四
◇◇◇
屯所の敷地の隅にある蔵。そこは牢獄だった。元々はただの蔵だったのが――いつしか捕えた者を拷問する為の牢獄となったのである。
蔵からは禍々しい気配が漂ってくる。中を覗けばそこはあまりにも暗い。本来光を通す筈の格子窓は、音すら通らないよう固く封じられ、灯りは外から持ち込まれた小さな蝋燭の火のみだった。――足を一歩踏み入れれば、こびり付いた血の匂いが鼻孔を刺激する。そんな蔵の薄暗い闇の奥からは、男の低い唸り声が響いていた。
「ぐ……ッ、うぅ……ッ」
二階から逆さ釣りにされ、手足の爪が全て剥がされた一人の男――この男こそ、今朝がた捕えられた長州間者の古高俊太郎である。顔には既に何度も殴られた形跡があり、胴や手足にもまだ新しい傷がいくつも付いていた。しかし、そのような拷問を受けようとも口を割らなかったであろう古高の足の甲には、土方の手によって今にも五寸釘が打ちつけられようとしている。
その傍らには、その様子を見つめる近藤の姿もあった。
「どうだ。そろそろ言う気にはならんか? いったいあの武器はどこから入手したものか」
近藤は据えた瞳で古高に尋ねる。けれど古高はそれに答えることなく「幕府の犬が」――と吐き捨てるのみ。それは、心底恨めし気な視線と共に。
だがそんな口を叩きつつも、彼にはその口調とは裏腹に、二人に抵抗出来る気力は既に殆ど残されていないようにも見えた。その証拠に、古高はそれ以上何かを口にすることなく、苦し気に顔を歪め瞼を下ろす。四、五時間は逆さづりにされている為か、頭に血が上り酷く気分が悪そうだ。
「こちらとて本当はこんな手荒な真似はしたくない。だが、吐かぬと言うなら致し方ない。――釘は……痛いぞ」
近藤はそう言って土方に合図を送る。その合図と共に、土方は金づちを振り上げた――その時だ。
「待ってください」
そんな声と共に、突然蔵の扉がぎぃ――と音を立てたかと思うと、蔵の中に一筋の光が差し込んだ。近藤と土方は驚きを隠せない様子で背後を振り向く。するとそこには、ここには居てはいけない筈の帝が立っていた。それも、帝ただ一人で。
その姿に、土方は真っ先に顔色を変える。
「なぜてめェがここにいる」
そう低く呟いて、彼は帝を睨みつけた。そう、土方は帝を呼びつけてなどいなかったのだ。つまり、先ほど帝が斎藤や沖田、そして千早に伝えた言葉は真っ赤な嘘だったのである。勿論、土方はそのやり取りを知る由もないが――。
「ここには入るなと言ってあった筈だが。――日向はどうした」
それは強い殺気だった。今まで古高に向けられていたその気配が、一瞬で帝に向けられる。
土方は日向を見張りに立たせていた。それなのに何故帝は扉を開けられたのか。――土方は凄むが、帝は怯むどころか平然と答える。
「本当に見張りのつもりなら、日向じゃなくて別の人間を使うべきでした」
「……」
この言葉に、土方はより一層眉をひそめた。そしてそれは近藤も同じだった。
「秋月君。ここは立ち入りを禁じている。命令違反者には罰を与えなければならないが」
――それはいつもの優しい近藤の言葉ではなかった。けれど内容は至極全うなものだ。この蔵には幹部にすら立ち入りを禁止している。それを破ったとなれば、罰を与えられても文句は言えない――が、そう言われてもなお、帝は表情一つ崩すことはなかった。彼は「勿論承知しています」と言いながら、蔵の扉をゆっくりと閉める。
そうして帝は、土方の右手に握られる金づちを見つめながら小さく口角を上げた。
「この前の俺の言葉を証明しに来たんですよ、土方さん」
「……」
――この前の言葉。
土方にその意味がわからない筈が無かった。千早が街で不定浪士らに襲われたあの事件のあった日――帝は土方と山南の前で自らの正体を告白したのだ。“自分は未来からの来訪者である”――と。
勿論そんな言葉を、土方と山南がすぐに信じる筈はなかった。けれど、二人と出会ったときの見慣れない服装や、あまりにも流暢な異国の言葉、そして今の文化に不慣れすぎる行動や言動に、その言葉が嘘だと言い切ることも出来なかった。寧ろ、未来人と言われてしっくりくる程だった。
それにもしも帝のその言葉が真実だとしたら、帝や千早は過去に起こった出来事――つまり、これから起きることを知っているということになる。そしてそれは二人が最強のカード足り得ると共に、最悪のジョーカーにもなり得る危険な存在だということだ。
そのことに瞬時に気付いた土方と山南は、この先の未来を知る二人を上手く利用すれば、自分たち――つまり新選組、強いては幕府のいいようにことを運ぶことが出来るかもしれないと考えた。けれど同時に、もし協力を得られなければ、逆に身を亡ぼすことになるとも思った。
何故なら今を生きる土方らが、二人が語る未来が「真実か嘘か」を見定める術はないのだから。嘘をつかれても知りようがない、かと言って他に渡してしまうわけにもいかない。それはあまりにも危険過ぎる存在――。
けれどだからと言って、すぐに殺してしまうわけにもいかなかった。未来から来た人間を殺してしまったら、それこそ一体何が起きるかわからないと考えたのだ。
そうして導き出された結論。それは、一先ず「保留」であった。けれど、何もせずにただ保留というわけではなかった。土方と山南の二人は帝にこう求めた。まずは、自分が未来から来たということを証明してみせろ、と。
そしてその答えが、「今」――という訳なのだろう。
「証明……ここでか?」
「はい。俺は確かに知ってます。……この古高って人のこと。まぁ、会うのは勿論これが初めてですけど」
帝はそう言いながら、蔵の中央へ足を進めた。そうして吊り下げられた古高の前で立ち止まる。
土方はそんな帝をじっと見つめ――また、近藤はそんな二人を訝し気に交互に見やった。
「……トシ? 一体これはどういうことだ」
近藤は、帝が「未来人」だと言うことは聞かされていないようである。
「……悪い。情報が不確かすぎて近藤さんには秘密にしてたんだが。……ま、ちょっと黙ってそこで見ててくれるか」
暗がりの中で、土方の眼光が鋭く揺れる。そのあまりにも真剣な眼差しに、近藤は小さく溜息をついた。そこから二、三歩後退し腕組みをする。どうやら土方の言う通りにするつもりなのだろう。
「――で、どうやって証明してくれるんだ」
土方はその薄い唇に、ニヤリと弧を描かせる。すると、帝もフッと微笑み返した。
そうして帝は、古高を冷ややかな眼で見上げる。――否、吊り下げられている古高を、見下ろす、と言った方が正しいかもしれない。
「古高さん」
帝が呼べば、古高はゆっくりと目を開いた。意識は朦朧としているようだが、帝の呼びかけに返事をするくらいは出来そうだ。
帝は続ける。
「俺、実は知ってるんです。あなたたち、暗殺計画を企てていますよね?――将軍、一橋慶喜公と京都守護職の松平容保の」
「――っ」
瞬間、古高の顔色が変わった。だが帝のこの発言に最も驚いたのは、古高でも土方でもなく、近藤勇であった。
「一体何を……」
近藤は土方の願い通り、この場を静観するつもりでいた。けれど帝の口から真っ先に飛び出たその言葉に、口を挟まずにはいられなかった。将軍らの暗殺を企てているという、その内容に。
だが、それは致し方ないことだろう。その計画は、口にするどころか、想像することさえも恐ろしい内容だったのだから。
けれど帝は、その近藤の反応すら予想していたようである。彼は近藤を横目で見やると、ニコリと微笑んで右手の人差し指を自分の口元ですっと立たせた。黙っていて下さい、と――「しっ」と囁くような声と共に。
「……ッ」
そんな帝の余裕気な笑みに、近藤は今度こそ言葉を呑み込む。そうして、もう何も言うまいと、蔵の壁に背中を預けた。
それを確認し、帝は再び古高に視線を向ける。
「でも、それだけじゃないですよね。そう……確か計画の全容はこうだった筈。
『祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる』」
帝は言いながら、古高の表情をよく探るようにその場に腰をかがめた。吊り下げられた古高と目線を合わせ、その顔色をじっと観察する。
だが、古高は何も答えない。
「……よくもそんな恐ろしいことを」――と、よもや帝の言葉を非難するような口ぶりで、帝を睨みつけるのみ。
だが、それも帝の予想の範疇だった。
「まぁ、いいんですよそれは。別にあなたが認めようと認めまいと。……あなたがこうやって捕まっている時点で、計画は失敗に終わるわけですので」
「……っ」
刹那、今度こそ古高の眉がぴくりと動いた。――「計画は失敗に終わる」というその言葉が、腑に落ちないという様子である。
帝の口が、ニヤリと歪んだ。
「どうしてだと思います? 不思議ですよね? あなたが捕まっただけで計画は失敗に終わるなんて、どうして言い切れるんだって。――確かにそうです。あなたは主犯格じゃないですし、武器も奪還した。祇園祭まではあと2日。それまでの間に、京に潜伏してる長州の人間を全員見つけ出すことなんて実質不可能に近い。それなのに、何故――と」
帝は据えた瞳で淡々と述べる。
土方はそんな帝の横顔を、少し離れた場所から観察するような鋭い目つきで見つめていた。
帝は続ける。
「ではどうして失敗に終わると言い切れるのか、教えてさしあげます。
――あなたのお仲間はこれから、捕えられたあなたを救い出す計画を立てるんです。今頃必死で計画を立てているんじゃないですかね。まぁ、計画の内容はここを襲撃するっていう杜撰なものでしょうが。……そして最終的に、あなたの奪還計画を決行するか否かを協議する為の会合が行われる」
「……何……だと」
「もうお判りでしょう? その会合には、長州藩士の方々が集まりますよね。俺たちは先んじて、その会合場所を襲撃するつもりなんですよ。……この意味、わかりますよね?」
つまり帝は、その会合を襲撃することによって要人の暗殺計画自体を頓挫させる、と言っているのだ。
けれど古高には、帝の話が信じられなかった。いや、信じたくなかったと言うべきか。
確かに帝の話は真実だ。長州藩士らは帝の拉致及び将軍らの暗殺計画を企てている。――けれど、自分を奪還するかどうかを決める為の会合によって計画が失敗するなど、決して信じたくないことだった。
それに、そもそも自分が捕えられたのは今朝がたのこと。それなのに何故この秋月と言う男は、そんな会合が執り行われるなどと言い切ることが出来るのか――。しかも、その会合場所を既に知っている口ぶりである。時間的に考えて、会合場所などまだ決まっているわけがないのに、だ。
そう考えたのであろう古高は、心底気味悪げに帝を睨みつけた。
「貴様はその会合場所を既に知っていると……そう言うのか」
「……ええ」
「何故……わかる」
古高は更に瞳を細める。けれど帝が古高を睨み返すことはなかった。彼はただ冷静な瞳で古高を見据えるのみ。
「どうしてってそれは、既に決まっていることだからですよ。未来は既に決まっている。ただ、それは隠されていて今はまだ見えないだけ。でも幸か不幸か、俺にはそれが見えちゃうんです。――ですから、あなたもここで認めてしまった方が身のためですよ。俺はあなたにも長州の方々にも恨みはないですし、こんなことする理由もありません。ですがそこにいる近藤さんや土方さんは違います。
あなたがこの計画の存在を認めなければ、土方さんはあなたの足に容赦なく釘を打ち込みますよ。それでもなお認めなければ、今度はその穴に、熱した蝋燭を垂らすつもりでいるんです。多分、今あなたが想像しているよりずっと辛い拷問だ。……そうして結局、拷問を受けたあなたは計画を認めてしまう。なら、せめて痛みの少ない今のうちに認めてしまった方が、身のためだと思いませんか?」
それは確信に満ちた声。とは言え、帝は古高の答えには興味が無かった。認めようと認めまいと、会合は行われる。それをもって、自分が未来人であると言う証明は成される筈なのだから。
帝は屈めていた腰を伸ばして姿勢を戻す。そうして、傍でこちらの様子をじっと伺っている土方の方へ視線を向けた。
「……そうですよね? 土方さん」
「……」
それは一体何の確認だったのか。近藤にはわからなかったが、問われた土方にはわかっていた。
確かに土方は帝がここを尋ねてくる前、古高の足の甲に釘を打ち込もうとしていた。その光景は帝も見ていた筈である。だからそれを帝が知っていたとしても何ら不思議はない。けれど、その後のことまで――つまり、それでも古高が吐かなかった場合、傷口に溶かした蝋燭を垂らすという未来を、帝が知っているわけがないのである。もしそれが可能だとしたら、それは帝が土方の考えを読んでいるのか、あるいは帝が「未来を知っている」からに他ならない。
それに何より、帝は未だ誰にも予想しえない、それどころかまだ計画も立てられていないであろう「古高奪還の為の会合」について予知して見せた。もしもこれが事実だとしたら、それは確かに「帝が未来人であるという確たる証拠」となる。
「……確かに、お前の正体はこれで証明された」
土方が唇をニヤリと歪ませた。帝もそれに微笑み返す。
「では、俺はもう出て行きますね。これ以上こんな場所にいたくはないので。――近藤さんには、土方さんから説明しておいて下さい」
それはあまりにも強気な態度だった。けれど、土方はもう帝を止めようとも咎めようともしなかった。今より帝は、新選組にとって「最強の切り札」になったのだから。
帝は蔵の扉に手を添える。扉を開けようとして――だが、そこでふと手を止める。
「……そう言えば、一つ確認するのを忘れていました」
「何だ」
背を向けたままの帝の言葉に、土方が尋ね返す。
「古高奪還の為の会合……実際にそれが行われて初めて、本当の意味で俺の素性の証明となるのでしょうが……」
「……」
「あの日した“取引”――今このときから有効にして頂きたいんです。その会合には勿論、それ以前も以降も――今後一切千早を戦場には立たせないと……今、ここで約束して下さい」
――取引。それは帝が自分の正体を明かした際、土方と山南に持ち掛けたもの。その内容の一部である「千早の身の安全の確保」。それを今より有効にしろ――と、帝は言っているのである。
土方はその言葉に、ほんの少し考える素振りを見せた。短い沈黙の後、唇を薄く開く。
「認めねぇと、その会合場所は教えねェってことなんだろ? だったら、俺にははなっから選択の余地はねぇじゃねェか」
「……」
土方のそのあっけらかんとした物言いに、帝の背中がほんの少しだけ安堵に震えた。
「――場所は池田屋です。今日の亥の刻ごろに行けば、丁度いい頃合いだと思いますよ」
帝は淡々とした口調でそう告げて、今度こそ蔵を後にした。