三
◇
それと同じころ、朝餉を食べ終えた帝は膳を持って広間を出ようとしていた。
本当ならもっと早く千早を追うつもりだったが、あまり二人きりになって噂されても困るからと、仕方なく皆が食べ終わるまで待っていたのだ。
――にしても、さっきの沖田さん……。
帝は先ほどの沖田の表情を思い出す。千早のすぐ後に席を立ち、部屋を出て行く間際に沖田が見せたあの顔。あのとき自分は、沖田に睨まれたのだ。……恐らく、沖田自身は無自覚だったのであろうが。
「……嫌になるぜ」
昔から自分の勘はよく当たる。それも、悪い予感は特に。
一週間前に目を覚ました帝は、千早に対する沖田の態度にすぐに違和感を持った。そこに決定的な理由などなかった。けれど、千早に向ける沖田の視線がどうも気に触ったのだ。
だから帝は、その日の内に沖田にカマをかけた。結局その時は上手くはぐらかされてしまったが、――今度こそはっきりした。沖田は少なからず千早に好意を寄せている。もしかしたら、沖田本人は気が付いていないのかもしれないが……。
そんなことを考えていると、帝は土方に名前を呼ばれた。振り返れば、無表情の土方が自分のすぐ背後に立っている。
「お前、そろそろ動けんだろ。斎藤の隊に入れる前に、少し確認しておきたいことがある。それ下げたら俺の部屋に来い」
「……はい」
いよいよ自分も訓練に加わることになるらしい。
帝が頷けば、土方はすぐに行ってしまった。そうして今度は、パタパタと聞き覚えのある足音が聞こえたかと思うと千早に名前を呼ばれる。
「帝!」
「……千早」
振り向けば、そこにはいつも通りの千早がいた。
――よかった。もしや本当に怒らせてしまったのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
千早は帝に近づいて、「さっきはごめんね」と微笑みかける。「言い方きつかったかなって」と言って、すまなそうな顔をした。
「いや、俺の方こそごめん。流石にちょっと……あれだ。デリカシーなかったかなって後悔してた」
「ううん、そんなことないよ。それで……話変わるんだけど、今から沖田さんと出かけてきていいかな? 今日非番だから、街を案内してくれるんだって」
「――え」
――それは、二人だけで?
喉からそんな言葉が出かかった。けれど、帝は何とかその言葉を呑みこむ。
正直言って嫌だった。行くな、と止めてしまいたかった。だって、沖田が千早に何らかの好意を持っているのは間違いないのだ。いくら沖田に自覚がなくとも、二人きりというのは気に食わない。
――けれど……と、帝は考える。
言い方は悪いが、沖田が千早を狙っている素振りは無いし、千早の方も沖田に興味を持っている様子はない。それに、変に疑って心の狭い男だと思われるのも癪というものだ。
加えて、この街のことを少しでも多く知っておく必要があるのも事実。自分たちが未来へ帰る、その時の為にも。
そう考えた帝は笑みを浮かべる。
「わかった。京の治安は悪いって聞いたけど、沖田さんが一緒なら心配ないしな」
「うん。2時間くらいで戻るから。帝は今日も山南さんのところ?」
「いや、ちょっと土方さんに呼ばれてる」
「そっか。何の話したかまた後で教えてね!」
「おう、そっちもな」
「うん!」
短い会話の後、手を振りながら去っていく千早の背中を見送る。そうして帝は、膳を下げた後急いで土方の部屋に向かった。
◇
「それで、俺に確認したいことって言うのは……」
今帝は、土方の部屋の下座に正座していた。部屋の上手側には、土方と山南の姿がある。
千早と別れこの部屋を訪れた帝は、既に部屋で待っていた二人と対面していた。山南も一緒とは聞いていなかった帝だったが、先ほど土方が告げた「確認したいこと」というのに山南が関係しているのだろう――などど考える。
だが、それにしても……。
帝は戸の閉め切られた部屋で、酷く居心地の悪い思いをしていた。何故って、部屋に入ったときからずっと、どういうわけか土方が自分を睨んでくるのだ。それは一週間前、目覚めたばかりの自分に向けられた視線の様な……。
一体、この空気の原因は何なんだ……?
理由が思い当たらない帝は、先ほどの朝餉のときのことを思い出す。昨夜千早と二人きりで過ごしたのがそんなにまずかったのだろうか……などと考えながら。
けれど、理由はそれではなかった。少しの沈黙の後、山南がどこからともなく取り出した一冊の手帳――この空気の原因は、それの様だった。
「これ……」
それは生徒手帳だった。紺色の合皮の手帳で、表には校章と学校名が大きく書かれている。山南に手渡されて中を確認すれば、そこには証明写真すらないものの、自分の名前や住所、自宅の電話番号などが記されていた。
きっとここへ来た初日、傷の手当てをする際に制服から抜き取られたものだろう。千早より渡された自分の破れた制服には、生徒手帳は入っていなかった筈だから。だが、この手帳が一体何だというのだ。
もしやここに何か不味いものでも書かれていたとか? 自分では特に何か書いた記憶はないけれど……。
帝は中身をパラパラとめくっていった。けれどどのページも真っ白で、特に変わったところはない。
「これはお前の物で間違いないな?」
土方に念押しされ、帝は頷く。中に自分の名前が書いてあるのだ、否定する余地もない。
「確かに俺のものです。――これが何か問題でも?」
自宅の住所か? それとも学校の所在地だろうか? おかしなところと言えば、それくらいしか思いつかない。でもその住所を調べようとしたところで、今と未来の住所の表記は全然違うし、言及されるほどのことではないだろう。
帝は表情には出さないまま頭の中で考える。けれど結局、土方と山南の難しい表情の理由には思い当たらなかった。
そんな帝に、山南は答える。眼鏡の位置を中指で整え、冷静な声で。
「問題――と言うより、確認です。貴方は、その書の表にある家紋が何であるか知っていますか?」
「……家紋?」
それが校章のことだと言うことはすぐにわかった。帝は表紙の校章を見直す。「八条」という文字の下の、葉菊菱の模様を……。
――そう言えば、以前教頭が何か言ってた気がする。
葉菊菱をじっと見つめながら、帝は必死に記憶をたぐり寄せる。山南が「家紋」と言ったのだから、きっとこれはどこかの家紋なのだ。
「――あ」
そうして帝は思い出した。思い出してしまった。朝の集会での教頭の「我が校の校章は、木戸孝允氏の家紋を使わせて頂いており――」という、その言葉を。
瞬間、今までポーカーフェイスを貫いていた帝の顔が青ざめる。全く予期していなかった事態に、彼は全身から血の気が引くのを感じた。
木戸孝允――元の名を、桂小五郎。それは、新選組――つまり今の幕府と相対する立場である、長州藩の藩士の名前。
その事実に気が付き絶句する帝に、山南は小さく息を吐いた。
「ご理解いただけた様ですね。とは言え勘違いされないで欲しいのですが、私は別に貴方を疑っているというわけではないのです。土方君もまた同様。貴方が目覚めてからのこの一週間、私は貴方を観察させていただいておりましたが、特段怪しい点は見つかりませんでした。言葉通り、貴方はこの国のことをよく知らない様でしたし、秋月君と佐倉君が異国に住んでいたというのも疑いようがありません」
「……」
「けれど、これから隊士となり我々と行動を共にするとなると、ほんの少しの疑念すら見落とすわけにはいかないのです。――ですから、貴方と長州に一体どんな関係があるのかを今ここではっきりさせなければなりません」
帝は山南の言葉を聞き、膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。目の前の山南と言う男に、土方以上の畏怖の念を感じながら。
――何故って、山南はこの一週間、一度だって自分を疑っている素振りは見せなかったからだ。彼は手帳の存在を一月も前から知っていた筈なのに、それを千早にも自分にも悟らせず、ずっと自分たちを観察し続けていたのだろう。
全く、優しい顔をして人が悪い。総長の名は伊達ではないと言うことか。――帝は心中で山南に恨み節を唱えながら、それでもただ沈黙を貫き通す。
唯一の救いは、二人がこの質問を千早にはしていないことだろう。そうでなければ、千早が自分に伝えてくれている筈であるのだから。つまりこの問いは、俺を油断させ追い詰めて、真実を聞き出そうとする為に用意されていたシナリオということになる。
と言うことは、この場を切り抜ける可能性を探ったところで無駄なのだ。この場では誤魔化しも言い訳も通用しない。――それが、山南敬助の策ならば。
「……ああ、もう。本当に勘弁してくださいよ」
だから帝は諦めた。いくら考えても無駄なのだ、と。これ以上隠し通すことは出来ないのだ――と。
帝の投げやりな声に、そしてその態度に、土方は顔をしかめる。山南もまた同じだった。
「お前たちは、何者だ」
土方の地を這うような低い声。それが、帝にとどめを刺す。
「それを言ったら多分、お二人は俺たちを殺さなきゃならなくなりますよ」
力ない帝の声――その内容に、山南は眼鏡の奥の瞳を揺らした。
「――つまりそれは、貴方たちが長州と繋がりがあると、認めるということでしょうか」
「いいえ。俺たちは本当に関係ない。長州も、薩摩も、会津にも朝廷にも……新選組にも、全く縁のない存在です」
「それでは一体……」
訝し気な山南の視線。その射るような瞳に――帝は小さく息を吐いた。そうして躊躇うように口を開く。今度こそ、真実を告げる為に――。
「つまり、こういうことですよ」
そう言って、帝が二人に見せたのは生徒手帳の裏表紙。指を差すのは、生年月日の書かれたその一行。
「俺が産まれたのは西暦1995年。……今は元治元年ですから西暦1864年。つまり俺は、今より約150年先の時代から来た人間ってことなんです」




