二
◆◆◆
――西暦2012年4月21日。日が暮れてから既に4時間が経っていた。時計の針は、まもなく午後10時を回ろうとしている。
都心はまだ煌々と輝きを放ち、人々は活動を続ける時間帯。だがそれとは対照的に、街の中心部から離れた郊外は新月も相まって闇に包まれ、既にひっそりと静まり返っている。
京都府京都市左京区下鴨西通。近くには京都三大祭りとうたわれる「葵祭」が執り行われる下鴨神社や、京都コンサートホールなどがある地域。その中でも、別名「社長通り」と呼ばれる西通りの一角に、千早の家はあった。
――200坪を超える敷地に建つ地上二階建ての落ち着いた和モダンの建物で、屋根はどっしりとした切り妻屋根。開口部は大きく縁側もあり、季節感を感じられる間取りである。
その家にはたった今しがた、千早の父親である樹がタクシーで帰宅したところだった。
◇
「何? 千早がまだ帰ってない?」
仕事用のバッグを、妻、陵子に手渡しながら、樹は怪訝そうに眉をひそめた。
――佐倉樹、職業は医師。京都大学大学院医学研究科呼吸器内科の教授を務め、現在は京都市立病院に勤務している。歳は50を過ぎた頃だが、白髪のない真っ黒な髪は品よくツーブロックにセットされ、凛々しく精悍な顔立ちからは実年齢を感じさせない。ダークカラーのスリーピーススーツをさらっと着こなすその立ち姿は、まるで英国紳士のようである。
そんな樹の妻である陵子も、樹の隣に立つにふさわしい教養と気品を兼ね備えた女性であった。肩より少し長いアッシュベージュの髪は、女性らしく緩やかな波を描き、40代後半にも関わらずシミ一つない肌は白く透明感がある。二重瞼の奥の瞳は千早と同じでやや青く、千早のスッと通った鼻筋や薄く形のいい唇は、母親譲りであることがよくわかる。
陵子は初対面の相手にやや冷たい印象を与えてしまうことも多いが、それも美しすぎる顔立ちの為であろう。
樹はそんな妻から、娘がまだ帰宅していないことを聞かされて、ここリビングの壁にかかった時計を見やった。
「とっくに門限は過ぎてるだろう。連絡は」
彼は苛立ちを募らせながらソファに腰かける。
ソファはL字型で8人は座れるだろうというサイズ。だがその巨大なソファでさえ、リビングのみで20畳を超えるこの空間では、全く圧を感じない。
――この家は、さながら住宅展示場のモデルルームのようだった。延床面積は100坪を超え、間取りは6LDK+2Sもある。ちなみに「S」とはサービスルーム、つまり納戸やクローゼットなどのことだ。LDKは40畳を超え、吹き抜けの天井にはシーリングファンが回っている。アイランド型のキッチンは広々として、天板には大理石が使われていた。壁紙は白色でありきたりとも言えるが、シンプルで嫌みがない。ローズウッドの床板と、それに合わせた木製家具が落ち着きのある和モダンの空間を生み出していた。
陵子はそんな広いリビングの入口で、夫の問いかけに溜息をつく。
「それが、何度連絡しても出ないのよ。一体どうしちゃったのかしら」
そうは言いつつも、その声にはそれほど深く気にしている様子はない。ちょっと帰りが遅くなっている、くらいにしか思っていないのだろう。
陵子は樹のカバンをリビング横のクロークにしまいながら、ソファで一息つく夫に声をかける。
「あなたも連絡してみてよ」
「それは君の仕事だろう。俺は疲れてるんだ」
「あら、私が疲れてないとでも? こっちだってレッスンの準備で忙しいのよ。都道府県大会までもうあまり日にちもないし」
「君のそれは趣味みたいなものじゃないか」
「失礼ね! 例え私が趣味だったとしても、教わるあの子たちは本気なのよ。将来がかかってるんだから。あなた、そんなだから千早に口を聞いてもらえないんじゃないからしら」
「……」
「だいたい、結婚するときあなたが言ったんじゃない。ピアノは続けてもいいって。――こんなことなら医者なんかと結婚するんじゃなかったわ」
「……わかったわかった、俺が悪かったよ。連絡してみるから」
機嫌をそこねた妻の言葉を流しつつ、樹はスマホをタップした。耳にあて何度かコール音を聞く。けれど娘が電話に出ることはなかった。
「……出ないな」
樹が溜め息をつけば「だからそう言ってるじゃない!」という綾子の声がキッチンから聞こえてくる。
――今の声が聞こえたのか? 地獄耳め。
樹はそう思いながら、再度娘に電話をかけた。けれどやっぱり出ない。
「……変だ」
そもそも門限は9時。その為、それを過ぎるときは事前に連絡を入れるように言ってある。千早は今までずっとそれを守って来たし、そもそも10時を過ぎても帰ってこないなんてことは一度だってなかった。
――何だか、嫌な感じがするな。
そう思ったときだ。玄関の扉が開いて、誰かが入ってくる気配がした。ようやく千早が帰って来たか――樹と陵子はそう思ったが、廊下を歩く足音でそれが千早ではないことに気付く。ほどなくしてリビングの扉を開けて入ってきたのは、やはり千早ではなく、長男の廉であった。
「ただいま。――あれ、今日は早いんだな父さん」
廉は、ソファに座る父親を意外そうに見つめそう言う。
――廉は千早の6つ上の兄で、今年で24歳になる。京大医学部の6年生で、現在実習真っ盛りだ。身長は父親よりやや高い180cmで、こちらも非常に整った顔立ちをしている。髪は耳にかかる程のニュアンスパーマで、服装はテーラードジャケットにカットソー、そしてデニムの鉄板中の鉄板だ。読者モデルにでもありそうな外見である。
それにしても、廉の頬はやや赤く染まっているように見える。樹はそんな廉の横顔を見て顔をしかめた。
「飲んで来たのか」
それは責めているような声だった。廉は内心溜め息をついて樹を見やる。
「ああ。まぁ、少しね」
「実習中だぞ。わかってるのか」
「わかってるよ。明日には響かせない。自分の面倒くらい自分で見られる」
――二人の雰囲気は険悪だ。どうやら仲はあまりよくないらしい。
廉は煩わしげに答えて、そのままリビング内の階段を上ろうとした。が、母親に名前を呼ばれて足を止める。その表情は、話があるなら早くして――そう言いたげな顔だった。
けれど次の瞬間、その表情は一変する。陵子の「千早がまだ帰らないのよ」――というその一言に。
「――は?」
廉は目を大きく見開いて一瞬放心した。
けれどすぐに我に返り、母親に尋ね返す。
「何それ。連絡は?」
「電話は繋がらないし、ラインも既読にならないの」
「もう10時半だぞ」
「わかってるわよ。だからどうしようかって今この人と――」
廉は自らもスマホを取り出し千早と連絡を取ろうと試みる。だが陵子の言うとおり、連絡はつかなかった。こんなことは初めてで、廉は胸騒ぎを感じずにはいられない。
「――そうだ。昂は?」
「昂なら部屋にいるけど」
昂とは千早の2つ下、つまり廉からすると8つ下の弟である。千早が通う八条高校に入学したばかりの1年生だ。部活はサッカー部だが、もしや昂なら何か知っているかもしれない。
そう考えた廉は階段を駆け上がり昂の部屋の扉を叩いた。「昂、開けろ!」そう叫ぶと、しばらくしてから鍵の開く音がする。そうして扉を開けた昂は、ヘッドフォンをしていた。ゲームでもしていたのだろう。
「何?」
昂はうっとおし気に兄を見上げた。サッカー部らしい短髪に、女子と間違われそうなほどの童顔。けれどその顔立ちとは対照的に、その瞳には睨むような強気な光が宿っている。
けれどそれはいつものことだ。廉は昂の態度など全く気にせず要件を伝える。
「千早がまだ帰らないんだ。お前何か知らないか?」
「――は?」
すると、今の今まで廉を睨みつけていた瞳が大きく揺れた。先ほどの廉と同じように、昂も異変を感じたようだった。
「え……連絡ないの?」
そして再び、同じ質問が繰り返される。廉が「あったら聞かねぇよ」と答えれば、昂は何か考えるそぶりを見せた。そうして一度は「俺今日部活無かったし、知らない」と呟く。けれどすぐに「だけど――」と顔を上げた。
「姉ちゃん、毎日秋月先輩と帰ってるよ」
「――!」
その言葉に、廉の脳裏に過る帝の姿――。
そうだ、帝と千早は付き合っているのだ。そのことを思い出した廉は再びスマホをタップする。ラインで帝に電話をかけた。けれど、こちらはコール音すら聞こえない。
「……圏外?」
廉は今度こそ呆然とした。
いよいよ悪い予感がする。まさかこのご時世に圏外などよっぽどあることではない。充電が切れてしまっただけという可能性は捨てきれないが、二人揃って連絡が取れないなんて普通ではない。
「……マジで何かあったのか?」
スマホを掴む廉の手のひらは、いつの間にか冷や汗で酷くべたついていた。手先が冷えて、心臓の鼓動が速まる。
それはどうやら昂も同じようで、ショックを受けた様に肩を大きく震わせた。
◇
結局それ以上どうすることも出来ないまま、二人は階下へ下りていった。そして両親と共に、千早の帰りを待つほかなかった。