように。
「……大丈夫、大丈夫。きっと薬のせい……大丈夫」
私は一人繰り返す。何度も何度も、自分に言い聞かせるようにして。胸騒ぎなんて気のせいだと言い聞かせて。
そうして私は、ようやくその場に立ち上がった。
とにかく今は、状況を把握しなければと。
帝たちが今どうしているのか、知らなければ――と。
――すると、そのときだ。
真っ暗闇の縁側の向こうから、ぼんやりと淡い光が現れたのは。
「佐倉君……?」
「……山南、さん」
そこに居るのは山南さんだった。
右手に蝋燭の火を携えた、山南さんの姿だった。
彼はその光で足元を照らすようにしながら、私の方へゆっくりと近づいてくる。
「体の具合はもういいのですか?」
彼はそう尋ねながら、優しい眼差しで私を見下ろした。
けれど、私はそれに答えることが出来なかった。
やっぱり私は帝に置いていかれたのだと――突き付けられたその事実が悲しくて。悔しくて。
するとそんな私の様子に何を思ったのか、山南さんは瞼を細めた。
眼鏡の奥の瞳に、蝋燭の火を揺らめかせる。
そうして彼は、全てを悟ったように呟いた。
「やはり、彼の独断だったようですね」――と。
「――ッ」
瞬間、私の中に込み上げる怒り。
それは言葉にしがたい、強い苛立ち。
だって……だって……。
「どうして……どうして起こしてくれなかったんですか。気付いていたなら……どうして……!」
だって、この人は気付いていたんだ。
私が帝に眠らされたことを、知っていたのだ。
それなのに、そんな帝の行動を見過ごした。私の意思を無視する帝を咎めもしなかった。
それがとても悔しくて、許せなくて。
でも本当は私だってわかってる。山南さんが少しも悪くないことくらい。
これは私と帝の問題だ。山南さんを責めるのはお門違いというもの。
わかってる、そんなことはわかっている。……でも、それでも。
「知っていて……どうして帝だけ行かせたんですか!? どうして私を起こしてくれなかったんですか!?」
――悔しい。悔しい。
私だって戦えるのに。私にだって……日向と同じように出来ることはある筈なのに。
どうして帝は私を置いていったのか。どうして自分だけで戦おうとするのだろうか。
「私だってやれるのに……! 私だって、皆と同じように戦えるのに!」
――ああ、こんなのただの八つ当たりだ。
子供の我儘だ。……わかってる。
だけど、どうしても止まらなかった。言葉を止められなかった。
私の声を黙って受け止める山南さんに――どうしてもその答えを問わずにはいられなかった。
「どうして……!?」
とうとう――涙が溢れ出す。
悲しくて、悔しくて、切なくて……もう泣かないと決めたのに。
泣かないって、決めたのに……。沖田さんに言われて、そう決めたはずなのに……。
「……佐倉君」
山南さんが、優しく私の肩を叩く。
困ったように微笑んで――、でも、その瞳はどこか鋭くて……。
「少し、歩きませんか」
そう言いながら、山南さんは夜空に浮かぶ月を見上げた。細く消え入りそうな淡い月を憐れむように見つめながら、彼は私に静かに告げる。
「まだ夜は長い。少し私の話相手になってくれませんか、佐倉君」
「……」
それはとても優しい声音。
だけど、有無を言わせないような意志の強い声で……私は思わず頷いてしまった。本当は、話なんてする気分じゃないのに……。
「ありがとう。では……庭にでも出ましょうか」
それでも、山南さんは私に向かって手を差し出すのだ。私の気持ちを全て理解しているというような顔をして、私を真っ直ぐに見据えながら……。
――ああ、一体どんな話をするのだろう。彼は私に何を言うのだろう。
そこにあるのは、少しの期待と……微かな恐怖。
「さあ、佐倉君」
私の目の前に差し出される、山南さんの左手。
私はその大きな手のひら見つめ、覚悟を決める。
そうして私は――涙を袖で拭い去って――足を一歩前へと踏み出した。




