六
――嗚呼……。
それは本当に一瞬だった。飛び散る、赤。売れた果実が弾け飛ぶように、真っ赤な血しぶきが地面に散った。生々しい鉄の匂いが辺りに立ち込め、土の上に朱い模様が浮かび上がる。
地面を赤く赤く――染めあげて。
「ち……はや……?」
彼はそれでも動けなかった。地面に広がっていく赤い血だまりを他人事のように眺めながら、彼はただ茫然とそこに立ち尽くすことしか出来なかった。周囲の悲鳴も、怒号も、罵声も――それら全てをまるで、夢の中のことのように感じながら……。
逃げ惑う人々が、立ち止ったままの沖田の腕や肩に容赦なくぶつかってきて、その場で倒れそうになる。地面を汚す血だまりから視線を逸らすことが出来ない沖田に、町民らは「邪魔だ」「どけ」などと言葉を吐きながら逃げ去っていく。
「……あ……あ、ぁ」
それでも沖田は動けなかった。よく見慣れた筈のその赤い色がいやに禍々しく、彼の思考を浸食していた。
「あ……ああ………」
朱に染まる千早の着物。少年を力一杯抱きしめたまま、ぴくりとも動かない彼女の背中。
「……う、……ッ」
刹那、酷い吐き気が込み上げた。彼は右手で口元を押さえ、堪えきれずに片膝をつく。
「――ぐ、……」
そして同時に彼の口から溢れ出したのは、先ほど食べていた団子だった。沖田は込み上げる吐き気と眩暈を抑えきれず、胃の内容物を全て土の上に吐き戻す。情けなくも、地面に両ひざをついたまま――。
――あぁ、何だよ……これ。こんなの、夢に決まっている。夢に、……決まってるだろ。
沖田の意識は今にもこと切れてしまいそうだった。耳鳴りが酷い。千早のもとに駆け付けなければならないのに、どうしても顔を上げられなかった。脳みそが直視することを拒んでいた。――見ていられない、と。
けれど、その時だ。――彼の耳に届いた微かな声が、その意識を一瞬で引き戻す。
「……沖田さん」
「――ッ!」
瞬間、沖田は大きく目を見開いた。今の声は間違いなく千早のものだ。
彼は顔を上げた。そしてようやく気が付いた。――斬られたのは、千早ではなかったのだ。斬られたのは男の方だったのだ。
沖田の視線の先で、千早に覆いかぶさるように崩れ落ち、彼女の着物を未だ赤く染め上げている無惨な亡骸。それは先ほどまで千早に斬りかかろうとしていた男だった。その男の手から落ちたのであろう刀の刃は、まだ血に染められてはいない。
「……千早」
ああ、あれは千早の血ではなかったのだ。あの血は男のものだったのだ。
――彼女は……無事だ。
それを確信した沖田は今度こそ立ち上がった。未だ鼓動は早いが、吐き気はもう感じない。
それを認識すると同時に、彼の頭は冷静さを取り戻す。そうして気が付いた。千早や少年らの向こう側から、事切れた男を冷たい瞳で見下ろす一人の侍がいることに。
それは先ほどまではなかった筈の気配。気づかない筈がない程の、強烈な殺気。
「……誰だ?」
沖田は呟く。
恐らく自分と同じくらいの歳であろうまだ若いその侍は、背中まであろうかという長い髪を首の後ろで括った、不思議な存在感をまとった男だった。以下長髪の男と呼ばせてもらうが――彼は既にこと切れてしまった男を、まるで虫けらでも見るような強烈な目つきで見下ろしていた。
「……女子供に手を出すとは、武士の風上にもおけないな」
彼は刀から滴る赤い雫を振り払い、千早に覆いかぶさったままの男を容赦なく地面に蹴り落とす。そうして次は、腰を抜かした様子の残りの二人を冷たく流し見る。冷徹な殺気を放ちながら。
それは今まで数々の死線をくぐり抜けてきた沖田からしても、異様なほどに強い殺気。
そんな殺気に当てられて、普通の者なら平静を保ってはいられない。けれど二人は酔っているからなのか、それとも余程の馬鹿なのか、激情しその場に立ち上がる。
「やりやがったな……ッ!」
「ぶっ殺してやるッ!」
二人は仲間の仇を取ろうと、刀を抜いて斬りかかった。荒い声が響き、再び周囲に悲鳴が上がる。
――だがそのおかげで、千早や少年らは解放された。ああ、今ならば……。
沖田は今度こそためらわず、地面を強く蹴り走り出す。それと同時に抜刀しながら、千早や少年らを庇う位置取りで騒ぎの渦中に滑り込んだ。
「お……沖田さ……っ」
「しっ、黙って」
千早の声は震えていた。流石に怯えているようだ。けれど慰めるのはまだ先である。沖田は千早の言葉を遮り、彼女の肩を押し出して間合いを確保した。
男らは沖田の登場に多少怯んだものの、一人は沖田の方へ、もう一人は仲間の仇の方である長髪の男へと斬りかかっていく。
沖田は、長髪の男は余程の手練れであろうと踏み、自身は目の前の相手に集中することに決めた。――と言っても、沖田からすれば酔っている相手など赤子同然だ。彼は相手の刀をさらりとかわし、そのまま男の右太ももに向けて刀を突き刺し――引き抜いた。
「ぎゃあああ」
瞬間、男は悲鳴を上げる。肉の抉れた脚を押さえ地面へと転がった。沖田はそんな男の右腕から刀を蹴り飛ばし、そのまま右手を踏みつぶす。骨の砕けるような音がして、男は再び悲鳴を上げた。
――こんな奴らに、刀を握る資格はない。
「痛えええッ」
「情けない声を上げるな。こんなことで死にはしないよ」
「……貴様あッ」
右手を踏みつぶされた状態のまま、男は沖田を恨めしそうに見上げ、吠える。だが沖田の次の言葉を聞いて、今度こそ押し黙った。
「喚くな。無駄口を叩くならその喉元、掻き切るよ」
「――ッ」
そう言った沖田の表情には、不快感が露わにされていた。
本当ならこんな奴ら叩き斬ってしまいたい。刀を抜いた時点で死の覚悟はしている筈だ。けれど、これ以上千早を怯えさせたくはない。――生きて残すのは、そう考えた末の行動だった。
そうして沖田は、残った一人の方を見やる。向こうも既に終わっている筈――。
――だが。
「ぎゃッ」
押し黙った筈の男が、再び悲鳴を上げた。それはあまりにも短い悲鳴だった。
沖田は驚いて視線を戻す。――すると、今まで生きていた筈の男が心臓を貫かれてこと切れていた。……それは長髪の男の手によって。
「――なッ」
沖田は愕然とする。今までそこになかった気配。それが沖田の気づかない内に一瞬で移動し、気づいたときには男の心臓を貫いていたからだ。寸分違わず致命傷を与え――しかもわざわざ殺さずに生かしておいたというのに、それを知っておきながらこの長髪の男は……。
沖田は、三人のうち一人を残せば、結果的にあとは殺してしまっても良いと思っていた。千早を怯えさせたくないという気持ちは勿論あったが、それ以前に男らの身元をはっきりさせねばならないと考えていたからだ。だから長髪の男に一人を任せた手前、自分が相手にする一人は生かしておく予定でいた。
それなのに、長髪の男は三人全てを殺してしまったのだ。敢えて一人を生かしておいたということくらい、わからない筈がないなのに……。
「……何故、殺した」
沖田は憤る。全身から殺気を放ったまま、目の前の長髪の男ををじっと見つめた。けれど男は沖田の言葉に応えることなく、刀を振りぬいて血を振り払う動作をする。それでも払いきれなかった血を何か汚れたものでも見るような目で見つめ、最終的には懐から取り出した紙で拭い始めた。
「……お前は何者だ」
沖田は尋ねる。――この男は只者ではない。彼の勘がそう告げていた。
血を拭い去った男は、ようやく口を開く。
「そんなに睨まないでくれないか。ただの通りすがりだよ」
その声はよく通っていた。よく見れば顔立ちも良い。目鼻立ちはきりりとしており、けれどどこか中性的で美丈夫と呼ぶにふさわしい顔をしている。背は高く、体つきも悪くはない。どちらかと言えば武士というより、公家の様な雰囲気をまとった男である。
けれど彼が先ほどまでまとっていた殺気は疑いようもない。この男は、間違いなく手練れである。
「へぇ……。それにしてはずいぶんと腕がたつようですが」
「まぁ。多少は身に覚えがあるからね」
男の口調は穏やかだった。表情も微笑んでいるように見えた。けれどその眼は決して笑っていない。
――この男、捕えなければ。
沖田はそう確信していた。千早を助けれてくれたとは言え、この男は三人も斬り殺してしまった。どうあっても、この場で捕えなければならない。……だが、捕えるのは殺すよりも難しい。相手が手練れであれば尚更だ。
――どうする……。
目の前の男は既に刀を鞘に納めている。もう殺気も感じない。任意同行を求めるべきか。だが、もしも応じなかったらどうする……?
沖田はそう考えていた。――そんなときだ。
「……お兄……ちゃん?」
ふと、そんな声が聞こえてきた。それは千早の声だった。
――兄だと?
沖田が声のした方を振り向けば、千早が道の端から男の方をじっと見つめていた。これでもかと大きく目を見開き、口を両手で覆いながら……。それは、お化けでも見るかのような顔で。
「……嘘」
彼女の口から洩れる声。今にも泣きだしそうに震える声。
千早の足が、男に向かって一歩踏み出される。それを見た沖田は舌打ちをして、その場から身を翻した。男に背を向けた沖田は、千早をそれ以上男に近づけさせまいと彼女に駆け寄る。
「――千早、あの男には近づくな」
「……でも」
その瞳が大きく揺れる。千早の目は沖田を見てはいなかった。彼女は沖田の向こう側を見つめていた。とても懐かしいものを見るような瞳で、縋るような眼差しで――。
「お兄ちゃん!」
千早は今度こそ叫ぶ。沖田に肩を掴まれ身動きを封じられたまま。だが、呼ばれた男の方は反応しない。ちらりと千早を一瞥するが、それ以上の反応を見せることは無かった。
「何を言ってるんだ。君の兄は異国に居るんじゃなかったのか」
沖田が問いただせば、千早はびくりと肩を震わせる。
「……そう。……そう、ですよね。ここに……兄がいるわけない」
そうして、自分に言い聞かせるように呟く。けれどその表情はどうにも腑に落ちない表情で、沖田は再び憤った。
――一体どういうことだ。まさか、本当にこの男が千早の兄だとでも……? だが、もしそうだとしたら不味いことになる。
沖田は再び男を振り向き睨みつけた。
目の前の男は見たところ生粋の日本人だ。異国かぶれの様子もない。もしもこの男が千早の兄だとしたら、千早と帝の生い立ちは全て嘘ということになってしまう。他人の空似であるというだけなら問題ないが、だとしても何故千早がここまで動揺するのか。その理由は一体何だ。異国にいる筈の兄が日本にいる、それだけではこうも心を取り乱す理由にはならないだろう。
つまり、千早は何かを隠しているのだ。目の前の男の正体が何であれ、「兄」が決してここに居る筈のない、居てはいけない決定的な訳を。
沖田がそんなことを考えていると、男が口を開いた。彼は人だかりのずっと向こうの景色を見つめ、沖田に話しかける。
「ところで、あちらからやって来るのは君のお仲間では?」
「……ッ」
その言葉に、沖田は反射的に男の視線の先を追った。仲間とはいったいどういうことか。
確かに視界の向こうからは男の言葉通り、浅葱色の集団が近づいてくるのが見える。
それを確認した瞬間、沖田は再び全身から殺気を放った。
「どうして――ッ」
沖田は視線を男に戻す。何故僕が新選組だと知っている――と。けれど、そこには既に男の姿は無い。
「――な」
それはほんの一瞬だった。沖田が男から視線を離したのは、それこそほんの2、3秒だった筈。けれどそんな僅かな隙に、男は姿を消したのだ。
――一体どこに行った……!
沖田は左右を見回す。けれどもう、男の姿はどこにもない。
「千早、今の男――」
沖田は千早を振り返った。けれど、彼女も自分と同じく男を見失ってしまった様子だった。それに、今の千早はとても沖田の問いに答えられる状態ではなさそうだ。彼女は先ほどからずっと心ここにあらず、と言った様子で茫然としているのだから。その証拠に、胸の前で祈るように合わせられた両手は、未だ震えが止まっていない。
「……兄ちゃん、どないしたん」
千早の背後から少年の声がする。その更に後ろでは、幼子が心配そうに千早を見上げていた。けれど当の彼女はそれすらも聞こえないかのように、ただ身体を強張らせるばかりだった。