三
◇
それは凍てつくような声だった。今まで一度だって見たことのない、自分を蔑む昂の冷たい瞳。その表情に廉は思わず絶句した。
「つまりお前は、千早が死んでるって思ってるわけか」
「――っ」
明らかに、今の昂は普段の昂と違っていた。言葉遣いも、表情も、オーラも、性格まで別人になってしまったかのように、何もかもが違う。
そんな弟の姿に、廉はただ茫然とした。
「なあ、そうなんだろ? お前は、千早が死んでるって思ってんだよな?」
「……そんなわけ」
そんなわけない――そう言おうとして、けれど廉は言葉を呑み込んだ。
何故なら廉は、昂のその言葉が真実だと気付いてしまったからだ。彼は心の奥で確かにそう思っていた。「千早は死んだ」と、そう思ってしまっていたのだ。千早の無事を願っていた筈なのに、それがいつの間にか、千早の死から目を反らしたいというその一心になっていた。
「あるよな? 思ってたよな? だからこんな風に引きこもって現実逃避してんだろ? 諦めてるから。だからこんなところで時間を無駄にしてんだろ? なぁ――廉、認めろよ。お前が一番、千早を諦めてるんだって」
「……っ」
それは疑いようのない真実だった。自分の今の状況がそれを証明してしまっている。もはや否定することも、覆すことも出来ない。
昂は、廉が思っていたよりずっと廉の心を理解していたのだ。
「千早のこと心配してるふりして、本当は諦めてるんだろ? そうだよな、その方がずっと楽だもんな。あがいて這いつくばって千早を探すことに比べたら、その方がずっと楽だもんな? そうだろ?」
「――それは……」
廉はもう何一つ言うことも出来ずに、ただ昂の言葉をじっと聞いていることしか出来なかった。昂の迫力に気圧されて、8つも年下の弟の言葉に顔を背けることしか出来なかった。
「違うなんて言わせねぇぞ! 思い返してみろよ、お前はこの二週間の間に何をした!? 部屋にこもってメソメソ泣いてただけじゃねぇか! 現実から目を反らしてただけだろ!? 千早が今頃どんな目にあってるか考えれば、こんなところで時間を無駄にしてる場合じゃないことくらいわかるはずなのにな!?
言っとくけど、俺は諦めてないからな! お前がどう思うと勝手だが、俺は千早が生きてるって思ってる! どっかで生きてるって思ってる! 絶対に諦めてなんてやらねぇ! 警察が諦めても、父さんや母さんが諦めても、俺だけは諦めない。俺だけは姉ちゃんが生きてるって、ちゃんと帰ってくるって信じてる!」
廉は悟る。昂の言葉は本物だと。昂の千早を思う気持ちは、自分と同じくらい本物なのだと。彼だって本気で千早の無事を願っているのだと。
だって、今まで一度だってこんな昂は見たことないのだから。いつだって適当で、無難に毎日を過ごせればいいのだと、そんな日々に身を置いていた弟がこんな風に声を荒げているのだから。自分にまっすぐにぶつかってくるのだから。
「だから引きこもってる場合じゃねぇんだよ! 諦めんなよ! 家族の俺たちが諦めたら本当にお終いだろ!? 俺たちが千早の無事を信じてやらなくて、一体誰が信じるんだよ! そうじゃないのか!?」
今にも泣きだしそうな顔で、昂は続ける。いい加減にしろよ、目を覚ませよ、と。千早の無事を信じろよ――と。
「俺は馬鹿だ、兄ちゃんと違って何も出来ない、そんなこと自分が一番よくわかってる。だから兄ちゃんがそんなんじゃ困るんだ。俺は……何も出来ないから。まだ子供で、何一つわからないから……だから、俺――」
その声は震えていた。いつのまにか彼の目じりには、大粒の涙が溜まっていた。今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪え、彼は歯を食いしばる。
「俺……兄ちゃんのこと凄いと思ってるよ。強くて、かっこよくて……俺なんかには真似できないって、ずっとずっと思ってた。今でもそう思ってるよ」
「……昂、お前」
廉は大きく目を見開いた。目の前の弟の頬に流れた一筋の涙に――その、透明で澄んだ色の小さな雫に。昂は、自分を思って泣いてくれているのだと自覚した。そしてそのことに酷く驚いた。
だって、自分が弟を疎ましく思うように、弟も自分をそう思っていると信じて疑わなかったからだ。まさか慕ってくれているなどとは考えたこともなかったのだから。
「そんな兄ちゃんが、姉ちゃんを凄く大切にしてたこと知ってる。俺じゃあ姉ちゃんの代わりにならないことだってわかってる。……けど」
昂の口から漏れ出る嗚咽が、頑なだった廉の心を溶かしていく。
「俺だって、兄ちゃんの弟だ。姉ちゃんの代わりにならなくても、俺だって兄ちゃんを尊敬してる、心配してる。姉ちゃん程じゃないだろうけど、それでも俺なりに兄ちゃんのこと大切だと思ってるよ」
「――っ」
「だから……しっかりしてくれよ。いつもの兄ちゃんに戻ってくれよ。……お願い、だから」
そう言って、とうとう昂はボロボロと泣き出した。堰を切ったように溢れ出した涙は、もはや留まることを知らない。
そんな弟の姿を目の当たりにし、廉は全身が熱に犯されていくような心地を感じた。目頭が熱くなり、枯れ果てた筈の涙が再び溢れ出す。
――ああ、俺は一人ではなかったのだ。俺の兄弟は千早だけじゃなかった。俺を信じて必要としてくれているのは、目の前の昂も同じだったのだ、と。
「俺だって、兄ちゃんのこと大好きなんだ、俺だって、姉ちゃんのこと考えてるんだ」
――そうだ、そうだよな。俺だって、お前のこと大切に思ってた筈だった。なのに、どうして今まで忘れてしまっていたんだろう。大事だ弟だった筈なのに、いつからこんな風になってしまったんだろう。
廉はゆっくりと両目を閉じた。
昂の言う通り、これ以上こんなところで腑抜けている訳にはいかないと。いつまでもこんなところで腐っているわけにはいかないのだと。
それを気づかせてくれた昂、お前に感謝する――と。
そうして、彼は瞼を開けた。目の前で泣き崩れる弟を今度こそ真っ直ぐに見つめ――彼は微笑む。
「悪かった」
「――っ」
「俺が悪かったよ、間違ってたのは俺の方だった」
そう言って、彼は昂に向かって手を伸ばす。昂の頭に右手を置いて、くしゃっと撫でた。
「昂も、俺の大事な――」
大事な――。
「弟だよ」
「――ッ!」
瞬間、びくりと全身を震わせて、昂は顔を歪ませる。心底安心したように、その場で大声で嗚咽をこぼしながら。
「ありがとうな。昂――」
廉は呟く。そうして、弟の肩を優しく抱きしめた。それは今度こそ何かが吹っ切れたように。
「一緒に千早を探そう。俺はもう、諦めたりしないから」
「――うん」
「千早は絶対に帰って来るから。大丈夫だからな」
「……うん」
◇
こうして二人は誓い合った。必ず千早を見つけてみせる、決して諦めたりしない――と。それは、今もどこかで必ず千早は生きている、と、そう信じるが故に成せる誓いだった。
ちなみにこの後二人はすぐに、部屋の壁を凹ませたことを母親からこっぴどく叱られることになるのだが、それはまた別の話である。




