一
「ん……、朝……?」
千早が目を開ければ、そこはいつもの彼女の部屋ではなかく、6畳程の見慣れない和室だった。障子戸の向こうから、ぼんやりとした柔らかい光が部屋に降り注いでいる。
「……どこ、ここ」
千早はまず茫然とした。自分の部屋どころか、ここは自分の家ですらない。全く知らない場所にいるというこの状況に。そして――。
「帝……!」
彼女は昨夜の出来事を思い出し、思わずその名前を叫んだ。怪我をした帝の変わり果てた姿――それだけを思い出して。
彼女は立ち上がろうと身体に力を込める。部屋の中には帝はいない。居るのは、昨日助けた女の子一人だけ。ならば帝はどこ行ったのだ、一刻も早く探し出さなければならない、と。
だが、それは叶わなかった。立ち上がろうとした彼女は、バランスを崩して畳に倒れ込む。
「……痛」
彼女は愕然とした。なんと両手が背中で縛られているではないか。それも、ちょっと縛られている、くらいの話ではない。テレビで悪党がお縄になるようなシーンばりに、きつくきつく縛られている。全く身動きが取れないと言う程ではないが、自力で抜けるのは不可能だ。それに、恐らく昨夜ついた傷だろう。制服のスカートから出た自分の両ひざは痛々しく擦り剝け、血が滲んでいた。それも砂がついたままの状態で、だ。
「……嘘」
それは自分の怪我についての言葉ではなかった。この場から決して動けないことを悟った絶望からの言葉だった。このままでは、帝を探すなんて不可能だ。それどころか、自分の身すら危うい。
「夢じゃ……なかった」
夢であって欲しかった。夢であれと願っていた。昨夜の一件は全て悪い夢で、起きたら全て元通りだと――そうであって欲しいと願っていた。けれどその願いは打ち砕かれた。
ああ、ならば一体何だと言うのだろう。ここは本当に自分たちのいた時代ではないのだと――そう信じるしか、諦めるしかないのだろうか。でもそんなこと、簡単に信じられる筈がない。
「……帝、どこにいるの」
彼女は必死に思い出そうとした。昨夜の、変わり果てた姿の恋人を。――彼の傷は深かった。早く病院に連れていかなければならないというのに、自分がこんな状態ではそれは叶わない。それどころか無事であるかも怪しいのだ。あれだけの傷を負って無事でいられる筈がない。なのに、それどころかここが21世紀ではないなどと言うことになったら……。
「……どうしたらいいの」
気付けば、いつのまにか自分の頬が濡れていた。怖くて――怖くて。もうどうしようもできない。何もわからない。芋虫のような恰好でただ畳に突っ伏して、彼女はただ泣くことしかできなかった。
だが――そんな彼女の嗚咽に反応したのだろうか。
千早の傍に寝かせられていた少女が薄っすらと目を開けた。彼女は少しの間茫然としていたが、突如として顔を上げると、横で泣きはらす千早を凝視した。
「あの……大丈夫、ですか?」
そう声をかけられて、千早はびくりと肩を震わせた。
「どこか怪我でも……」
その言葉に千早が隣を向けば、少女は自分を心配そうに見つめている。
それは、千早と同じかそれより少し下くらいの年頃の、小柄な女の子だった。
昨夜は暗がりでわからなかったが、柿色の着物に胡桃色の袴を履いている。千早とは正反対のタイプの顔立ちの彼女は、どちらかと言えば童顔で幼い。長く艶やかな黒髪は後頭部の高い位置で結われている。千早との共通点と言えば、色白なくらいだろうか。
「……大丈夫、怪我は大したことないの、私は」
ああ、人前でみっともなく泣いてしまった……。
千早は自己嫌悪に陥りながら涙をどうにかして拭けないものかと考えた。けれど、両手を縛られている状況ではどうにもならない。それに改めて自分の姿を確認すると、紺色のブレザーは砂と土埃で白く汚れているし、スカートには血がべったりとこびり付いていた。涙なんて気にしたって仕方がないくらい、今の自分の恰好は酷い有様なのだ。
「あの……昨夜私を助けて下さった方、ですよね?」
少女は千早に問いかけて、畳の上に突っ伏したまま彼女に頭を下げる。
それを見て、千早は再び昨夜のことを思い出した。
そう言えば、自分は途中で気を失ってしまったが、この子ならあの後帝がどうなったのか知っているのではなかろうか、と。
「昨日、私と一緒にもう一人男の子が居たでしょう? その子、どこに居るのか知らない?」
千早は尋ねる。けれど、少女は首を横に振った。
「ごめんなさい。私もあの後すぐに気絶させられてしまって。だから、その方の居所はわからないんです」
だけど――と、少女は続けた。
「ここがどこかならわかります」
「ほんとに?」
「はい」
少女の言葉に、千早は覚悟する。この場所がどこなのか。それはきっと、きっと、普通ならあり得ないような場所なのだろう。けれど、現実は受け止めなければならない。
「ここは、新選組の屯所です」
その答えに、千早は自分の奥歯を噛み締めた。
――ああ、やっぱり、と。
本当は、他の可能性であることに望みをかけていた。テレビ番組のドッキリだとか、ヤクザだとか……けれどその可能性は、目の前の少女の一言で打ち砕かれた。
ここは“新選組の屯所”なのだ。
新選組の……そう、それは千早の住む時代よりもずっと昔の。
「……そう、なんだ」
今にも叫びだしたい気持ちを必死に抑えて、彼女は顔を俯かせる。悟られてはいけない。知られてはいけない。自分がこの時代の人間ではないなんて――絶対に知られてはならない。
あり得ない――あり得ない。
だけどこれが現実なのだ。夢ではない、この膝の痛みも、少女の身に着けた着物も――昨夜走り回った街の低い建物も……鉄の、匂いも――これが現実なのだと、全てが本物なのだと証明している。
「……あの、大丈夫ですか?」
俯いた千早に、少女が優しい声で問いかける。
――大丈夫かなんて、そんなはずがない。
千早はそう思った。けれど、それはこの少女のせいではなということもわかっていた。
自分たちがこんな目にあっていることに、彼女は何も関係ない。
それに、もとはと言えば自分のせいなのだ。あの時、黒猫を追おうなどと言った自分のせい。
帝が斬られたのも、こんな場所で捕まっているのも、全部全部自分のせい。
だがら――。
千早は必死に涙を堪えて、顔を上げる。
――が、丁度そのときだ。
千早が少女の問いに応えるより先に、部屋の障子戸が開かれた。
二人は文字通りびくりと身体を震わせて、開いた戸の向こうに顔を向ける。
するとそこには一人の眼鏡の男が立っていた。
彼は二人と視線が合うと、申し訳なさそうに眉根を下げる。
「おや、起きていましたか。今、縄を外しますからね」
そう言った男の声は穏やかだった。そしてその態度も、二人を決して不遜に扱うようなものではなかった。
そうであるから、千早の隣の少女は安堵した様子を見せた。
けれど、千早の方はそうはいかない。
なぜって、男が着ているのは胴着と袴であるからだ。髪も、現代では見られないほどの長髪で、それを頭の後ろでくくっている。
そうであるから、いくら目の前の男がこちらに敵対心を見せないからと言って、決して安心など出来なかった。
だってこの時代の人から言えば、千早や帝のような服装をした者は問答無用で敵と見なされてしまう存在なのかもしれないのだから。
千早は昨夜のことを思い出す。“君は何者か”と問いかけた一人の男のことを。鋭い瞳で自分を見下ろしてきた男のことを――。
「さっそくですが、これより貴方がたから話を聞きたいと思っておりまして。案内するので、着いてきていただけますか」
縄を解かれた二人は、男にそう告げられる。一見質問のように聞こえるが、拒否権はないのだろう――。
となりの少女に続いて、千早も「はい」とだけ短く答える。
――だが、それにしても不安だ。
するとそんな千早の心境を察したのか、隣の少女が右手を差し出してくれた。
「大丈夫だよ」
少女はにこりと微笑む。
それはこの状況には似つかわしくない、あまりにも優しい笑顔。
その微笑みに千早は、もしも彼女がいなければ今私はこんなに冷静でいられなかったかもしれないと、そんな風に思った。
縁側に出ると、太陽は既に東の高い位置に上っていた。
昨夜のことが嘘であったかのように、眩い光が純朴な庭を明るく照らしている。血生臭さとはまるで無縁な様子で。
――そう言えば今は何時だろうか。千早が左腕の時計に目をやれば、針は9時20分を指していた。普段ならとっくに授業を受けている時間だ。ああ、今頃向こうはどうなっているのだろう。突然姿を消した私や帝を、家族は探してくれているのだろうか。
彼女はそんなことを思いながら顔を前方に向ける。すると男と日向が、緊張感もないような言葉を交わしていた。その様子を他人事のように見つめ、千早は再び腕時計に目を落とす。
去年の誕生日プレゼントとして帝から送られたシルバーピンクの可愛らしい腕時計。それを見て、そう言えばこの時代の日本に腕時計はあっただろうか……と思った。
そして考えた末、彼女は時計を腕から外し、決して誰にも取られないように……と、スカートのポケットに大切にしまい込んだ。