二
◇
けれど返事はなかった。昂が何度名前を呼んでも、廉は答えなかった。
そんな兄に対し、昂は憤る。
――起きているのは確実なのに。つい先ほどまで嗚咽が聞こえていたのに、この期に及んで逃げるのか、と。今までさんざん情けない声を聞かせておいて、まさか無視するつもりかと。
「なぁ、開けろよ! 話があるんだ!」
昂は何度も扉を叩いた。けれどそれでも返事はない。
「兄ちゃん! 起きてるんだろ!?」
昂の中に、苛立ちだけが募っていく。
――ああ、このまま引き下がってなどやるものか。そう思った彼は、とうとうドアの前で叫んだ。「開けないなら蹴破るけどいいんだな!?」と。すると流石にそれはまずいと思ったのか、ようやく鍵の開く音がした。すぐさま昂がドアを引けば、そこには酷くやつれた様子の廉が、虚ろな瞳で自分をじっと見下ろしていた。
「――っ」
そのあまりの顔色の悪さに、昂は思わずたじろぐ。見知った兄の姿とあまりに違い過ぎて、喉が締め付けられるような心地がした。
「話って何だ」
兄の声は掠れ、何とも心もとない。いつだって自信に満ち溢れていた兄の姿はもうどこにもない。
昂の心が一瞬揺らぐ。こんな状態の兄を自分一人でどうにかできるのか、と。けれどやるしかないのだ。
「とにかく中に入れて。母さんに聞かれたくない」
彼は兄を見返して、部屋の中に無理やり押し入る。再び鍵を閉めて、自分を暗い目で見下ろす兄をじっと見上げた。
「で、話って何だよ」
廉はベッドに腰を下ろす。その眼光は鋭い。顔色は悪く酷くやつれていても、その眼差しだけは健在だった。
――佐倉廉という男は才能に恵まれた男だった。
4歳から習い始めた水泳ではすぐに頭角を現し、10歳のころにはジュニアオリンピック大会にて優勝を飾るほどの実力を見せた。
また同じく4歳から始めたピアノも順調に上達し、12歳にてピアノを辞めてしまうまで数々のコンクールに入賞を果たした。
それ以外にもサッカーのクラブチームに入れば上級生を差し置いてレギュラー入りを果たし、中等部に上がるころには英検、漢検、数検1級を取得し周りを驚かせた。
それは一重に、両親の教育の賜物と言える。けれどそれらは決して努力だけでは成しえないことだった。
そんな兄の存在は、平凡な弟からすれば嫉妬と尊敬の対象だった。8つ歳の離れた兄。それは、昂からすれば父親以上に大きな存在だった。いつだって自信に満ち溢れ、何をやっても結果を出し、けれどそれを鼻にかけることもない――まるでそれが当たり前であるかのようにやってのける。そんな兄に、昂はずっと羨望の眼差しを向けていたのだ。
そんな兄であったから、昂は今まで一度だって逆らったことはなかった。口ごたえすることはあっても、本気でぶつかったことなどない。それはいつだって廉の言葉が正しいとわかっていたからである。
けれど今回ばかりは黙っているわけにはいかない。昂はそう思っていた。今回だけは、何があろうと絶対に譲れないのだと。
「俺――このままじゃ駄目だと思う」
そうして口に出されたその一言。
それは今の廉を否定する言葉で、廉はすぐさま顔を引きつらせた。いったいこいつは何を言い出すんだ、と。
「兄ちゃん、いつまでそうしてるつもりなんだよ。いつまでこうやって部屋に閉じこもって、現実逃避してるつもりなんだ」
昂は廉を見据える。ただ真っ直ぐに、自分の気持ちを伝える為に。「いい加減に目を覚ませ」と。
けれど廉は昂の言葉に、ただでさえ鋭い眼光をさらに細めた。「現実逃避だと?」と、憎らし気に呟いて。
けれど昂は引かない。
「だってそうだろ? 飯も食わない外出もしない、部屋だってこんなに荒らし放題で。一日中部屋でメソメソして、恥ずかしくないのかよ!?」
彼は兄をキッと睨みつける。それは初めての抵抗だった。完璧な兄に対する、弟の初めての抵抗。
――が、それを廉が許す筈がなかった。彼はこれでもかと大きく目を見開き、ベッドから立ち上がると一瞬で間合いを詰める。
そして次の瞬間には、昂の胸倉を掴んでいた。
「もっぺん言ってみろ」
それは信じられないほどの力だった。痩せた身体の一体どこにそんな力が残っているのかと思わせる強い力で、廉は昂の胸倉を掴み――持ち上げる。昂のグレーのカットソーから、ミシミシと繊維の切れる音がした。
「――っ」
だが、それでも昂は引かなかった。例えこのまま殴られようと、首を絞められようと、決して引くわけにはいかなかった。だから昂は廉を見上げ、睨みつける。今にも気道が塞がってしまいそうな息苦しさの中で、それでも廉を睨み続けた。
「恥ずかしくないのかって言ってんだよ」
昂が繰り返せば、廉は再び顔を引きつらせる。「――は?」と唸りを上げ、怒りで全身を震わせた。そしてその勢いに任せ、昂の背中をドンと壁に押し付ける。その瞳からは、完全に理性が飛んでいた。
「口の聞き方には気をつけろ」
――それは、今まで聞いたことのないような低く重たい声だった。全てを闇に呑みこんでしまいそうな、そんな声。
「大体な、俺から言わせりゃお前らのがおかしいんだよ。何で平気でいられる。どうしてそんな平然と過ごせる。――あり得ねぇだろ。千早が居なくなったってのに、普通にしてられる方がおかしいだろ。お前は千早のことが大切じゃないのかよ」
その言葉は頑なだった。廉の心はすっかり閉ざされてしまっている。
「――兄ちゃ……」
――ああ、やっぱり駄目なのか? 俺の言葉なんて届かないのか?
昂は絶望した。もう諦めてしまいたくなった。俺に兄の心は動かせない。最初から無理だったんだ。――そう、諦めたくなった。
けれどそれでも諦めてはならないのだ。このままでは本当に家族がバラバラになってしまう。千早のことだって見つけられない。
だから昂は負けじと叫ぶ。拳を強く握りしめ、奥歯を噛み締めて――必死に抵抗する。
「大切に決まってんだろ、馬鹿にするなよ! たった一人の姉ちゃんなんだ、大切に決まってる、俺だって恋しいよ! けどな、だからってずっとそうやって過ごすのか!? 俺は知ってる、兄ちゃんがどれほど姉ちゃんを大切にしてたかわかってる! 医学部に入ったのだって姉ちゃんの為だ、兄ちゃんが父さんに逆らわないのは、姉ちゃんに気を使わせたくないからだ、そうだろ! そんな姉ちゃんが居なくなって、自暴自棄になりたくなる気持ちだって理解できる! ――けどな!」
昂は声を張り上げる。自分の胸倉を掴む廉の手を渾身の力で振りほどき、逆に廉の肩に向かって拳を振りぬいた。すると予想外の攻撃に、廉はその場でよろけて後ずさる。
「こんな俺たちを見て、姉ちゃんならどう思う!? 自分を思って泣いている兄ちゃんの姿を見て、姉ちゃんが喜ぶとでも思ってるのか!?」
それは昂の正直な気持ち。――姉は絶対に、こんな兄の姿を望んではないなのだと。
だが、今の廉に昂の言葉は届かなかった。「そんな簡単な問題じゃねぇんだよ」そう言って、右手を壁に殴りつける。その衝撃で、鈍い音を立てた壁は小さく凹みを作る。
「お前にわかるかよ。俺の気持ちが――お前なんかにわかってたまるか。好き勝手許されてるお前に、いつも周りに守ってもらってばっかのお前に、……俺の気持ちなんて」
それはあまりにも悲痛な声だった。苦しくて苦しくて、自分しか見えなくて、周りに目を向ける余裕なんてないという、そんな顔――。
「……ッ」
その表情に、昂は悟らざるを得なかった。廉はもう諦めているのだと。廉はもう“千早の生”を諦めてしまっているのだと――。
瞬間、廉の中に湧き上がる強い怒り。身体が燃えるように熱く、けれどどういうわけか、頭の芯だけは酷く冷たい。
そうして次の瞬間、自分の口から出て来た言葉。それは昂自身でさえ予期していない言葉だった。
「……お前、マジで最低だな」
「――何?」
「最低だって言ったんだよ、廉」
それは凍てつくような声だった。今まで一度だって出したことのない、酷く冷静で冷たい声。一度だって呼び捨てになんてしたことがない、兄の名前。
それは本当に咄嗟の事で、昂自身も驚いた。自分の喉から飛び出した言葉に「今のは本当に自分の言葉か」と困惑した。流石にやばいと思った。
けれどそれは結果的に正解だった。何故なら、今の今まで怒りに震えていた廉の表情が、どこか呆気にとられた様なものに変わっていたのだから――。




