一
千早と帝が姿を消してから既に2週間が経過していた。けれど警察の必死の捜索も虚しく、二人の行方は未だ掴めていない。それどころか、手がかり一つ見つかっていなかった。
そしてそのストレスからか廉は体調を崩し、ここ3日間に至ってはトイレ以外は一歩も部屋から出られずにいた。
「う……ぐっ……」
廉は部屋のゴミ箱に頭をつっこみ、食べたばかりの昼食を吐き戻す。何度吐いてもすっきりするどころか吐き気は増すばかりで、彼は憔悴しきっていた。
「……くそったれ」
蒼白どころか土気色に染まった顔はすっかり痩せこけ、全身の筋肉も落ちてしまった。以前の健康的な彼の姿は見る影もない。
部屋のカーテンは何日も閉め切られまま、空気は陰鬱とし、昼も夜もわからない。荒れ果てた部屋は、彼の今の荒んだ心そのものだ。机の上のスマホは何日も充電が切れたままで、友人からの連絡が届くことも無い。母親が部屋の前に置いて行く食事だけが、何とか彼を生かしているような状況だった。
彼はベッドの中にうずくまり、ただ死んだように過ごしていた。何も出来ないまま、刻一刻と過ぎていく時間を堪え忍ぶように。
「――……うッ」
廉は再び吐き気をもよおし、ベッドから這い出した。ゴミ箱に頭を突っ込んで嘔吐する。けれど昼に食べたものはすべて吐いてしまった今、逆流してくるのは胃液ばかりだ。
「……畜生」
彼は恨めしそうに呟いて、力なく項垂れる。
千早が姿を消して以来、彼は眠れなくなっていた。食欲もなく体重は10キロ減り、何とか無理やり飲み込んだとしても、結局全て吐いてしまう。今では立派な拒食症だ。しまいには弟にすら心配される始末。――彼のプライドは、もうズタズタだった。
「……千早」
彼は嗚咽の入り混じった声で妹の名を呟く。
――お前は俺なんかよりずっと辛い思いをしているんだろうに……。こんな姿、お前には絶対見せられないな。と、そんなことを考えながら。
ああ、まさか自分の神経がこんなにヤワだなんて想像もしなかった。こんなにも脆い精神だとは、思ってもみなかった。
「……ぐっ」
再び吐き気が込み上げる。吐いても吐いても収まることのないこの吐き気。気持ち悪くて堪らない。頭が痛くて耳鳴りがする。
「……んっとに、俺……」
――どうしようもねぇな。
本当に惨めだ。最悪だ。昂ですら毎日学校に通ってるっつーのに……。
1週間前までは、彼もなんとか実習に参加出来ていた。睡眠はとれず食事も喉を通らなかったが、必死に自分を奮い立たせて何とかこなしていた。本当はそれどころではなかったが、父の樹が決して休むことを許さなかったからだ。
廉の実習先の病院は、現在父親の勤務する京都市立病院だった。教授である樹は醜聞を嫌い、病院内では娘が行方不明になったことを隠し通している。その為に、娘のことを決してマスコミに漏らさぬように秋月刑事に談判したほどだ。であるからもちろん、息子である廉が実習を休むことも許さなかった。
けれど1週間前、気力だけでやっていた廉はとうとう実習中に倒れてしまった。翌日からGWで連休だったからいいものの、次同じようなことになれば単位を落としてしまう。そうなれば父は黙っていないだろう。――つまりGW開けの実習には、必ず参加しなければならない。
けれど廉本人は、こんな状態で実習など無理だとわかっていた。実習とは言え、患者を診るのだ。自分がこんな状態で患者を相手に出来るわけがない。このまま実習に参加などしたら、最悪の場合出席停止になる恐れだってある。そうなれば今年の医師免許取得は絶望的だ。
「……もう、辞めるか」
いっそ、大学ごと辞めてしまおうか――。
彼はそんな風に考える。
父親である樹とは、もう何日も口を聞いていなかった。実習中に倒れたその日から、樹が廉を無視するようになったからだ。自分の顔に泥を塗るような息子は許せないということなのだろう。
「ハッ……情けねぇ」
彼は奥歯を噛み締める。悔しくて、悔しくて――けれど既に枯れ果ててしまった涙はもう一滴も流れない。
父に決められた進路な筈だった。特に望んでもいない未来な筈だった。医者になんて興味はなかった。ただ、産まれたときからそう決められていただけ。それでもその道を選んだのは、千早がいたからだった。千早が自分を慕い、尊敬してくれていたからだ。決して父の期待に応えるためなどではない。
ただ、妹に誇れる自分でありたかっただけだった。妹の笑顔をいつまでも見ていたかっただけだった。妹に何かあったとき、真っ先に手を差し伸べてやれる存在でいたかった。――ただ、それだけだった。それなのに。
その妹は居なくなってしまった。自分を置いて消えてしまった。妹の愛する恋人と共に――突然姿を消してしまった。
「――最悪だ」
最悪だ、最悪だ。本当に最悪だ。お前がいなくて……俺はいったいどうすればいい。もう何もかもがどうでもよくて、いっそ死んで楽になりたいとすら思ってしまう。辛くて苦しくて、千早より先に俺が死ぬんじゃないかとすら思ってしまう。一日中頭の中は千早のことで一杯で、それしか考えられなくて、俺を心配してくれる人たちに、大丈夫だと言ってあげられる余裕もない。
なぁ千早、お前、本当にどこに行ったんだ……? 生きてるよな? 死んだりしてないよな? 俺を置いて先に逝ったりしないよな――?
「……お願いだから」
お願いだから無事でいてくれ。
お前がいなきゃ駄目なんだ。
お前がいなきゃ、笑えないんだ。
お前がいなきゃ、俺は生きていられない――。
「……千早……千早、千早……」
俺の声が聞こえるか……? 返事をしてくれ。帰って来てくれよ。なんでもするから。お前に今までしてやれなかったこと、全部全部してやるから、だから――。
――帰って来てくれ。
ここに、俺の前に、お願いだ……。神様、千早を――俺の前から連れて行かないでくれ。お願いだから……。
「……千早を……返してくれ……」
――彼は暗い部屋で繰り返す。何度も何度も、その声が枯れ果てても尚、彼は必死に妹の名前を呼び続けた。
◇
――そんな廉の悲痛な声を、昂は隣の部屋から聞いていた。千早が居なくなってからの2週間、毎日、ずっと……。ヘッドフォンで耳をふさいでも、それを外せば嫌でも聞こえてくる、兄の悲鳴にも似たその嗚咽を。
けれどそれも限界だった。もうたくさんだと思っていた。これ以上、そんな声を聞かせるな、聞きたくない、と彼はそう思っていた。
「――チッ」
思わず舌打ちしてしまう。兄を避ける為に外に出たくても、千早の件で神経質になっている母親は学校以外の外出を許さない。かと言ってリビングも居心地が悪く、彼に出来ることと言えばこうやって部屋に籠ることだけだった。
そうは言っても、決して平日が待ち遠しいわけでもない。千早と帝が行方不明になったことにより、学校も居心地の悪いものになってしまった。千早の弟である昂を、周りは腫れ物に触るように扱った。それは当然の反応だった。けれどまだ入学したての昂にとっては、当然の一言で片づけられるものではない。同じ中学出身の友人は殆どいない。新しい人間関係も出来上がる前。そんな状況で、噂の的にされて平気でいられるほど、昂のメンタルは強くなかった。
これがせめて家族関係が上手くいっていれば救いもあっただろう。けれど千早が居なくなった今、家の中の空気ははっきり言って最悪だ。
そもそも佐倉家の男は仲が悪い。父親がああいう人間であるから、親子間が上手くいかないのは仕方ないとも言えるが、廉と昂の仲も決していいとは言えなかった。廉は“自由に振舞うことを許されている”昂をどこか疎ましく思っていたし、昂の方も“父親に期待され、実際にそれに応える能力のある”廉に嫉妬心を抱いていたからだ。
けれどそれでも何となく家の中が回っていたのは、千早が上手く調整弁の役割を果たしてくれていたから。兄を慕い、弟を可愛がり、父息子が対立すれば陵子とタッグを組んでそれを鎮めた。千早がいなければ、父と息子の会話も、兄弟間の会話もすぐに破綻してしまう。
そしてその事実を、昂は千早の居なくなった2週間の間で痛感していた。千早が居なくなってから、家族間の会話はめっきり減った。それは今まで会話の中心にいたのが千早だったからだ。その事実に、昂は千早が居なくなって初めて気付いたのである。
だから昂は苛立っていた。この家族の現状に強い危機感を抱いていた。娘が行方不明にも関わらず平然と出勤する父親も、部屋にこもって現実逃避している兄も、そして、そんな二人をどうすることも出来ない自分自身にも。
彼は、いかに自分が無力な存在なのかを思い知らされていた。今までどれほど姉に甘えて続けていたのかと、自分に腹が立った。どうすればこの状況を変えられるのか、考えても考えても何一つ思いつかない自分の無能さに反吐が出そうだった。
――2週間経っても千早の居所はわからない。秋月刑事によれば、帝のスマホのGPSは荷物が置き去りにされたバス停までは生きていたということだった。しかしそれ以上のことは何一つわかっていない。目撃者もいない。防犯カメラの映像もなし。
だが昂からしてみれば、それは決して信じられないことだ。何故って、その時刻は部活終わりの生徒の下校時刻と被っている。全く目撃者がいないなど、考えられないのだ。それなのに警察の調べでは目撃者はいないという。実際学校の生徒たちへ聞き込みを行っても、二人を見かけたという者は一人も現れなかった。
この状況に、昂は現在進行形で違和感を覚えていた。けれどその違和感の正体が何なのかまではわからなかった。
だがそんな彼にも一つだけわかっていることがある。自分ではどうしようもなくとも、兄である廉になら突破口を見つけ出せる筈だ――と。
だから昂は、どうにかして廉をこの状況から立ち直らせなければならないと考えていた。どこかできっと生きている、千早を見つけたい一心で。
「……姉ちゃん、俺に……やれるかな」
記憶の中の姉に向かって、彼は尋ねる。勿論返事は返ってこなかった。けれど、記憶の中の姉はいつものように笑っていた。明るい笑顔で自分を見守ってくれていた。
その姿に、昂は悟る。
――ああ、そうだ。いつだって姉ちゃんは笑っていて、決して泣き言なんて言わなくて。きっと今だって、どこかで笑っている筈なんだ。
「……そうだよな」
とうとう昂は決意した。こんな状況、千早はきっと望まない。家族がバラバラなこんな状況を、千早が許す筈がない。なら、俺は――。
◇
彼は拳を握り締めた。一歩も引いてはならないと、心に誓って部屋を出る。そうして睨むような瞳で兄の部屋の前に立つと、その扉をノックした。