表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/82


「……てぇ」


 突然のことに受け身すらまともに取れなかった俺は、ズザザザと盛大な音を立てて地面に大きく投げ出された。


 頭を容赦なく打ち付け、俺はしばらくその場でうずくまり悶える。

 もしこの地面が土でなくコンクリだったら、流血どころの騒ぎではなく死んでいたかもしれない。――そう思うくらいに、打ち付けた頭の痛みは強かった。


「……あぁ、……クソッ」

 いったい何なんだ。こんな狭い道の真ん中に、一体何が……。


 そう思った俺は、痛む頭を押さえながら上半身を持ち上げ背後を振り向く。

 すると、そこには何か巨大な塊が転がっていた。


「……は。――これ、って」


 瞬間、俺は放心する。

 その塊が――そのシルエットが、人間であることを知ったから。


 新選組の羽織をまとった、仲間であることに気付いたから――。


「――な……んで」

 こんなところに……?


 俺は尻もちをついたまま、一人茫然と呟いた。

 ここは池田屋からも長州藩邸からも距離があるはず。それなのに、どうしてこんなところに隊士がいるのだろう、と。


「あ、あの……大丈――」


 そんなことを思いながら、それでも俺は何とか冷静さを持ち直し、その人に向かって手を伸ばす。

 大丈夫ですか――と。


 まさかそれが、既に息絶えた死体であるとは思わずに。


「――ッ」

 俺はその人に手を触れ、けれど次の瞬間、思わずその手を引っ込めた。


 俺の手に伝わった、ぬめっとした感触に。その、生々しい体液に――。


「…………死んでる」

 無意識のうちに呟いて、俺はそれを凝視する。もうピクリとも動かない、仲間の姿を。


 背中に冷やりとした汗が伝う。心臓の鼓動が、途端にうるさくなった。

 予期せぬ仲間の死に、全身から血の気が引いていく。手足が冷えて、再び胃酸が逆流してくるような心地に襲われた。


「――なん、だよ」

 俺は立ち上がることも出来ないまま、身体を引きずるようにしてズルズルと後ずさる。


 猫のことも忘れ、ただ、今直ぐここを離れなければと、そんな思いだけに支配された。


 心臓が早鐘を打つ。耳の奥で何かがざわめいている。

 ここは危険だと――そう、俺の本能が告げていた。



 ――すると、その時だった。



「――誰だ」


 突然背後から聞こえた声。――その殺気に満ちた声音に、俺は肩を震わせる。

 心臓が飛び跳ねて、頭の中が一瞬で真っ白になった。


「こちらを向け」


 ――あぁ。俺はどうして気が付かなかったのか。背後からは確かに人の気配と、凄まじい殺気が放たれていると言うのに。


 俺も、目の前に横たわるこの人のように殺されてしまうのだろうか。

 嫌だ、そんなの絶対に嫌だ。死にたくない、死にたくない、死にたくない。


「……ッ」

 俺はバクバクと高鳴る自分の鼓動を聞きながら、言われるがまま身体を振り向かせる。本当はそのまま立ち上がり逃げ出したいところだが、腰が抜けていてそれは叶わなかった。


 そうして暗闇の中からゆっくりと姿を現す男。――だがその男は俺の予想に反し、見覚えのある人物だった。


「……秋月、君?」

「……え? あ、安藤さん?」


 やはり、暗闇からかけられたその声は、新選組の隊士である安藤早太郎さんのもので。

 俺はそれが味方だと知り、心底安堵する。


「そうか……君だったか」

 安藤さんは俺の顔を見て声を和らげた。

 だが、彼の殺気は収まらない。安藤さんは腰を抜かした俺の横を通りすぎ、地面に横たわる亡骸を見下ろす。


 そうして、こう呟いた。

「奥沢」――と。

 

 その名前に俺も悟る。

 この人は、奥沢栄助さんなのだ……と。


 それを知った途端、再びどこか冷静になる俺の思考。恐怖が波を引くようになくなって、今度は言いようのない悔しさに襲われた。

 この亡骸が一体誰であるのかを知って――込み上げる虚しさに、悲しみに、俺は唇を噛み締める。


 ――人の死とは、こうも容易いものなのか、と。


 先ほど自分だって人を斬り殺したくせに――。味方の死と、敵の死、それに感じる感情が、これほど違うものなのかと。


「……死んだか」

 安藤さんの悔しげな声。けれど、決して取り乱すことのない口調。

 そんな彼の姿に、俺は尊敬の念すら覚える。


 だがそれも束の間――突如として、俺の横にいた安藤さんがバランスを崩し、その場で膝をついたのだ。

 

「っ、安藤さん――!?」


 俺は様子を伺おうと、両足に力を込める。

 先ほどまで力が入らなかった足が、ようやく立ち上がった。


「安藤さん、どうしたんですか!?」

 どうも様子がおかしい。

 呼吸が荒いし、――それに。


「――ッ」

 瞬間、俺はようやく気が付いた。

 彼は怪我をしているのだ。


「――う」

 刹那――彼は今度こそ地面の上に崩れ落ちた。

 右腹部を庇うようにして、彼は荒い呼吸を繰り返す。


「安藤さん! しっかりして下さい! 傷は――傷を見せてください」

 俺は彼を仰向けにして、傷の具合を確かめようと腹部をまさぐる。

 ――が、それは叶わなかった。あまりの暗闇に、傷の深さまで確認できなかったのだ。


 だが、それでもわかることもある。

 彼の呼吸に合わせて、どぷりどぷりと湧き出るソレは、この傷が浅からぬものだと明示していた。


「……んっだよ、コレ!」

 ――信じられない。どうしてこんな傷で、今まで立っていられたんだ。


「なんでだよ、なんでこんな傷で!」

 まさか安藤さんは、こんな深手を負ったまま敵と戦おうとしていたのか? 俺がもし本当に攘夷派の志士だったなら、彼に勝ち目などないはずなのに。


「安藤さん……、――っ! 安藤さん!?」

 ふと気が付けば、彼の意識は飛んでいた。

 血を失いすぎたのか――、ああ、このままでは彼は死んでしまう。今直ぐに手当てをしなければ。


 せめて止血だけでも――そう思った俺は、羽織を脱いで安藤さんの腹部を縛ろうと試みる。

 だが、安藤さんはその途中で目を覚ましたようだ。


「……あ、秋月……君」

 虚ろな様子で、俺の名を呼ぶ安藤さん。

 その声を聞きながら、それでも俺は手をとめない。彼の腹部をきつく縛り上げ、少しでも血を止めようと……その一心で。


 だが羽織一枚では、あまりにも心もとなかった。

 だから俺は、すぐ傍で横たわる――既に息絶えた奥沢さんの羽織を使わせてもらおうと、その亡骸に手を伸ばす。


 ――しかしその手は、安藤さんによって止められた。

 服を引っ張られた感覚に俺が振り向けば、彼は俺の袴の裾を握り締めパクパクと口を動かしている。


 何か言いたいことがあるのだろうか。


「……安藤さん? 大丈夫ですよ、ちょっと羽織を借りるだけです。奥沢さんも許してくれます」

 俺はそう告げたが、安藤さんは首を振る。――そうではない、と彼の口から擦れた声が漏れた。


「話を……聞け」

 苦し気な声で、彼は俺を呼び止める。

 その声は、“死”を覚悟しているような――そんな声に思えた。


「……安藤さん、俺、遺言なんて聞きたくないですよ」

 だから俺は、そう呟く。

 それは紛れもなく、俺の本心だったと思う。目の前で死にゆく様など、見たくないと――。けれど、そんな俺の言葉など聞こえなかったかのように、彼は告げる。


「俺たちは……吉田にやられた」と。

「――ッ」


 瞬間、全身の毛が逆立った。


 それは決して遺言などではなかった。

 彼はこの期に及んで任務を全うしようとしている。


 そのことに気が付いた俺は、安藤さんの直ぐそばに近づいた。


「奴は……まだ、その辺りに……いる、筈……」

 息も絶え絶えに、安藤さんは繰り返す。


「吉田を捕えろ、奴を斬れ」――と。


 吉田……。

 俺はその名前を、記憶の海から探り当てる。そのどこか聞き覚えのある名前に……俺はほんの数秒、押し黙る。

 池田屋事変――吉田……。


「吉田……稔麿(としまろ)、ですか?」

 ふつふつと湧き上がる黒い感情を胸に感じながら、俺は何とか言葉を絞り出した。

 すると、微かに唇の端を上げる安藤さん。それはおそらく肯定を意味していた。


 俺が安藤さんの唇に耳を寄せれば、彼は更に続ける。


「……奴は、今……片腕しか、使えん」

 ――片腕……?


「もしかして、あなたが……?」

 俺が尋ねれば、再び口角を上げる安藤さん。そうして彼は――満足した様子で意識を失った。

 それはどこか、吹っ切れたような表情で……。


「……安藤さん、わかったよ」

 俺は、安藤さんの羽織を握りしめる。まだかすかに上下する胸の動きを見つめながら、静かにその場に立ち上がった。


 俺のすべきこと――それを、腰のこの刀に強く誓って。


「……奥沢さんの敵討ち……してやるよ」


 最後にそう呟いて、俺は(きびす)を返す。


 まだ近くにいるであろう吉田稔麿を倒すべく――俺は本来の目的も忘れ――再び暗闇の中を駆けだした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ