四
◇◇◇
俺は立ち止まらなかった。
一寸先は闇――そうであるにも関わらず、速度を落とすことなく走り続けた。
疲れは感じなかった。恐怖など消え失せていた。
――どこだ、吉田はどこにいる。
走り続けながら、それでも周囲にだけは気を配る。
神経を研ぎ澄ませ、微かな物音さえも聞き逃すまいとした。
「吉田……稔麿」
お前は、俺が――斬る。
何度も何度もそう呟いた。
それは自身に言い聞かせるように。暗示をかけるかのように。
安藤さんの望みを叶えるべく、奥沢さんの仇をとるべく――俺は無心で繰り返す。
吉田稔麿――お前を必ず斬るのだと。この手で斬ってみせるのだと。
そう――これは戦いなのだ。生きるか死ぬかの戦い。
一方が生き残る為に、もう一方は死ななければならない。そういうものなのだ。
だから吉田が生きる為には奥沢さんや安藤さんを斬らなければならなかったし、そうでなければ自分の方が死ぬのだから、それは仕方のないことだった。
だが、それなら俺は、俺が生きる為に吉田を斬る。
俺と千早の居場所を守る為に、お前をこの手にかけてやる。
猫を見失ってしまった今――俺がここに居る意味はそれしかなくなってしまったのだから。
――もう、後戻りは出来ないのだから。
そう、俺は土方さんとの約束を果たさなければならない。
俺が新選組の利になる存在だと、証明しなければならない。
それが取引の内容だった。
俺が新選組の味方であると――少なくとも敵ではないと、必ず示さなければならない。
だから――吉田稔麿、お前は俺が……。
「……斬ってやる」
俺は一心不乱にひた走った。暗闇に紛れ、ただひたすらに、ひたすらに――。
そして遂にその時が訪れる。
闇に紛れて俺の耳に届く何者かの声。
それは男二人の声だった。内容は聞き取れない、けれど、その方角は確かにわかる。
俺は速度を緩め、足音を立てないように気をつけながら壁にぴったりと張り付いた。
そしてゆっくりと、少しづつ――その声の方へ近づいていく。
そうして、次の角を曲がったときだ。
更に向こうの角の先に、橙色のうすぼんやりとした灯りが見えた。
――ああ、間違いない。あそこにいる。
俺はその二人が誰であるかを確かめようと、じっと耳を澄ませた。
すると聞こえる。
一人は成人した男の低い声。そしてもう一人は、声変わりもまだしていない、少年のような声だった。
「先生、傷の具合は……」
「大したことはない。それよりも僕は君の方が心配だ。すまないね、僕が注意を怠ったばかりに、君に負担を……」
「何をおっしゃっているのですか! あの時先生が庇って下さらなければ私は今頃……。ですから、次は私が先生をお守りする番です」
「はは。そうかい。それはなんとも心強いね」
「ですからもう少しご辛抱下さい。この先に友の屋敷があります。そこまで行けば――」
――先生……、傷……。
二人の会話に、俺は考える。
吉田は果たして先生と呼ばれるような男だったか――と。だが、俺の記憶ではそこまでは思い出せなかった。
けれど、怪我をしているということは吉田である可能性が高い。勿論、他の志士である可能性も捨てきれないが……。だが、池田屋からも藩邸からも離れたこの場所にいるということは、安藤さんや奥沢さんから逃げおおせたということで。つまり、限りなく吉田で間違いない。
「……」
俺はそうである可能性に賭け、腰の刀に手を添える。
そうして、角を曲がるそのギリギリまで近づいていく。
――だがその刹那、俺は重大なミスを犯してしまった。道に落ちていた小石を蹴ってしまったのだ。
その微かな音にさえ、二人が気付かない筈がなかった。
「――誰だ!?」
角の向こうで、若い方の男が叫ぶ。それと同時に響くのは、刃が鞘を滑る音。
どうやら向こうは抜刀したようである。
「……っ」
ああ、こうなってしまっては仕方がない。
俺は即座に奇襲作戦の中止を決める。――刀の柄から手を放し、角の向こうへ一歩足を踏み出した。
幸い、今俺は新選組の羽織を着ていない。先ほど安藤さんの止血の為に使ってしまったためだ。つまり、今の俺は一見新選組とはわからない筈。
「……すみません、道に迷ってしまったらしく」
苦し紛れな言い訳だなと自覚しながら、俺は明るみに姿を現す。そうして二人の様子を伺った。
やはり、抜刀したのは若い男の方だった。年齢は俺より少し下だろうか、顔はまだ幼く、髪は後頭部の高い位置で結われている。目鼻立ちはくっきりとしており、それが余計に彼の年齢を若く見せているように感じられた。
そんな彼はまだあどけなさの残る顔で、いきなり現れた俺を警戒するように、強く睨みつけてくる。
そしてもう一方の男。――彼は確かに負傷していた。その箇所は右腕。肩と肘の丁度真ん中あたりだろうか。破れた着物が赤黒く染まっている。
そして、その男の表情は……。
「――っ、……な、ん」
瞬間、俺は絶句した。驚かずにはいられなかった。
その男の顔を認識した途端、俺はこのあり得ない状況に――一切の言葉を失くした。
「どこの藩士だ、名を名乗れ」――と問う声に反応することすら、出来ないほどに。
ああ、それは何故かって? どうしてそんなに驚いているのかって……? だって……だって――。
「……お前は、……誰だ?」
俺の喉から漏れ出る声。それは酷く擦れていた。
何故なら視界に映る男の顔が、俺のよく知る人のものだったから。それが信じられなくて。
「おいッ、貴様、聞いているのか! 名乗れと言っているんだ!!」
キャンキャンと吠え続ける若い方の声を無視し――俺は茫然と繰り返す。
「お前は誰だ。お前が、吉田なのか」――と。
するとその言葉に、若い方の男は一層顔を曇らせた。俺の口から告げられた「吉田」と言う名前に、彼は憤りを隠せない様子で俺を威嚇する。
――それはつまり、肯定の意。
「……嘘……だろ」
――ああ、本当にこの男が吉田なのか。なら……俺は……? 俺は一体どうすればいい。
この、千早の兄貴の顔をした男に……俺は刃を向けるのか?
「貴様! 答えねば今すぐ叩ッ斬るぞ!!」
その煩わしい声を背景に、俺はただ立ち尽くす。
未だ一言も口を聞かぬ吉田を凝視し、俺は自問自答を繰り返した。
――どうしてこの男は廉さんの顔をしている。まさかここに廉さんがいる筈がない。――ならこの男は一体何だ? 吉田は廉さんの先祖なのか? それはつまり千早も……。いや、違う。きっと唯の他人の空似だ。そうでなければ困る。そうでなければ俺はこいつを殺せない。
だが、本当に赤の他人だったとして、千早や廉さんと何の関係もない男だったとして、俺はこいつを殺せるのか? 廉さんと同じ顔をしたこの男に、俺は刀を向けられるのか……?
それに――ああ、そうだ。
こいつは千早の恩人なのだ。以前街で千早の命を救ってくれた、千早の命の恩人。
それを俺が殺す? ……そんなことが許されるのか? いや、許されていいはずがない。
つまり、俺はこの男を殺せない。この人を……絶対に殺せない。
「……どうしろってんだよ」
俺は拳を握り締める。どうすることもできず、ただその場で茫然と。
だが目の前の二人はそんな俺の考えなど知る由もなく――何も答えない俺にしびれをきらしたであろう若い方の男が、俺の前に勢いよく躍り出た。そうして彼はスピードをつけながら、俺に向かって刀を振りかぶる。
「――っ」
――ああ、斬られる。
だがそれをわかっていながらも、俺は少しも動くことが出来なかった。
刀を抜くことさえ叶わなかった。あまりの衝撃に、自分がどうすべきかわからなかった。
「――覚悟ッ!!」
目前に刃が迫る。
俺はそれでも尚動けずに、ただただ立ち尽くしていた。
けれど、そのときだ。
その刀が俺の左肩に到達しようかと言う寸でのところで――「よしなさい」と、低くよく通る声がその場に響き――その刀は俺の肩を掠めただけで、それ以上の動きを止めた。




