七
◇◇◇
そうして廉が狭間と別れて3時間が経ったころ、廉は昂と共に一本の桜の木の前に立っていた。そこは恐らく、八条高校付近の雑木林の中だった。恐らくと言うのは、どういうわけかここに至る少し前よりスマホの電波が圏外になってしまったからである。圏外の為GPSが使えず、位置情報はわからない。付近をうろうろと移動してみてもそれは変わらなかった。
「……なんだよ、この桜」
二人の目の前には、高さ20メートル程ありそうな立派な桜の木がそびえたっていた。それも、5月中旬のこの時期にも拘わらず、満開の状態で――。
それはあまりにも異様な光景で、けれど言葉に言い表せないほどに綺麗な景色で――二人はしばらくの間会話も忘れ、桜を見入らずにはいられなかった。
◇
――二人がこの場所を見つけたのは、ほんの少しの偶然と、そして努力の賜物だった。
今より3時間前、昂から送られてきた写真を見た廉は、あることに気が付いた。
「……何だ、このファイル」
千早と帝が映った写真――その中の千早が、カバン以外に「赤いファイル」を所持していることに。
廉は写真を一目見てそのことに疑問を持った。何故なら、交番に届けられた千早の荷物にこのような赤いファイルはなかったからだ。
それに気づいた廉は、すぐさま昂に連絡を取った。そして、その赤いファイルが一体何なのか確認した。そしてわかったこと。それはそのファイルが、剣道部の次の大会準備用のファイルだということだった。剣道部曰く、4月21日に千早が部室から持ち出して以来、行方不明になっているという。
それを聞かされた廉は、自分の勘が正しかったことを確信した。もしも二人が本当にバス停で荷物を置き去りにしていたとしたら、そこには赤いファイルも共にあった筈である。けれどそれはなかった。ということは、バス停に荷物を置いたのは、ファイルの存在を知らない他の誰かだということになる。その誰かは、千早が赤いファイルを所持していることに気付かなかった。あるいは、その誰かが二人の荷物を発見したときには既に、赤いファイルは無くなってしまっていたのだろう――と。
そしてその誰かは、廉の考えが正しければ、秋月刑事その人の筈である。何故なら秋月刑事はこう言っていたからだ。「帝のGPSの反応は、バス停で途絶えた」と。もし本当にバス停でGPSが途絶えたとしたら、そこには必ず赤いファイルもある筈なのに――。
「……甘く見やがって」
廉はその時の秋月刑事の言葉を思い出し、吐き捨てるように呟いた。
きっと彼は、刑事部長という立場を利用して捜査状況を意のままに操っているのだろう。自分の都合のいいように情報を操作し、流している。誰一人、自分を疑う者はいない状況で。
つまり、秋月刑事は嘘をついている。そして、何か大きな事実を隠したがっている。この事件を起こしたのは別の人間だろうけれど――彼が隠し事をしているのは確実だ。その隠したがっていることの一つは間違いなく、今自分たちが立っているこの場所のことだろう。
――写真を手掛かりに高校周辺を手当たり次第走り回ってようやく見つけた、雨水の排水溝に引っかかっていた一冊の赤いファイル。そこを辿って3時間がかりで辿りついたこの場所。車の侵入は一切不可能な――曲がりくねった――細道を進んできた末に発見した、高い木々に囲まれた場所にぽっかりと空いたこの広場。
臙脂色の古びた鳥居をくぐり抜けた二人が辺りを見回せば、出入口は自分たちが通って来た細道一つしかないようだった。
廉は、鳥居があることからここは神社か何かだろうと思ったが、けれどどういうわけか社はない。また、しばらく人が訪れた形跡もなかった。乾いた地面には雑草が伸び放題で、誰かが足を踏み入れたような形跡もない。電波も届かず、高い木々に阻まれて日の光も殆ど通らない……そんな場所。
そして極めつけはこの桜だ。20mを超えてしまいそうなヤマザクラ。季節外れにも関わらず、満開に狂い咲く一本の巨大な桜の木――。
「昂、俺さ……」
その異様な桜を見上げながら、廉は呟く。
「千早はあの日、今の俺たちと同じように、この桜を見上げていたんじゃないかって思うんだ」
「――え?」
昂が廉の横顔を見上げれば、廉も昂を見つめ返した。
「俺を笑うか? 昂」
「……いいや」
昂は小さく微笑んで、再び桜をじっと見上げる。
「笑わないよ。だって俺も、そう思う」
――二人は不思議と確信していた。赤いファイルと落としていった千早は、帝と二人でここに迷い込んだ筈だと。そして、今の彼らと同じように、この桜を見上げていたのだと。二人が消えたのはバス停などではなく、この場所だったのだ――と。
それはあまりにも非現実な答えだった。けれど、目の前で咲き乱れる美しい桜の木が、非現実を確かに肯定しているのだ。
「……千早は、生きてる」
――廉のその声は、確信に満ちていた。やせ我慢でも強がりでもなく、強烈に胸に込み上げる信念に、裏付けされた言葉だった。
その力強い言葉に、昂も頷く。
「俺もそう思う」
――はらはらと舞い散る桜吹雪の中で、二人は遠く離れた千早を想い、願う。桜の花びらに彩られた真っ青な空を見上げながら。この地に足を踏み入れるまで不確かだった希望に、確かな光を見出しながら。
「俺は奇跡なんて信じない。だけど――」
それは凛としたよく通る声。疑いようのない言葉。だが、目の前の桜の木は常識を逸した存在で。
――廉はもう、認めざるを得ない。
「この桜は――確かに、奇跡だ」
“奇跡”という、あまりにも不確かで頼りない筈の存在を。千早はここではないどこかで生きているのだという、揺るぎない“奇跡”を。
「……待ってるからな」
千早は必ずここに帰って来る。そんな“奇跡”を信じ――二人はしばらくの間、桜吹雪にただじっと身をゆだねていた。