二
◇
そこには確かに帝がいた。千早の視界には、布団に上半身だけ身体を起こし、項垂れている帝の姿が映っていた。
だが、彼は部屋に入って来た千早の存在に、どうも気が付いていない様子だった。
「……帝?」
千早は入口に立ったまま、恐る恐るその名を呼ぶ。“帝”――と、愛するその名前を呟いた。けれど、やはり帝は反応を見せない。
――ドクン。
彼女の心臓が跳ね上がる。自分の言葉が聞こえていない様子の帝に恐れすら感じた。
どうして顔を上げないのかと、何故返事を返してくれないのかと――。
「帝……? ねぇ、聞こえないの……?」
大きな不安が襲ってくる。
もしも彼が自分の知っている帝では無くなっていたら、もしも自分のことが分からなくなっていたら――そう思って足が竦んだ。
「ねぇ、帝――」
けれどそれでも、彼女はその名を繰り返し呼ぶ。そうしないわけにはいかなかった。だって、一月ぶりの再会なのだから。やっと目覚めてくれたのだから。
彼女は繰り返す。その名前を――何度も、何度でも。
すると何度目かの呼びかけの末――ようやく帝が反応を示した。彼は思い出したように肩をびくりと震わせて、その顔をゆっくりと、本当にゆっくりと上げる。
そして、目があった。虚ろな帝の瞳が――ゆっくりと見開かれる。
「……ち……はや?」
「――っ」
刹那、帝の口から囁かれたその名前。それは間違いなく自分の名前で、聞きなれた懐かしい声で、千早の胸に熱い気持ちが込み上げた。
同時に溢れ出す……大粒の涙。それは頬を伝っても尚留まらず、ぱたりぱたりと畳に滴り丸い跡を残す。
「――ッ」
声にならなかった。何一つ声にならなかった。嬉しくて、嬉しくて。
身体から力が抜ける。張り詰めていた気が一気に緩み、彼女はその場にへたり込んだ。ぼろぼろと涙を流し、堪えきれない嗚咽を必死に堪えながら、彼女はただただ涙を流す。
「良かっ……、良かったよぉ」
「……千早」
彼女の涙は止まらない。今まで必死に我慢していた分、関を切ったように溢れ出した涙は、どうやっても止めることは出来なかった。
帝はそんな彼女の姿に困惑しながら、それでも必死に手を伸ばす。
不自由な身体で、部屋の入り口で座り込んでしまった恋人を抱きしめようと、彼は布団からはい出した。
「――千早」
帝の伸ばした手が、千早に触れる。その両手が、彼女の肩に――。そして、帝はとうとう彼女を抱きしめた。やせ衰え、ギシギシと音を立てて軋むぼろぼろの身体を動かして、帝は全身で千早を抱きしめる。
「……ごめんな、心配かけて。でも、もう大丈夫だから。もう、絶対に一人になんてしないから」
帝は繰り返す。「心配かけてごめん」「もう大丈夫だ」と。自分の腕の中で涙を流す千早の気が落ち着くまで、何度も何度も繰り返した。背中の傷痕の痛みも、全身の倦怠感も全て無視して――何度も千早の名前を呼んだ。
そして千早はそんな帝の腕の中で、失った時間を取り戻すように――しばらくの間、ただ涙していた。
◇
「――それで、今はどういう状況なんだ?」
千早が落ち着きを取り戻した頃合いを見て、話を切り出したのは帝の方だった。
帝は先ほど部屋の周りを取り巻く様子から、ここが現代ではないことに確信を得ていた。加えて、怪我をした自分が長い間眠っていたことも察していた。その為に、千早に辛い思いをさせてしまったことも。
だから、彼は一刻も早くこの状況を把握したいと、千早に説明を求めたのだ。すると彼女は深く頷いた。土方から告げられたタイムリミットが30分であることを思い出したのだろう。千早はなるべく簡潔に説明しようと努める。
「……それがね」
彼女は説明した。
自分たちは不定浪士に襲われた後、新選組に拾ってもらったこと。その新選組に、自分たちのことを“駆け落ちもの”だと説明したこと。けれどその証拠もなく、間者ではないかと疑われていること。そして、自分が今男のふりをして沖田の小姓をしていること。
その説明を、千早は一切未来の言葉を使うことなくやってみせる。何度も何度も頭の中で練習してきた。本当なら、近藤や土方の前ですることになる筈だった説明を、彼女は今帝一人の前で忠実に再現する。
千早とてわかっていたのだ。自分たちの会話はきっと誰かに聞かれている。土方ならそうするだろうし、自分が土方の立場でも同じことをするだろう、と。
そして、そんな自分の気持ちを、自分たちの置かれた立場を、帝ならきっとわかってくれる――千早にはそんな確信があった。
「これで、全部です」
千早が締めくくると、帝は「そうか」と短く呟いて口を閉ざした。
彼は黙ったまま、何かを深く考えるように一点だけを見つめ――しばらくの後、ようやく口を開く。
「わかった」
「……え?」
それはあまりにも短くあっさりとした言葉。千早は思わず間の抜けた声を漏らす。
「今ので本当にわかったの?」
「ああ。つまり、俺たちはこれからその土方って人に、俺たちは無実ですーって証明しなきゃいけないってことだろ?」
「……そう、だけど」
千早は驚いた。確かに帝なら理解してくれるとは思っていた。けれど、本当にこんなにもあっさりと理解出来るものなのかと。
「大丈夫だ。俺たちは何も悪いことはしていない。新選組の敵でもない。俺がちゃんと説明するから、千早は何も心配するな」
「……でも」
あっさりすぎる帝の物言いに、千早は安堵を通り越して不安を覚えざるを得なかった。本当に大丈夫だろうか。もしや、本当のことを話すつもりではあるまいな――と。
けれどそんな千早の心配をよそに、帝は得意げに微笑んで見せる。それはよく見慣れた隙のない笑み。一切反論を許さない、強者の笑顔。そこにはほんの小さなも不安も見えない。
「……帝」
そんな帝の表情に、千早の涙腺は再び緩んだ。
帝の笑顔が懐かしくて、眩しくて――安心出来て。もう大丈夫だと、何も心配ないのだと、心の底から思わせてくれるのだ。
帝はここに居るのだと。ちゃんと生きてくれていたのだと。本当に目を覚ましてくれたのだと。もう、自分一人ではないのだと。
「ほら、もう泣くな」
帝の腕が、再び千早の背中に回される。「本当に大丈夫だから。俺を信じて」と、千早の耳元でそっと囁かれる帝の声。その優しくも逞しい声に、千早は何度も頷いた。
「千早はただ、俺の言葉に頷くだけでいいから」
「――うん」
「俺たち絶対に帰れるからな」
「うん」
「二人で未来に帰ろう」
――それは絶対に周りに聞こえない程の密やかな声で、千早は今度こそ理解した。帝は本当に自分の話を理解してくれている。理解した上で、こう言ってくれているのだと。
そうして、タイムリミットはやって来た。二人は人目も気にせず手を結びながら、土方の部屋を訪れた。




