一
――夢を見ていた。
とてもとても懐かしい夢。
帝と初めてのキスをした……大切な夢……。
手を伸ばせばいつだってそこには帝がいて……彼はいつも私のことを見ていてくれて……。
――ああ、そうだ。あの日からだ。
私が本当に帝のことを好きになったのは……好きだと自覚したのは、あの時だった。
あの夕暮れ時の生徒会室……。オレンジ色に染まったあの部屋で、彼は私にこう言ったのだ。
「どうして本当の自分を閉じ込めたままでいるのか」――と。
その言葉を聞いて……私は――。
◆◆◆
――職員棟の4階、その中央に位置する部屋。校内で一番見晴らしのいいその部屋こそが、私達の生徒会室だった。
時期は10月の始め頃。部屋全体がオレンジ色に染まり出す夕暮れ時に、私は帝と二人きり、来月行われる文化祭の予算案を作成していた。
「――はぁ。これでやっと半分って……どんだけだよ」
そのとき私たちはまだ1年生で、生徒会役員と言ったって何の拒否権も持たない雑用係のようなものだった。先輩の命令には逆らえない――そんな立場だった。
かと言って、普段の帝ならその雑用だって笑顔で引き受け軽くこなしてみせる。――が、その日だけは違った。
「ごめんね、秋月くん。私のせいで……」
「何で千早が謝るんだよ。悪いのは林だろ」
コの字型に並んだ机の反対側で、帝は素早く電卓を弾きながら、この場にいない林先輩に向かって悪態をついている。
「つーか、仕事したくないのに何で生徒会やってんだって話だよ。無責任すぎるだろ」
「……で、でも急用だって言ってたし、仕方ないのかも」
「はあ!? 仕方ないわけあるか。今日提出する資料だぞ。それが全然まったく終わってないって、最初から俺たちにやらせるつもりだったとしか考えられねーだろ!」
「……それは」
「ったく、体よく押し付けられてんじゃねーよ」
――帝の機嫌が悪い理由。
そう、それは本来会計係である林先輩がやるはずだった仕事を、私が引き受けてしまったからだった。
「……ごめんなさい」
そしてそれを引き受けてしまった為に、帝と予定していたデートに行けなくなってしまったから……。
しかし、言わせてもらいたい。私だって二つ返事で引き受けた訳ではないのだ。
最初は私も、予定があるからと断ろうとした。けれど林先輩は、佐倉さんなら30分もあれば終わるよ、大丈夫! と言って強引に私に資料を押し付け、そのまま帰ってしまったのだ。
つまり、引き受けたくて引き受けたわけではない。
でも、それだって帝からしたら言い訳にしか聞こえないだろう。
つまり悪いのは全部私。帝との予定を潰してしまったのは私で、彼が機嫌を悪くするのは当たり前のこと……。
だから私は謝った。帝に、ごめんなさいと。
でもそんな私を見て――帝はわざとらしく溜息をつく。
「――ったく、千早は全然わかってない」と呟きながら。
「……え?」
「だから、千早が謝ることないって言ってんだよ」
電卓を叩く帝の手が止まる。
机の反対側から、帝の瞳が私を睨みつけるように見据えていた。
「――っ」
そのとても強い眼差しに、私は思わず息を呑む。有無を言わせないその瞳に――私は理由もなく、あの日のことを思い出した。
◇◇◇
――声をかけてきたのは帝の方だった。
入学してすぐ、体験入部中の部活動を終えた帰り道で、私は帝に声をかけられた。
「2組の佐倉さんだよね? 俺、1組の秋月帝って言うんだけど」
彼はそう言って、初対面にも関わらず連絡先を聞いてきた。
私はとても驚いた。
だって彼は女嫌いで有名だったから。
新入生代表の挨拶をしていた(つまり入試試験の成績が一番であった)頭脳明晰な彼が、入学して初日のうちに10人の女子に告白され(その中には校内一美人で有名な先輩もいたというが)、それを全て一刀両断したという話がまことしやかに囁かれていたからだ。
だからそんな彼に突然連絡先を尋ねられて、驚かないわけがなかった。
「――え。何で?」
思わずそう聞き返してしまったくらい。
そうしたら、彼は平然とした顔でこう答えた。
「好きだから」――と。
そのときの私の気持ちは、9割型“意味がわからない”だった。
ときめきどころか嬉しいとすら思わなかった。だって言葉を交わしたこともない相手だし、そもそも入学してまだ2週間しかたっていないわけで――つまり「ずっとあなたを見ていました」的なシチュエーションでもないわけだ。
つまり、彼が私のことを一体どういう意味で好きなのか理解が出来なかったから。
――だから私は間髪入れず断った。
「初対面で連絡先を聞いてくる男なんてろくな奴じゃない」――と兄にいつも言い聞かされていたし。
そしたら彼はあっさりと引き下がった。「ならお友達からで」とだけ言い残して。
――それからの彼はびっくりするほど紳士だった。
警戒心を募らせる私に、決して無理強いはしなかった。あれ以来連絡先を聞いてくることもなく、けれど素っ気ない態度を取ることもなく――ただ、いつも気付けば何となく私の視界の中にいて、私のクラスの男子と楽しそうに談笑していたりした。
すれ違えば、柔らかい笑顔で気さくに声をかけてくれた。それは本当にただの友達であるように。
私の知る彼はいつも笑顔だった。人を褒めるのが本当に上手で――だから彼が女嫌いだとという噂はあっという間に掻き消えた。それでもやっぱり、彼が他の女の子の告白を受け入れることはなかった。
彼の周りはいつだって人で溢れている。頭の良さやスポーツが出来ることを鼻にかけることもなく、他人の悪口は絶対に言わない。年上から可愛がられる方法も心得ているようで、先生のみならず先輩たちにも好かれていた。
そうやって、彼は入学してたったの2ヵ月で、校内で確固たる地位を築き上げた。
が――今ならわかる。その全てが彼の作戦だったのだと。
校内の人間全てを自分の味方につける――それこそが、彼の策略であったのだと。
◇◇◇
「――はや、……千早!」
「――っ」
私がハッとすれば、秋月くんの顔がいつのまにか目の前に迫っていた。
「あ――秋月くん!?」
私は驚いて、椅子を後ろに引きずりながら後ずさる。
おかしい、さっきまで反対側に座っていた筈の秋月くんが、どうして……。
「大丈夫か? ちょっと休憩入れる? よく考えたらもう2時間ぶっ通しだし」
「えっ……あ、うん。そうだね、少し……疲れたかな」
「……」
私の曖昧な返事に呆れたのか、秋月くんは再び溜息をつく。
そうして、彼は私の顔を覗き込んだ。
「――なぁ、言いたいことあるならちゃんと言っていいから。あと、いい加減その呼び方何とかしろ」
「……っ」
「帝って呼べよ。付き合ってるんだから」
「~~ッ」
――そう、私達は付き合っている。
4ヵ月前、私は秋月くんから二度目の告白をされた。
その時は最初と違って、付き合ってもいいかな……と思っていたし、それに学校中全てを味方につけた秋月くんの告白を断ったりしたらその後一体どうなるか……。そう考えたら何だか怖くなってしまって、私は彼の告白を受け入れたのだ。
つまり、私はまだ彼のことを純粋に好いているわけではないのである。
彼の人柄には惹かれているし、勉強も運動も出来るところも尊敬している。剣道だって強いし……。けれど、やっぱりそういう“好き”とはどこか違う気がしていて……。
勿論、そのことは秋月くん本人だってわかっているだろう。だから彼は付き合いだして4ヵ月が過ぎた今も、私に何もしてこないのだ。
手も繋がないし、キスなんて勿論しない。
ただ私のことを“千早”と呼び、そうして、自分のことを“帝”と呼んでくれと要求してくるだけ――。
それに、私は未だに知らないのだ。
秋月くんが私に告白してきた理由を、私を好きだと言う理由を……まだ教えてもらっていない。
確かに私の外見は悪くないとは思うけれど、でももっと美人の先輩の告白を断っていたから顔目当てではないだろうし、確かに私も剣道の腕はそこそこだけれど、でもそれが理由で好きになられたとも思えない。
そもそも、一度目の告白は入学して2週間しかたっていなかったわけで……。
つまり私は、私の気持ち以前に、この秋月帝という男の子が自分を好きだという事実を、まだ信じ切れないでいるのだ。
それに、彼のことを心から信じられない理由はもう一つある。
――付き合い始めて知ったのだが、秋月くんは裏表がとても激しいのだ。
私以外の全ての人間に見せているいつもの笑顔は完全に作り笑いであるし、友達はとても多いのに、特定の誰かと深く付き合うことはない。
普段の言葉遣いも表情も本当の彼のものではない。
私と二人きりのときの彼はもっと砕けたしゃべり方だし、あからさまに不機嫌になったり口を開けて笑ったり、人の悪口だって言うし、もっとずっと子供っぽいのだ。――それが彼の“素”であるように。
私だけに見せる顔、私だけに聞かせる彼の本音。それが、彼にとって確かに私は“特別な存在”だと告げている。
けれどそれでも信じられないのだ。
だって、完璧で優等生の仮面を被った彼は、根っこのところでは他人に少しも興味なんてなくて、ただ利己的な理由で自分を演じていて。そうしていれば平穏無事な学生生活を送ることが出来ると心の底から信じている。
“成績が悪く小言を言われる”くらいならば、いい成績を取ってしまえばいいと、“友人関係に悩む”くらいならば、適度にいい関係を築いてキープさえしていればいいと考えている。
そう、だって彼は、私が以前「どうして仲のいい友達を作らないのか」と尋ねたとき、こんな風に答えたのだから。
「そもそも、どうして敵が出来ると思う? それは味方を作るから。敵を作りたくなければ、味方を作らなければいいんだよ」――と。
それを聞いた時、私は“なんて極端な人なのだろう”と思った。そうして、少しだけ寂しく思った。
確かにその言葉は正しいかもしれない。でも、それでいいはずがない――と。
自分と同じ15歳の子供の言葉とは思えなかった。いったい彼はどんな人生を送ってきたのかと心配になってしまった。
口で言うだけでなく、実際にそれを実行してしまえる高い能力があるのに、使い方を間違っているのでは――と、そう感じてしまった。
そしてそんな人間が、私のことを「好き」と言う理由がどうしてもわからなかったのだ。
「千早、聞いてる?」
――再び、秋月くんに尋ねられる。
“帝”と呼んで欲しいと、彼は繰り返す。
でも、やっぱり呼ぶことが出来なかった。この心のモヤモヤを晴らさないままに、名前を呼ぶことなど出来なかった。
だから私はもう一度尋ねる。
前回ははぐらかされてしまった、その質問を――。
「……いいよ、呼ぶ。――でも」
「でも……?」
「私のどこを好きになってくれたのか、教えてくれたら……」
「――っ」
瞬間、これでもかと大きく見開く彼の瞳。それは以前とはどこか違う――動揺したような顔。
そんな秋月くんの表情に、私の方が驚いてしまった。
「えっ、何、その反応」
「……いや、別に。今聞かれると思ってなかったから」
「だって、前は教えてくれなかったでしょ? 私、ずっと気になってたんだから」
「……」
彼の視線が私から反れる。
今までずっと私の顔を見つめていた秋月くんの瞳が――窓の外の夕日へと、眩しそうに向けられた。
そうして彼は、ゆっくりと口を開く。
「……俺たち昔、会ったことあるんだよ」と。