表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/82



 夜の帳が降りた京の都は身も蓋もなく闇に沈み、昼とは違う夜としての情景を映している。月明かりの恩恵はほとんどなく、街灯もない小路は何もかもが闇に呑まれていた。


 時は、丁度()の刻。

 沖田総司、永倉新八、藤堂平助、以下六名を率いる近藤隊は、今にも池田屋に踏み込もうとしていた。


 だが、そこに帝を含む土方隊と井上隊の姿はない。

 祇園、縄手通(なわてどおり)方面を回る二つの隊は、まだ池田屋に到着してはいなかった。


 ――そもそも、近藤から新選組隊士らに告げられた作戦に“池田屋”という言葉は一言たりと含まれていなかった。

 あくまで土方が考えた作戦は市街地をしらみつぶしに調べ上げるローラー作戦であり、そこに池田屋の襲撃は含まれていない。


 それは土方や山南が、隊士の中に長州藩らと通じている間者がいることを警戒した為であり、そして真の目的(つまり、池田屋の襲撃)が外部に漏れる可能性を排除したいがためのことだった。


 それに土方は、少なくとも帝の言葉が彼にとっての真実であるとは確信できても、それが必ず起こりえる未来であると信じ切ることは出来なかった。


 たとえそれが、未来からすれば過去に起きた事実であろうとも、実際はそうでなかった可能性は否定できない。その場にいた者でさえ、立場が違えば目の前の事実を歪めて見てしまう――まして百五十年も先に語り継がれた史実など全く当てにならないと、土方はそう考えていた。


 だから彼は、保険をかけて隊を三つに分けることにした。そして、最も腕の立つ沖田を含めた近藤隊を先に池田屋に向かわせることにした。


 そして土方隊と井上隊は途中で別れ、井上隊はそのまま進路を変えずに池田屋と離れた市街の警戒にあたってもらい、自らは池田屋の背後に回り込む形で引き返すことを決めたのだ。



「……あの、土方さん、池田屋は――」

「んなこたわかってんだよ。てめェは黙ってろ」

「――っ」


 夜闇の中で隊を率いる土方のすぐ隣にいるのは、どういうわけか帝であった。

 組長でも何でもない帝がどうして土方の隣にいるのかと問われれば勿論、土方が帝を監視しているからに他ならない。


 そして、帝をまっさきに池田屋に向かわせないようにしたのも、土方の警戒心の強さを表していた。


 もしも帝の言葉が真実ならば、池田屋は間違いなく戦場になる。そうなれば他人の心配をしている余裕などなくなり――つまり、もしも帝がその場から逃げおおせたとしても誰も気が付くことが出来ないと、そう考えたからだった。


 まぁその考えも今となっては、千早を屯所に残してきた時点で消え失せたと言えるのだが――。



 土方は帝を自分の間合いから決して遠ざけないようにしながら、細い小路を先頭を切って進んで行く。本当の作戦を知らされていない隊士らの、それでも殺伐とした気配を背中に背負いながら、彼は人目を避けるような道を選んで、池田屋への距離を縮めていく。


 そして池田屋まで直線距離およそ50メートルまで来たところで、唐突に足を止めた。池田屋の様子を伺い、まだ何も始まっていないことを確かめると背後を振り返る。



「――おいてめェら、俺はこいつを連れてちょいと抜ける。お前らはこのまま長州藩邸へ迎え。そして藩邸に逃げ込もうとする腰抜け共を一人残らず狩りつくせ」

「……副長、それは一体」


 斎藤は、土方と――として土方の手によって腕を掴まれた帝を交互に見つめて眉をひそめる。

 “逃げ込もうとする腰抜け共”――その言葉の意味を悟った上で、なぜ帝だけを連れて行こうとするのか理解できなかったからだ。


 だが斎藤は、すぐに言葉を呑み込んだ。土方から放たれた、鋭い殺気に当てられて。


「――斎藤、指揮はお前が取れ」


 困惑を隠せない斎藤に、土方は短くそう告げる。すると同時に、池田屋の方で怒号が上がった。どうやら始まったようだ。

 その尋常でない様子に隊士たちは一瞬ざわめいたが、斎藤は今度こそ自体を把握したのだろう。その場の隊士たちを瞬時に制し、そして抜刀の指示を出す。


 それは確かに、土方の命を受け入れたと言う意思表示。


「どうぞ、副長はお行き下さい」

「頼んだぜ」


 土方は斎藤の返答に満足げにほくそ笑み、今度こそ帝を引きずるようにしながら池田屋の方角へと姿を消した。



◇◇◇


「――なん、……だよ」

 ――こんなの、聞いてない。


 土方と帝が池田屋に到着したとき、すでにそこは血の海だった。


 不意打ちにやられたのだろう、刀を抜く余裕すら与えられなかった長州藩の志士ら数名が、無残な姿で床に転がっている。


 そしてそんな屍を飛び越えながら、近藤と平助が志士らと戦っていた。


 二階からも刀の打ち合う音が聞こえて来る。罵声と、暴力。そしてむせ返る血の匂い。

 それが帝の鼻孔を刺激して、彼は今にも嘔吐してしまいそうになる。



「なんだぁ、手こずってやがんのか、近藤さんよオ!」

 土方はふざけたような口調で、それでも池田屋に踏み込んだその一瞬から、眼の色を変えて敵に斬り込んでいく。


 だがその一方で、帝はどうしてもそこから動くことができなかった。

 池田屋の敷居をまたぐことすら出来ず、彼はただその場で固まっていた。


 お世辞にも広いとは言えない建物の中で繰り広げられる激しい斬り合いに、響き渡る、刀と刀のぶつかりあう無機質な音が酷く不愉快で。


 飛び交う怒号と悲鳴が、あまりに非現実的で。

 ひたすらに濃くなっていくばかりの血の匂いに、眩暈すらおこしかけて――。


「……っ」


 ――んだよ、コレ……っ。


 聞いてない、聞いてない。

 こんなに酷い有様だったなんて、聞いてない――!


 目の前に広がる、赤、赤、赤……。


 あまりにも鮮やか過ぎる、紅――。


「――うっ……おぇ」


 彼はその場で膝をつき、数時間前に食べた夕食を吐き戻す。

 それでも何とか自分を奮い立たせ、フラフラとその場に立ち上がって目の前の惨状にまぶたを細めた。


 ――ああ、俺は一体何をやっているんだと、無力感に苛まれながら。

 こんなことなら、千早の言う通り、断っていれば良かったんだと後悔しながら。


 帝のすぐ目の前で、土方の刀が男の心臓を一突きにしている。平助の刃が、また別の男の首筋をなぞり――次の瞬間にはそこから噴き出した真っ赤な血が、平助の羽織を紅に染めた。


「……あっ――あ、あ」


 右手に握りしめる刀が、カタカタと震えている。

 否、震えているのは自分だ。今にも取り落としてしまいそうに、手には力が入らない。膝も震え、一歩も前に進めない。


 かと言って、逃げ出すことも出来なかった。


 ――何故なら、帝はずっと監視されているのだから。


 敵と相対している土方は、それでも尚、帝から監視の目を離さない。

 その場から動けないでいる帝が、いったいこれからどうするのかと、その覚悟を見定めるように、少しも帝から注意を反らさないのである。


 もしも一歩後ずされば、土方の刀が自分の命を取るだろう。

 けれど前に踏み出せば、今の自分ではあっと言う間にやられてしまう。


 ――死にたくない。死にたくない。


 わかっていた筈だったのに。刀を握るということは、こういうことだとわかっていた筈だったのに。


 何度も何度も、頭の中で繰り返していた筈なのに。

 ――人を斬り殺すその瞬間を、覚悟していた筈なのに。


 俺はまだ、こんなにも弱いのか。


「――クソッ!!」


 帝は唇を噛み締める。

 悔しさに顔を歪め、顎をしたたる血の雫に構うことなく、それでも尚噛み締める。


 彼はわかっていた。もしもこのまま自分が何ひとつ功績を上げられなければ、それは土方と結んだ契約の決裂を意味することを。


 自分がここで何もできなければ、土方は自分を認めてはくれないことを。


 ――千早……俺に、――俺に力を貸してくれ。


 彼は祈る。

 ただ千早を守りたいが為に。それだけの為に。

 

 千早の思いを踏みにじり、無理やり眠らせて置いてきてしまった恋人を想って彼は願う。

 どうか――どうか、と。


「動けよ……。動いて……くれよ」

 鉛のように重い足の太ももに、袴の上から爪を立て、彼は奥歯を食いしばる。


 動けよ、動け――と、何度も何度も繰り返しながら。



 すると――そのときだった。



「平助ッ!!」――と叫ぶ近藤の声に顔をあげれば、額に傷を負った平助が床に尻をつき、そしてそんな平助を斬り殺そうと刀を構える男の姿が、帝の視界に映り込んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ