二
◇◇◇
今日も慌ただしい朝餉の時間がやってきた。
「新八っつぁん! それ俺の魚!」
「あ? いつまでも食わねぇから食ってやったんだろーが」
「はあっ!? 好物だから残しといたんだよ!」
「だったらもっと早く言えよ」
「そもそも勝手に食うんじゃねぇ!」
食事が始まると同時に、既視感のある会話が繰り広げられる。もういい加減慣れ過ぎて、千早も日向も無反応だ。
そんな二人は騒々しさも他所に、京の町についての話題で盛り上がっていた。
「そう言えば今、四条河原で見世物小屋が開いてるんだって」
「見世物小屋?」
「そう、この前井上さんが教えてくれたんだけど、珍獣が見られるらしいよ」
「珍獣?」
「うん、名前はよくわからないんだけど、鼻の長い巨大な動物とか、羽が扇子みたいな形の鳥とか!」
日向の言葉に、千早は内心驚いた。まさかこの時代にサーカス的なものが到来していたとは。彼女は二種類の動物を思い浮かべながら、「もしかしてそれ、象と孔雀じゃない?」と答える。
「凄い! 名前知ってるんだね! もしかして見たことあるの!? そう言えば江戸も見世物小屋多いんだよね?」
「ああ、うん。見たことあるよ。象はね、色は鼠色で……肌は何て言うかこうゴワゴワしてて、とにかく大きいの。人が何人も乗れるくらいの大きさなんだよ」
「そんなに!?」
「うん、私も初めて実物みたときは驚いたなぁ」
千早は幼少期に家族で動物園を訪れたときのことを思い出し、その懐かしさに微笑んだ。それと同時に、この時代と未来との共通点を見つけた気がして嬉しく思った。
「見てみたいなぁ。私たちだけで外出できるようになったら、一緒に見に行こう?」
「うん、もちろん」
千早は日向の申し出を快く受け入れる。自分たちだけでの外出が許される日がいつになるのかはわからないが、もしそうなったら純粋に京都見物するのも悪くない、と思った。
そんな二人の会話を、千早の隣で聞いていた沖田がぼそりと呟く。
「君ってなんかずれてるよね」
「……? 沖田さん、今何か言いました?」
千早が尋ねれば、沖田はピタリと箸を止めた。
「僕ずっと気になってたんだけどさ……君って掃除も洗濯も炊事もまともに出来ないじゃない?」
「……はい、まぁ……それは、すみません」
――まさか食事の時間にまで説教されるのだろうか。千早は身構える。
「字もまともに読めないし、小銭も数えられなかったし」
「……はい」
それはこの時代の字がミミズにしか見えないからで、お金は単位が未来と違うから――とは決して言えない。
「それなのに、暗算は出来るし時間にはやたら正確で……」
沖田はここ二週間の千早の言動を思い返す。
お金の計算は出来ないのに、おかずが一人いくつになるか、という計算は一瞬で答えを出したこと。時計が読めないと言っていたにも関わらず、時間に分単位で正確なこと。そして何より剣道の腕が立つこと。彼女自身の髪や肌が美しいこと。
今の時代、農民であっても字が読めるのは普通だ。だが千早はそれが出来ない。だから、字を習うことも出来ない暮らしぶりだったのだろうかと思えば、肌も髪も傷んでいないし身なりを整える余裕はあるようだ。しかも、剣道も強い。名のある師範に習っていたのは確実だ。
お金の計算だってそう。これが出来なければ生きていけないにも関わらず、千早にはそれが出来なかった。最も、教えたらすぐに覚えたけれど。
それ以外にも――彼女と言葉を交わせば博識なのはわかるのに、どういうわけか一般常識だけがごっそり欠けているのだ。
「君は一体……」
沖田は千早をじっと見つめた。その視線に、千早は今度こそ身体を強張らせる。何か気づかれたのか、怪しまれたのだろうか――と。
そんなときだ。
「ああ、そう言えば佐倉」
少し離れた場所に座る原田が、思い出したように千早を呼んだ。
「これ、さっき落としてったぜ」
そう言って彼が袂から取り出したのは、一枚の桃色のハンカチ。
「――あ」
それを見て、千早は一瞬固まった。けれどすぐに元に戻る。原田の反応から、別にそれが見られて困るようなものではないだろうと判断したのだろう。
「ありがとうございます、原田さん」
千早は席を立ち、急いでそれを受け取りに行こうとした。けれど、それより先に山南が「ほう」と声を漏らす。
「佐倉さん、是非それを見せて頂いても? 珍しい柄だ」
どうやら興味を持たれてしまったらしい。――仕方がないので、千早は「どうぞ」と短く答えた。原田からハンカチを受け取った山南は、眼鏡の奥の瞳を輝かせる。
「これは木綿ですか? 手ぬぐいとは織り方が違いますね」
「はい、木綿です。織り方は違うかもしれませんが、それも手ぬぐいですよ」
千早はとりあえず、適当に話を合わせることにした。
「木綿に刺繡とは珍しい。それにこの柄も……一体何という花なのでしょうか」
「すみません、花の名前まではちょっと……。貰いものなので」
千早が困ったように返せば、山南さんは少々残念そうにする。
――彼女からすればその柄は、何の変哲もない花柄だ。どうせ工場の大量生産品。デザインなど気にもとめたことはない。つまり、花はただの花である。
「そうなのですね。にしても、こういう品はこの辺りでは見たことがありませんね」
この言葉に興味を持ったのか、今度は平助が会話に割り込んで来た。
「そんなに珍しいのか? 山南さん」
「そうですね。少なくとも私は一度も目にしたことはありません」
「ふーん。俺にも見せてくれよ」
そう言って、平助は山南の手からハンカチを取り去るとその場で広げて見せた。薄手の桃色の生地に、白糸で花の刺繡が施された上品なハンカチだ。
「おおー! 何かよくわかんねぇけどいい柄だな! 誰からの貰いもんなんだ? 秋月か?」
平助は軽い調子で尋ねる。千早は少し考えた末、内緒と答えるのもなんだかおかしい気がして、「兄から」と正直に言うことにした。いつぞやのバレンタインのお返しだ。
「へぇ、お前兄貴がいるのか」
「うん」
「お前、その兄貴と仲良かったんだなー」
「……え?」
「そうじゃなきゃ、こういう贈り物しないだろ?」
それは予想外の言葉だった。兄はいくつだとか、家業は何だとか、そういうことを聞かれるかと思っていた。それがまさか、仲が良かったか……などと言われるとは少しも予想していなかった。
千早の脳裏に過る兄の姿。たった二週間会っていないだけなのにあまりに懐かしくて、ほんの少し泣きたくなる。けれど彼女は必死に耐えた。
だって、もう泣かないと決めたのだから。
「うん、仲良かったよ。――じゃあもういいかな、返してもらって」
千早は何とか笑顔を保ったままそう答え、平助の手からハンカチを取り上げる。彼は少し驚いた様子だったが、それには気づかない振りをして自分の席へと戻った。そうして、何事もなかったかのように食事を再開する。
結局その後、千早は周りに何かを追及されることはなかった。原田も山南も平助も、ハンカチにはそれ以上疑問を持つことはなかったようだ。先ほど何かを言いかけていた沖田もそれ以上何か言うことはなく、千早は内心安堵した。きっとそれほど重要な話ではなかったのだろう。――と思ったのも束の間。
食事を終えて席を立とうとしたところ、沖田に呼び止められた。「巡察の準備が出来たら、僕の部屋にくるように」と。特に怒っている様子も、苛立っている様子もなかったけれど、一体何の用だろう。もしかして先ほど言いかけていた件だろうか――。
千早はやや不安に思いながら、日向と共に身支度を整えた後、一人で沖田の部屋へと向かった。