六
そうして、彼は語り始めた。俺の返事を待つことなく……ただ穏やかな口調で。それはまるで、何かの歌の調べのように。
「昔々、天上界にとても仲の良い兄妹神がいた。彼らは仲睦まじく、お互いを慈しみ合いながら暮らしていた。兄は妹を可愛がり、妹は兄を敬った。二人はどこへ行くのも一緒だった。何をするにもお互いの意志を確認し、尊重した。何十年も、何百年も、そんな二人の愛が変わることはなかったと言う」
吉田は語る。
腕の中の猫の背を撫でながら、静かに言葉を紡いでいく。
だがそれはどう考えったって、俺の問いの答えになるとは思えない話だった。
けれどそれでも俺は、その話を一言も聞き逃すまいと努める。何故なら吉田のこの話が、タイムスリップの答えに繋がる何かであるというその可能性を捨てきれないから。
つまり、俺には吉田の話を聞く以外、他に取り得る選択肢など無いのだ。
「だが時が経つにつれ、その愛の形は少しづつ変わっていった。二人の間の兄妹愛は、当の本人らも気づかぬうちに、いつしか男女の愛へと変わってしまったのだ。そして遂に、二人はそれが大いなる罪であると知りながら、愛の契りを結んでしまった」
うすぼんやりとした提灯の灯りだけが闇を照らす中、吉田は続ける。その顔に薄い笑みを浮かべながら――。
「二人の愛は益々強まった。彼らは互いを愛してやまず、ほんの一時さえもお互いの傍を離れようとはしなかった。兄は妹に愛を囁き、妹はただ真っすぐな眼差しでそれに応えた」
――ああ、一体これは何の話なのだろう。
いつまで続くのだろう。俺は吉田からこんな話を聞きたいわけではない。
それともあれか。このタイムスリップは、俺と千早がここにいる理由は、存在するかもわからない神のせいであるとでも言うのか。
「けれど遂に、その関係が始祖神に知れてしまった。そうして彼らは罰を下された。兄の方は最果ての蔵に封じられ、妹は天上界を永遠に追放されることとなった。そうして妹は、神としての記憶を封じられたまま人として生きることを強いられたという」
吉田はそこで一息つくと、どういうわけかこちらに向かって一歩足を踏み出した。
喜介が置いていった提灯はそのままに、彼はゆっくりと近づいてくる。
今まで闇の向こうに伸びていた吉田の影が、俺の影と重なった。
「秋月くん、君はこの兄妹神の迎えた最後についてどう考える? 自業自得だと思うかい? 当然の報いだと?」
吉田の顔が、逆光の中でニコリと微笑む。それはとても楽しそうに。
「僕はね、そうは思わない。神々の決まり事がどうであろうが、どんな物事にだって例外はつきものだ。僕と君が、こうやって出会ったように」
「――っ」
――刹那、俺と吉田の横を鋭い風が駆け抜ける。
提灯の灯りが消え、辺りは一瞬で暗闇に包まれた。
明るみに慣れていた俺の瞳は、途端に何一つ映さなくなる。
そうして気付いたときには、吉田の顔が俺の眼前まで迫っていた。
それは今にも鼻先が触れてしまいそうな程の距離で、俺は反射的に後ずさる。
「――何が、言いたい」
そうして俺は、ようやく言葉を吐き出した。
吉田の話も、不用意に俺に近づいてくる行動も、何一つ理解できなくて。
けれど彼は、ただ笑う。ただ、嗤う。
「僕はね、ただ君に協力してもらいたいだけなんだ。実はあるお方に頼まれていることがあってね。“妹”の魂を救って欲しい――と」
「……っ、それ……って、今の……?」
「そう、察しがいいね。聡い子供は嫌いじゃない。君の思う通り、あるお方とは今僕が語った兄神のこと。どうやら彼の妹神の霊魂は、今この時代にあるらしい」
「――は」
その吉田の言葉に、一番最初に感じた感情。それはまさに“意味がわからない”というものだった。
そもそも俺は神も仏も、心霊現状の類も信じていない。というより、いようがいまいがどちらでもいいというのが本音だが。そんなものは信じたい奴が勝手に信じていればいい――それくらいの存在なのだ。
それなのにいきなりこんな話をされて、しかも元神だった人間の魂を救う協力をしろなどと、意味不明にも程がある。
だが、目の前の吉田の瞳は真剣だった。唇は笑っているが、眼は全く笑っていない。決して冗談を言っているようには見えない。
ということはつまり、今の話は吉田にとっての真実であるということ。実際どうであるかは別として、彼にとっての真実。
ならば俺は、彼に話を合わせるしかない。
「……吉田さん。つまり貴方は、俺にあなたの手伝いをさせたいと……その為に俺たちをこの時代に連れてきたと……そういうことですか」
俺は尋ねる。闇の中で、すぐ目の前の吉田の顔を凝視しながら。
だが彼は頷かなかった。彼は俺からわずかに腰を引くと、ほんのすこしだけ首を横に傾ける。
「いいや、それは違う。言っただろう? あのお方に頼まれた――と。つまり、君たちをここに連れてきたのはあのお方。僕ではない」
「――っ、なら質問を変える。お前は俺たちが未来に帰る方法を知っているのか」
俺は再び尋ねる。
すると吉田は今度こそ肯定した。「知っているよ」と。
「だが、今はまだ教えられない。――と言うよりは、今はまだ無い、と言う方が正しいだろうか」
――今はまだ無い……? 一体それはどういう意味だ。
俺が眉をひそめると、吉田はそんな、かすかな俺の表情の動きでさえも見えているかの如く、言葉を続ける。
「ともかく、だ。ただ一つ言えるのは、あの方の望みが叶えられて初めて、君たちの望みも叶うのだと言うこと。――つまり、君に拒否権はないと言うことだ。君は僕に手を貸さなければならない。君が……彼女と共にもといた場所に戻りたいと、真に望むのならば」
「……っ」
――ああ、それは確かにこの男の言うとおり。
今の俺には拒否権などない。だって、俺たちが未来に帰る方法を知っている――その言葉が本当か嘘かなど関係なく、こいつは「俺たちが未来人だと知ってしまっている」のだから。
もしもこの申し出を拒否すれば、俺と千早の居場所はあっと言う間に消されてしまうだろう。この男がたった一言、俺たちのことを“未来人”だと“新選組”に告げるだけで、俺と千早がこの男と通じていることが明るみになってしまうのだから。
――だが、だからと言って簡単に頷くわけにはいかないのもまた事実。
だって、今の吉田の言葉が真実であるのかどうか、現段階では何一つ証明されていないのだから。それに今のこの会話には、最も根本的な情報が不足している。
だから俺は吉田を見据えた。更に情報を引き出すべく――。
「いいでしょう。貴方の言いたいことは大体わかりました。――でも、どうしても腑に落ちないことがある。
そもそも、なぜその兄神はただの人間である貴方にそんなことを頼んだのでしょう? たまたま時代が合っていたから? 偶然? 誰でもよかった? それとも、貴方でなければならない理由があったのでしょうか。
そして同時に、どうして貴方を助ける役目が俺たちなのか。貴方だって不思議に思うでしょう? 俺たちはただの子供だ。未来にはもっと能力の高い大人たちが沢山いる。それなのにどうして俺たちだったんだ。そこに意味はあるのか?
大体、その兄神が自ら動かない理由は何だ。なぜその神とやらはここに姿を現さない。何故直接俺に頼みに来ないんです」
そう、吉田の話を聞いて最も気になったこと――それは、何故俺たちだったのか、と言うこと。そして、その神はどうしてここにいないのか、と言うことだった。
すると吉田は「ふむ」と少々考える素振りを見せた。猫を撫でていた手を止め、ほんの数秒宙を見つめる。
そうして、無邪気に笑った。
「わからない」――と。