六
*
そうして、そのすぐ後のことだ。千早は帝によって、屯所の屋敷の裏手に連れてこられていた。
「帝、こんなところで内緒話なんて……もし誰かに見られたら」
千早はずんずんと先に進んでいく帝の背中に向けて、不安げに呟く。
今は屯所全体の雰囲気がピリピリしている。つまり、こんなところを誰かに見られでもしたら本当にまずいのだ。けれど帝だってそれくらいはわかっている筈だ。
それなのにそんなリスクを冒してでもこうやって二人きりになろうとしている当たり、緊急の要件と言うことなのだろうか。
千早はそんなことを考えながら、帝の後ろに着いて歩いた。そうして丁度どこからも死角になりそうな植え込みの辺りまで来たところで、帝はようやく振り向いた。彼は千早の手を掴んでその場でかがむように指示し、真剣な顔で千早を見つめる。
「手短に言う。今夜の作戦には参加するな。土方さんには話を通してあるから」
それは有無を言わせない声音だった。そのことに、千早は酷く動揺する。
「どうして……。ただの見回りでしょう? 伝令なら危なくないし大丈夫だよ。それに木刀は持っていっていいって、沖田さんからも言われてるし……」
「それでも駄目だ」
「……どうして」
今のところ千早と日向は伝令役として作戦に参加することになっている。つまり前線ではない。――だが、帝はそれすらも許さないと、そう言っているのだ。それどころか、既に土方に話を通してあるとまで言っている。これは一体どういうことか。
そう考えた千早は、一つの可能性に気が付いた。
「……もしかして、帝は知ってるの? 今夜何が起こるのか」
それは千早の勘だった。けれど、強い確信を得ていた。
すると帝はすぐに頷く。それは、隠す必要などありはしないと言いたげに。
「聞いたことくらいあるだろ。今日は6月5日。池田屋事件の起こった日だ」
「池田屋事件って……、あっ」
――瞬間、千早は思い出した。
池田屋事件なら聞いたことがある。詳しい経緯や内容は知らないが、池田屋と言う店で新選組と尊王攘夷過激派の志士たちが激突したという話。敵味方は定かではないが、死傷者も多数出た事件だった筈。その事件が起こるのが、今日だと言うのか……。
考え込む千早に、帝は繰り返す。
「だから今日の作戦に参加するのは止めろ。体調が悪いって言えば、行かなくて済むから」
「……でも」
確かに帝の言う通り、そんな危険な事件には関りたくない。けれど、今の帝の言い方からするに……。
「帝も参加しないって言うなら、私もしない。けど、帝が行くなら私も行く」
それは千早がずっと心に決めていたことだった。自分を庇って帝が怪我を負ったときから、ずっとずっと考えていたことだった。
二度と帝を危険な目に合わせないと。偶然そういう場に出くわしてしまった場合はともかくとして、回避できることなら事前に必ず回避するのだ、と。
それは勿論今夜の事件も例外ではない。
「……それは」
「出来ないって言うんでしょ。……駄目だよ帝。私に参加せなくないって言うなら、帝もやめて。そうじゃなきゃ、私は帝の言うことを聞けない」
「……っ」
「帝、何か隠してるでしょ。私、気付いてるんだから」
「……」
「ちゃんと言ってよ! 隠し事は嫌だよ。私も……帝の力になりたい。一人で抱え込まないで」
千早はそう言って、じっと帝を見つめた。
けれど帝は何も言わなかった。帝は、自分を見つめる千早の視線からどうにか逃れようと、ただ唇を結んで瞼を伏せるだけ。
「……どうしても、言えない?」
そんな帝に念押しすれば、彼は頼りなさげに頷いた。
「言えない。言いたくない」と。
「……帝」
そんな帝の姿に、千早の胸は締め付けられる。
そうまでして隠したいこととは何なのか。隠し事をしていると知られてまで、尚隠さなければならないこととは何なのか。
きっとそれは命に関わるようなことなのだろう。そうでなければ、帝がここまで頑なになる筈がないのだから。
――どうしよう。これ以上、何て言ったら……。
千早も言葉を選びかねていると、今度は帝の腕が自分に向かって伸びてきた。
言葉では伝えられない。白状も出来ない。けれどどうしてもわかって欲しいと、それをどうにか伝えようとして……帝は千早の背中を引きよせ、精いっぱいに抱きしめる。
「ごめんな。言えないんだ。――でも、納得できないかもしれないけど、俺の言うことを聞いて欲しい。千早は今夜何もするな。何もしないで、どうかここで待っててほしい」
「……そんなの卑怯だよ。言えないのに、私にだけ言うこと聞けって言うの?」
「ああ、そうだな。俺は卑怯だよ。でもわかってくれ。千早は女の子だし、伝令だけって言ったって……もし万が一何かあってからじゃ遅いんだ」
それはまるで、今夜“何かが起こる”ことを確信しているような言い方だった。そのあまりにも悲痛な声に、千早の胸は締め付けられる。
確かに池田屋事件が史実通りならば、今夜必ず“人が死ぬ”。何かが起こる――それは間違いないことだ。
それでも、それがわかっていたとしても、ただ言いなりになって頷くことだけは出来なかった。
「私だって帝が怪我したら嫌なのは同じだよ。だから、帝も行くのを辞めてって言ってるの」
けれど、帝が頷くことはない。
「それは駄目なんだよ。俺は行かなきゃいけない。約束したんだよ。土方さんと、……約束したんだ」
帝の顔が歪む。千早の背中に回した帝の腕に、力が込められる。本当はそうしたい、でも、それは出来ないんだ――と。
そんな帝の態度に、千早はやはりこれは何かがおかしい……と、そう思わざるを得なかった。
「約束って……?」
だから彼女は尋ね返す。「一体それはどういう意味か」と。けれど帝は何も答えない。
「ねえ、やっぱりおかしいよ帝」
「……」
「何とか言ってよ。こんなんじゃ私……」
――こんな帝、知らない。私、見たことない。
千早の心にじんわりと不安が広がっていく。心臓の鼓動がうるさいのに、指先は冷たくて。
「帝……」
何度名前を呼んでも黙ったままの帝に、頭の中は焦燥感でいっぱいになっていく。
「もう何も聞くな。これ以上言いたくない」
ようやく口を開いた帝の言葉は、千早を到底納得させるものではなくて――。
「……あのね、帝」
「お願い。ここで待ってて。終わったら、俺、千早の言うこと何でも聞くから。――な?」
「……」
帝の言葉に、千早は悟る。
――ああ、もう、何を言っても無駄なんだ……。
帝は自分の意見を押し通すことしか考えていない。こうなってしまっては、もう自分の声は届かないことを、千早は確かに知っていた。つまり、答えは一つしか用意されていないのだ。
帝は傍から見れば寛容で寛大な人間だ。人当たりが良く他人の意見は一度はすべからく受け入れ真っ向からは決して否定したりはしない。それがどんなに非効率で筋の通っていない意見であろうと、だ。勿論最終的にはそのどうしようもない意見が採用されることはないが、それはきちんと相手を納得させる論理的な意見を展開した上でのことだ。
だがそれは一重に、帝は心の底では他人に全くと言っていいほど興味を持っていないからだった。だからこそ帝は冷静な視点で周りを説得し、そして相手の感情を瞬時に察知した上でその場その場に必要な言葉を適切に選択して心を動かすことができるのだ。
けれど、例外もある。
こと自分の身近な人間に対しては、彼は必要以上の執着を見せるのだ。それはすべての人間に当てはまることだろう。けれど、帝のそれは少々異常な程だった。
彼は、彼のもっとも近くにいる人間に対しては、それこそ自分の一部であるようにふるまったり、意のままに操ろうしたりする。意見が食い違うとあからさまに不機嫌な態度を取って見せたり、ときには攻撃的になったりもする。
そのことを、千早はよく知っていた。
それでも帝と付き合い続けているのは、それ以上の余りある魅力があるからなのだが……。ともかく、今の帝は何を言われても自分の意志を曲げる気はないようだ。それに今の帝がこうであるのは、自分の身を案じることから来るもの。ならば尚更、答えは一つしかない。
――帝の提案を受け入れた振りをして、ギリギリになってからやはり参加出来ると言って皆について行く。皆の前で言い張れば、帝もどうしようもないだろう。
そう考えた千早は、「わかった」と頷いた。
「……でも、帰って来たら今帝が隠していること、全部話してもらうからね」
――これは振りだ。けれど、あまりにもあっさり同意してしまっては不審がられてしまう。
千早はそれを見越して、不満たっぷりな様子で答える。
すると帝は一応納得してくれたようだ。千早の背中に回していた腕をほどき、「本当だな!?」と多少は顔を明るくして千早の顔をじっと見つめた。
千早がそれに頷くと、彼は今度こそ心から安心したようにほっと胸を撫でおろす。
「俺、帰ってきたら全部ちゃんと話すから」
「絶対だからね」
「ああ、約束する」
そうして、再び千早に近づく帝の顔。
「――え?」
何事かと思えば、帝は鼻先の触れそうな距離で、――囁く。
「行ってらっしゃいの、キスして」
「――っ!?」
それは突然の要求だった。千早は帝の切り替えの早さに、これでもかと目を大きく開かせる。
「ちょ……っと、何言ってるの、こんな時に」
「こんな時だからだろ。なぁ……ダメ?」
「~~っ」
――ああ、その声は反則だ。
千早の頬が赤く染まる。
帝の声は色っぽくて、その微笑みは見ているだけで甘くて……こんな状況なのに、こんなことしている場合じゃないのに、どうしたって引き寄せられてしまう。
「な――千早」
そうして次の瞬間には、唇をふさがれてしまうのだ。
――そう、こんな風に。
「……ん……っ、みか……っ」
「黙って」
「――んんッ」
それは本当に長い長い口づけ。
再び背中に回された力強い腕が、決して抵抗を許さない。
「……く……るしっ」
激しくて、激しくて……息をするのも忘れてしまいそうになる。
奪うような、何か大切なものを奪われるような……。頭の中が痺れて、何も考えられなくなる。
「……可愛い」
「~~っ」
キスとキスの僅かな合間に、耳元で囁かれる甘い声。身体の芯に染みわたる――心地よい低音。
「千早の全部……俺に頂戴」
その手が背中から腰へゆっくりと往復した。優しく、なめらかに、けれど――執拗に。
「声……出していいよ」
「……んっ、……あ、……んんっ」
「……はは。やべーよ、……その顔すげーエロイ」
恍惚とした表情で囁く帝は、――千早のよく知る帝だった。この時代にくる前の、彼女のよく知る帝の姿だった。
自信家で、自己中で、自分の欲望に忠実で……けれどいつだって誰よりも輝いていて、誰からも頼りにされる、そんな彼。――例えそれが、彼の素顔ではなかったとしても、
「……千早、愛してる」
その声は何よりも強い麻薬となって、千早の全身を犯していく。
帝のその熱い視線が、甘い声が、切なる吐息が、力強い腕が――その全てが太い鎖のように、千早の心と身体に絡まり、もうどこにも逃がさない。
「……口、開けて」
「……ん、……ふっ」
言われるがままに唇を薄く開けば、次の瞬間には全身を犯されたように身体が痺れて思考が麻痺していった。
――あれ、何だろう。何か…………変。
自分の咥内に侵入してきた帝の熱に犯される。――けれどそれとは違うほんの少しの違和感に……千早は思わず目を見開いた。
「――ん、……んッ」
そうして彼女は、帝の胸を押し返そうと腕に力を込める。けれどそれは叶わなかった。
「………やっ……ぁ」
――なんで……こんなに、ねむいの……?
彼女がそれを自覚したときには瞼は重く、必死に上げようとしてみても、もう、ちっとも上がらなかった。
――どう……して……。
その理由を確かめる間もないまま、千早の思考は深い闇に落ちていく。その最中にも、帝の舌は帝の口の中を侵し続けていた。最後まで――抜かるものかとでも、言うように。
そうして数秒の後、千早の腕がだらりと落ちる。全身から力が抜けて、帝の呼びかけにも全く応じなくなった。
帝は千早が完全に眠ってしまったことを確認し、ようやく千早の唇を開放する。その表情にはほんの少しの後悔と、――覚悟。
「……おやすみ、千早」
彼は甘く優しい声で囁いて、すっかり眠りに落ちた千早を背中におぶり、静かにその場を後にした。




