四
◇◇◇
――その日の夕餉も済んだ頃、沖田は土方の部屋に呼ばれていた。日は今より少し前に西の果てに沈み、空は紺色に染まっている。沖田は憂鬱な気分で土方の部屋の前で膝をつき、その名を呼んだ。するとすぐに、「入れ」と返事が返ってくる。
沖田は戸を開ける前に「ふっ」と小さく息をはいて気合を入れなおした。自分の今の心の動揺を、土方に感じ取られてはいけないと思ったからだ。
沖田が戸を開けると、土方の闇色の双眼がじろりと自分を睨みつけた。いやな目だ。けれど沖田はひるむことなく中に入って戸を閉める。そしていつものように軽口をたたいた。
「わかってますよ、巡察のことでしょう? 確かに僕の不手際ですけど彼女とはすぐに合流出来ましたし、何の問題も起こらなかったんですからそんな顔しないで下さいよ」
土方は今日朝早くから出かけており、沖田らの巡察での騒動を知ったのはつい先ほど、夕餉でのことだった。騒動と言っても、喧嘩の仲裁を行ったことと、千早が隊からはぐれてしまったという他愛のない内容で、他の隊士たちは別段気にも留めていなかったので土方もその場は話を流した。が、これは詳しく聞いておかなければならないと、こうやって沖田を呼び出したのだ。
「総司、勘違いするな。俺が聞きてェのは、何故すぐ俺に報告しなかったのかってことだ」
「――!」
「百歩譲ってはぐれたのはしょうがねェ。だが、それを俺に言わねェとは一体どういう了見だ? まさかとは思うが――」
土方の高圧的な言葉に、沖田は一瞬だけ瞳を揺らした。けれどすぐに微笑んで土方を見返す。
「やだなぁ、土方さん。ちゃんと報告するつもりでいましたよ。土方さんに呼ばれなくても僕の方から出向くつもりでいましたし」
「その言葉に嘘はねェな?」
「当たり前じゃないですか」
沖田は笑みを深くする。
――そうだ、その言葉に嘘はない。
実際のところ、沖田はちゃんと土方に報告する気でいた。巡察の最中に千早とはぐれてしまったこと。だがそれは自分の方に責任があったこと。合流した際、千早が大泣きしたこと……。
だが、それをどうやって報告するべきか悩んでいたのだ。合流するまではいい。けれど、彼女があの時泣いた理由――それを、沖田は千早から聞き出せないままでいた。ただ不安だっただけかもしれない、安心して気が抜けただけかもしれない。でも、どうもそういう理由ではないような気がして、それ以上尋ねられなかったのだ。
だが、沖田はわかっていた。きっと土方は、千早が泣いた理由になど興味はないだろう。土方が知りたいのはただ、佐倉千早という少女が“白”か“黒”か、それを見定めるための情報だけ。彼女の心境になど全く興味はないはずだ。だから、自分は起こった事件の顛末だけを話してしまえばいいはずだった。
けれどそれが出来なかったのは、怖かったからだ。千早に不利になる情報を伝え、土方が千早を“黒”、もしくは“不要”な存在だと判断してしまうのが怖かった。
千早が迷子になり、たった一人で半刻の時間単独行動をしていた事実と、その後の彼女の――土方からしたら――不可解にしか映らない態度によって、彼女に何か被害が及ぶのではと考えたら、ためらわずにはいられなかった。
それに加えて沖田は、そんな風に考える自分自身にも困惑していた。今までならこんなことなかったのに。近藤や土方のことを一番に考えて行動してきたのに、と。それが揺らぎかけている自分が信じられず、狼狽えていた。
――けれどこの事実を、土方にだけは知られるわけにはいかない。それだけは絶対に駄目だ。
沖田はいつものような飄々とした態度で、顔に笑みを張り付ける。
「土方さんの方こそ、僕を疑ってるんですか? それともそんなに千早ちゃんが怖いんですか?」
「――何?」
土方はピクリと眉を震わせる。
「あんなのただの小娘ですよ。土方さんが気にするような相手じゃありません。今日だって、僕が見つけたとき子供みたいに声をあげて泣いたりして。余程怖かったみたいですよ、迷子になったのが」
「……」
「大の男が道端で泣いてるって周りから白い眼で見られるし、僕もう恥ずかしいのなんのって」
やれやれと呆れたようにお手上げすれば、土方は多少納得した様子を見せた。
沖田は続ける。
「確かに僕は彼女に興味がありますよ。一緒にいて退屈しないし、この僕に生意気な口をきくのなんて彼女くらいですから。――でも」
沖田はそこまで言って、一度言葉を止めた。自分を見据える土方をじっと見つめ、両方の口角を上げる。
「ちゃんとわかってます。僕はいつでも、彼女を斬れます。――何なら、今からだって」
そう言って彼は土方を挑発するように笑った。すると土方は、今度こそ気を静めた様子で息を吐く。
「とにかく、不穏な動きがあればすぐに言え。山崎曰く、相変わらず二人についての情報は何一つ掴めねェらしいしからな」
土方は、苦虫を嚙み潰したような顔で宙を見つめた。沖田は「ふーん」と呟いて、話を合わせる。
「そんなことってあるんですか?」
「ねェよ。普通に生きてりゃ何かしらはあるもんだってのに。あいつら一体どっから沸いて出て来やがったんだ」
「面白いこと言いますね。でも案外本当に、その辺から沸いて出て来たのかもしれませんよ?」
「ああん? 何馬鹿なこと言ってやがる」
「だって実際、僕らの生活に全然馴染みがないようでしたし」
「だからってなぁ」
「ま、冗談はともかくとして――土方さん」
――刹那、急に沖田の声色が変わった。それは低く、落ち着いた声音に。
そんな沖田の様子に、流石の土方もやや面食らう。
「……何だ」
「あの秋月って男の容体はどうなんです。山崎さんの話では、傷はもう癒えてるって」
「ああ。超人的な回復力だって言ってたな。時期に目を覚ますだろうって話だったぜ」
「――そうですか」
「何だ、何かあるのか」
「いいえ、ただ――」
沖田は一呼吸おいて、続ける。
「彼が目覚めれば、二人の正体がわかるかと思いまして」
「……」
――それは突然の丁寧な口調で、土方は一瞬口を閉ざした。
沖田は時々こういうことがある。皆で鬼ごっこをしていたかと思えば――まぁ大の大人が鬼ごっこをすること自体どうかと思うが――次の瞬間には刀を抜いていたり、剣の試合中に突然しゃがみこんだかと思えば、野花を愛でていたりするのだ。
皆はそんな沖田のことを、つかみどころのない人間だと言う。土方もそう感じることは多い。けれどそれでも、土方からすれば沖田は既に弟の様なもの。出会ってまだ五年とは言え誰よりも密度の濃い時間を過ごして来た。だから土方には、沖田の考えていることなら大抵のことは予想がついた。
つまり、土方は気が付いているのだ。
沖田が千早に情を抱いてしまっていることに、とっくの前から気付いていた。冗談めいた言葉で誤魔化そうとしているが、沖田は確かに佐倉千早を好いている。そのことに、沖田本人が気付いているかは別として――。
だがそれでも、土方が千早を斬れと命ずれば、沖田は間違いなくそうするだろう。自分の気持ちなど二の次に、土方の命を忠実に遂行するに違いない。
土方はそんなことを考えながら、自分をじっと見据える沖田を見返した。そして、告げる。
「総司、あの女にあまり深入りするな」
「――っ」
「俺が言いたいのは、……それだけだ」
それはあまりにも短い言葉だった。しかし、沖田に悟らせるには十分すぎた。
◇
――静かに夜が更けていく。
土方の部屋を出た沖田は、自室に戻る途中にふと足を止めた。自分を照らす淡い光に導かれた沖田が上を見上げれば、そこには暗い空に綺麗な半月が浮かんでいる。
その見事に真っ二つになった月の姿に、沖田は思った。
――ああ、まるで今の僕みたいだな、と。土方の言葉に揺れる、自分の様だ、と。
「深入りするな……か」
彼は先ほどの土方の言葉を繰り返し、顔をしかめる。
「わかってますよ。……でも――僕は 」
結局、その続きが声に出されることはなかった。けれどその変わり、沖田の酷く憂鬱な吐息だけが、――京の闇夜に静かに柔しく溶けていった。