三
「……てぇ」
突然のことに受け身すらまともに取れなかった俺は、ズザザザと盛大な音を立てて地面に大きく投げ出された。
頭を容赦なく打ち付け、俺はしばらくその場でうずくまり悶える。
もしこの地面が土でなくコンクリだったら、流血どころの騒ぎではなく死んでいたかもしれない。――そう思うくらいに、打ち付けた頭の痛みは強かった。
「……あぁ、……クソッ」
いったい何なんだ。こんな狭い道の真ん中に、一体何が……。
そう思った俺は、痛む頭を押さえながら上半身を持ち上げ背後を振り向く。
すると、そこには何か巨大な塊が転がっていた。
「……は。――これ、って」
瞬間、俺は放心する。
その塊が――そのシルエットが、人間であることを知ったから。
新選組の羽織をまとった、仲間であることに気付いたから――。
「――な……んで」
こんなところに……?
俺は尻もちをついたまま、一人茫然と呟いた。
ここは池田屋からも長州藩邸からも距離があるはず。それなのに、どうしてこんなところに隊士がいるのだろう、と。
「あ、あの……大丈――」
そんなことを思いながら、それでも俺は何とか冷静さを持ち直し、その人に向かって手を伸ばす。
大丈夫ですか――と。
まさかそれが、既に息絶えた死体であるとは思わずに。
「――ッ」
俺はその人に手を触れ、けれど次の瞬間、思わずその手を引っ込めた。
俺の手に伝わった、ぬめっとした感触に。その、生々しい体液に――。
「…………死んでる」
無意識のうちに呟いて、俺はそれを凝視する。もうピクリとも動かない、仲間の姿を。
背中に冷やりとした汗が伝う。心臓の鼓動が、途端にうるさくなった。
予期せぬ仲間の死に、全身から血の気が引いていく。手足が冷えて、再び胃酸が逆流してくるような心地に襲われた。
「――なん、だよ」
俺は立ち上がることも出来ないまま、身体を引きずるようにしてズルズルと後ずさる。
猫のことも忘れ、ただ、今直ぐここを離れなければと、そんな思いだけに支配された。
心臓が早鐘を打つ。耳の奥で何かがざわめいている。
ここは危険だと――そう、俺の本能が告げていた。
――すると、その時だった。
「――誰だ」
突然背後から聞こえた声。――その殺気に満ちた声音に、俺は肩を震わせる。
心臓が飛び跳ねて、頭の中が一瞬で真っ白になった。
「こちらを向け」
――あぁ。俺はどうして気が付かなかったのか。背後からは確かに人の気配と、凄まじい殺気が放たれていると言うのに。
俺も、目の前に横たわるこの人のように殺されてしまうのだろうか。
嫌だ、そんなの絶対に嫌だ。死にたくない、死にたくない、死にたくない。
「……ッ」
俺はバクバクと高鳴る自分の鼓動を聞きながら、言われるがまま身体を振り向かせる。本当はそのまま立ち上がり逃げ出したいところだが、腰が抜けていてそれは叶わなかった。
そうして暗闇の中からゆっくりと姿を現す男。――だがその男は俺の予想に反し、見覚えのある人物だった。
「……秋月、君?」
「……え? あ、安藤さん?」
やはり、暗闇からかけられたその声は、新選組の隊士である安藤早太郎さんのもので。
俺はそれが味方だと知り、心底安堵する。
「そうか……君だったか」
安藤さんは俺の顔を見て声を和らげた。
だが、彼の殺気は収まらない。安藤さんは腰を抜かした俺の横を通りすぎ、地面に横たわる亡骸を見下ろす。
そうして、こう呟いた。
「奥沢」――と。
その名前に俺も悟る。
この人は、奥沢栄助さんなのだ……と。
それを知った途端、再びどこか冷静になる俺の思考。恐怖が波を引くようになくなって、今度は言いようのない悔しさに襲われた。
この亡骸が一体誰であるのかを知って――込み上げる虚しさに、悲しみに、俺は唇を噛み締める。
――人の死とは、こうも容易いものなのか、と。
先ほど自分だって人を斬り殺したくせに――。味方の死と、敵の死、それに感じる感情が、これほど違うものなのかと。
「……死んだか」
安藤さんの悔しげな声。けれど、決して取り乱すことのない口調。
そんな彼の姿に、俺は尊敬の念すら覚える。
だがそれも束の間――突如として、俺の横にいた安藤さんがバランスを崩し、その場で膝をついたのだ。
「っ、安藤さん――!?」
俺は様子を伺おうと、両足に力を込める。
先ほどまで力が入らなかった足が、ようやく立ち上がった。
「安藤さん、どうしたんですか!?」
どうも様子がおかしい。
呼吸が荒いし、――それに。
「――ッ」
瞬間、俺はようやく気が付いた。
彼は怪我をしているのだ。
「――う」
刹那――彼は今度こそ地面の上に崩れ落ちた。
右腹部を庇うようにして、彼は荒い呼吸を繰り返す。
「安藤さん! しっかりして下さい! 傷は――傷を見せてください」
俺は彼を仰向けにして、傷の具合を確かめようと腹部をまさぐる。
――が、それは叶わなかった。あまりの暗闇に、傷の深さまで確認できなかったのだ。
だが、それでもわかることもある。
彼の呼吸に合わせて、どぷりどぷりと湧き出るソレは、この傷が浅からぬものだと明示していた。
「……んっだよ、コレ!」
――信じられない。どうしてこんな傷で、今まで立っていられたんだ。
「なんでだよ、なんでこんな傷で!」
まさか安藤さんは、こんな深手を負ったまま敵と戦おうとしていたのか? 俺がもし本当に攘夷派の志士だったなら、彼に勝ち目などないはずなのに。
「安藤さん……、――っ! 安藤さん!?」
ふと気が付けば、彼の意識は飛んでいた。
血を失いすぎたのか――、ああ、このままでは彼は死んでしまう。今直ぐに手当てをしなければ。
せめて止血だけでも――そう思った俺は、羽織を脱いで安藤さんの腹部を縛ろうと試みる。
だが、安藤さんはその途中で目を覚ましたようだ。
「……あ、秋月……君」
虚ろな様子で、俺の名を呼ぶ安藤さん。
その声を聞きながら、それでも俺は手をとめない。彼の腹部をきつく縛り上げ、少しでも血を止めようと……その一心で。
だが羽織一枚では、あまりにも心もとなかった。
だから俺は、すぐ傍で横たわる――既に息絶えた奥沢さんの羽織を使わせてもらおうと、その亡骸に手を伸ばす。
――しかしその手は、安藤さんによって止められた。
服を引っ張られた感覚に俺が振り向けば、彼は俺の袴の裾を握り締めパクパクと口を動かしている。
何か言いたいことがあるのだろうか。
「……安藤さん? 大丈夫ですよ、ちょっと羽織を借りるだけです。奥沢さんも許してくれます」
俺はそう告げたが、安藤さんは首を振る。――そうではない、と彼の口から擦れた声が漏れた。
「話を……聞け」
苦し気な声で、彼は俺を呼び止める。
その声は、“死”を覚悟しているような――そんな声に思えた。
「……安藤さん、俺、遺言なんて聞きたくないですよ」
だから俺は、そう呟く。
それは紛れもなく、俺の本心だったと思う。目の前で死にゆく様など、見たくないと――。けれど、そんな俺の言葉など聞こえなかったかのように、彼は告げる。
「俺たちは……吉田にやられた」と。
「――ッ」
瞬間、全身の毛が逆立った。
それは決して遺言などではなかった。
彼はこの期に及んで任務を全うしようとしている。
そのことに気が付いた俺は、安藤さんの直ぐそばに近づいた。
「奴は……まだ、その辺りに……いる、筈……」
息も絶え絶えに、安藤さんは繰り返す。
「吉田を捕えろ、奴を斬れ」――と。
吉田……。
俺はその名前を、記憶の海から探り当てる。そのどこか聞き覚えのある名前に……俺はほんの数秒、押し黙る。
池田屋事変――吉田……。
「吉田……稔麿、ですか?」
ふつふつと湧き上がる黒い感情を胸に感じながら、俺は何とか言葉を絞り出した。
すると、微かに唇の端を上げる安藤さん。それはおそらく肯定を意味していた。
俺が安藤さんの唇に耳を寄せれば、彼は更に続ける。
「……奴は、今……片腕しか、使えん」
――片腕……?
「もしかして、あなたが……?」
俺が尋ねれば、再び口角を上げる安藤さん。そうして彼は――満足した様子で意識を失った。
それはどこか、吹っ切れたような表情で……。
「……安藤さん、わかったよ」
俺は、安藤さんの羽織を握りしめる。まだかすかに上下する胸の動きを見つめながら、静かにその場に立ち上がった。
俺のすべきこと――それを、腰のこの刀に強く誓って。
「……奥沢さんの敵討ち……してやるよ」
最後にそう呟いて、俺は踵を返す。
まだ近くにいるであろう吉田稔麿を倒すべく――俺は本来の目的も忘れ――再び暗闇の中を駆けだした。




