二
◇
「平助ッ!」
その光景を見た瞬間、俺の中で何かが爆ぜた。
目の前で今にも命を奪われようとしている仲間の姿に、びくともしなかった筈の足が――突如として地面を蹴った。
それは自分の意志とは関係なく、ただ、そうするのが当たり前であるかのように。
――眩んでいた視界が、一瞬のうちに広がる。暗がりから日の光の下に――トンネルを抜け出たような形容しがたいその感覚に、俺の心は打ち震えた。
目の前の光景がスローモーションのように流れる。
俺の空いたままの左手が、刀を握る右手に添うように伸び、床を駆け抜ける両足の動きに合わせて勢いをつける。
そうして俺は気が付けば――今にも平助を斬り殺さんとしていた男の横っ腹に――刀を深く突き刺していた。
「……は」
それは生々しい感覚だった。肉にナイフを突き刺したときよりももっとずっと弾力のある何かを……それはきっと内臓だったのだろうが、それを突き刺した感覚が両手を伝わり、俺の全身の産毛が逆立つ。
突き殺したその亡骸が重力に従って地面に倒れると同時に自然と刀が抜けた後も、その感覚が消えることはなかった。
――それにどういうわけだろうか。
先ほどまで感じていたはずの恐怖を、今は全く感じない。ついさっきまで震えていた両手も、しっかりと刀を握り締めている。
冷たかった手足にも血液が巡り、バクバクとうるさかった筈の心臓の鼓動も平時の動きに戻っていた。
「……はっ、はは」
――何だよ、これ。アドレナリンでも出てるのか……?
俺は酷く冷静になった頭で考える。左手を刀の柄から離し、その手のひらをじっと見つめた。
先ほどまで言うことを聞かなかった筈の自分の身体が、思い通りに動くその当たり前の感覚が、突然放り込まれたこの凄惨な現場にあまりに不釣り合いすぎて、乾いた笑いが出るのを止められない。
――が、それも束の間。
「秋月ッ!」
背後から俺の名を呼ぶ土方さんのその声に振り向けば、彼は敵の刀を受け止めながら平助へと視線を向け、そして今度は俺に向かって声を張り上げる。
「お前、平助を連れて離脱しろ! そいつはもう動けねェ!」
「え――」
その声に、俺も平助の方を見やる。すると彼は土方さんの言葉通り、額を左手で押さえながら床にうずくまっていた。
確かに、この状態で戦えるとはとても思えない。ここは土方さんの言葉に従うべきだろう。
俺は刀を鞘にしまって平助に肩を貸す。
そうして、「悪ぃな」という平助の頼りない声に何と返したらいいのかわからないまま、俺は平助を半ば引きずるようにして急ぎ出口へと向かった。
◇
「大丈夫か、平助」
「ああ、こんなのかすり傷だ」
俺は平助を池田屋から少し離れた路地の端で座らせて、額の傷口を確認する。暗がりの中だったがそろそろ目もなれてきた。傷口を見ることくらいは造作もない。
「――痛ッ」
額に指先を少し触れると、平助は顔を歪めた。
――ああ、やはりこれは……。
「平助、これ結構深いぞ。痛いだろ」
「……」
「でも、骨まではいってない。不幸中の幸いってやつだな。……とりあえずこれで傷押さえとけよ」
そう言いながら、俺は懐から取り出したハンカチを手渡す。すると平助は、それを受け取りながらも怪訝そうな顔をした。
「お前って変な奴だよな」と呟きながら。
「変……? まぁ、そうかもしれないな」
そもそも、この時代の常識は俺にとっての常識ではない。
痛いものは痛いし、多少の痛みは我慢できてもこれほどの傷にやせ我慢できるほどのタフさは持ち合わせていない。
それは、怪我をしたのが他人であっても同じことだ。
俺がそんなことを考えていると、再び平助が呟く。
「さっきは助かった」と。
その言葉に俺は驚いた。
そして同時に、とても後悔した。
何故って、俺がもっと早くに動けていれば、すぐに加勢できていたら、平助は怪我を負わずにすんだのかもしれないのだから。
「なさけねェよな、俺。こんな怪我して、皆に迷惑かけてさ。……お前にだって」
「……そんなこと」
それは珍しく、気落ちした平助の姿。
というよりそもそも、知り合ってまだ間もない俺は、平助の気弱な姿など一度だって見たことがない。
だが少なくとも俺が目覚めてからの二週間の間の平助は、いつだって明るくてどこかお調子者で、新選組内のムードメーカー的存在だったのだ。
そんな彼が、ここまで気を落としている。怪我を負った――ただそれだけのことで。それだって、決して彼のせいではないだろうに。
けれど、そう思うと同時に俺はこうも思った。
この世界では――少なくとも新選組に身を置く者にとっては、戦線離脱というのはそれほど不名誉なものなのだろうと。
彼らには俺の常識など通用しない。俺の言葉など、きっと何の慰めにもなりはしない。
そのことを悟った俺は、もう何も言うまいと決めた。
そして、今はとにかく周りを警戒することに努めようと決意した。
今何者かに襲われでもしたら、平助はひとたまりもない。池田屋の騒ぎが片付くまでは、俺が平助を守らなければ――と。
だがそう決意した……その時だった。
――ちりん。
それはあまりにも唐突だった。
先ほどまで物音一つ聞こえてこなかった暗闇のどこかから、鈴の音が一つ響いたのは……。
――ちりん。
「……え?」
それは凛と済んだ音だった。美しい響きをしていた。
池田屋から空気に乗って流れてくる、薄い血の匂いや罵声とは不釣り合いの、美しすぎる音色。
その音に、俺の思考は再び停止する。
――ちりん。
三度目の鈴の音が鳴り響く。
一分の曇りもない響きが――雑音すらかき消して――俺の脳裏に響きわたる。
「なんだ、これ……」
おかしい、変だ。
この雑音の中、頭に直接響いて聞こえるこの鈴の音は、明らかにこの場には異質のもので。美しいのに、胸騒ぎが広がって……。
――ちりん。
何だ、どこだ、いったいこの音はどこから……。
「秋月……どうした?」
あたりを見回す俺の行動を不信に思ったのか、平助が眉をひそめる。
そんな彼の様子に、俺は悟った。この鈴の音はきっと彼には聞こえていない。俺だけに聞こえる音なのだと。
――ちりん。
ああ、まただ。
俺はその音の主を探る。そうして――見つけた。
池田屋とは反対側の、闇夜のずっと向こう。そこに光る二つの丸い光。それは――そう、猫の目だった。
俺をじっと見つめる、猫の瞳。
その不気味な眼差しに、俺の心臓が大きく跳ねる。既視感のある、その明るすぎる黄色い光に。
「あれ……は」
知ってる、俺はあの目を知っている。あの猫を――そうだ、忘れるはずがない。
暗闇に光るその猫の目はまさに、幕末に飛ぶその寸前、俺と千早が追っていた猫のものだったのだから。
「……どうして」
思わずそう呟いて、俺は闇夜からこちらを見つめる猫を凝視する。
どうして、――何故、あのときの猫がこんなところに。
――にゃおん。
猫は俺の視線を感じたのだろうか、一度だけ大きく鳴き声を上げると、そのままトトッと暗闇の中に姿をくらませてしまった。
「待っ……!」
あぁ、やはり間違いない。あのときの猫に違いない。
理由などない。けれど、なぜだかそうだとわかるのだ。
ああ――そうか、きっとそうなのだ。
あの猫がここにいるということ。つまりそれは、あの猫こそがタイムスリップの何らかの鍵。それなら尚更、追わなければ……捕まえなければ――。
そんな考えに支配された俺は、本能のまま数歩踏み出し――けれど寸でのところで我に返って足を止めた。
「……あ、……俺」
後ろを振り向けば、平助が不思議そうな顔で俺を見つめている。
「どうしたんだよ、向こうに何かあるのか?」
――どうする、どうする。
今ここを離れるのは不味い。平助を置いて……それに、もしすぐに戻れなければ土方さんにどう思われるかわからない。
逃げたと思われるかもしれない。間者だと疑われるかもしれない。
だが……けれど――。
俺の脳裏に過る、千早の姿。何よりも大切な、彼女の笑顔。
それを守る為だけに、俺はここにいる。その為に俺が今すべきこと。――それは……。
あぁ――そうだ、俺の目的はただ一つ。
俺の成すべきことは、千早と共に一刻も早く未来に帰ること。それさえ達成されれば、他のことは取るに足らないことなのだ。
つまり――。
「……悪い、すぐ戻る」
ようやく心を決めた俺は、それだけ言い残して今度こそ駆け出した。
「おい、秋月ッ!?」
俺の背中に平助の呼び声が突き刺さるが、それを無視して走り去る。
怪我をした仲間を置いていくなんて最低だと、自分自身を責めながら。
一体後でどのような罰を受けることになるのだろうと、嫌な汗をかきながら。
――でも、それでも俺は、今すぐにでも未来に帰りたいんだ。千早と一緒に。
それが俺にとって、一番大切なことだから。
――ちりん。
その音だけを頼りに、俺はひた走る。
何度も角をまがり、細い路地を駆け抜けて――ひらすらに地面を蹴り続けた。
あの猫を捕まえなければと、ただその一心で。
そうしてどれくらいたっただろうか――鈴の音を頼りにいくつめかの角を曲がったその瞬間――俺は何か重たいものにつまずいてバランスを崩し、勢いよく地面の上に転がった。




