一
空は真っ青に澄み渡り、吹き抜ける風が肌に心地よく感じられる季節。桜の木の枝には青々とした葉が生い茂っている。
千早がこの時代に飛ばされてから二週間が経過していた。そんなある日の――まだ隊士たちも起き出してこない――早朝に、千早は普段は誰も近づかない蔵の傍で一人稽古を行っていた。
まず、けが防止のためのストレッチと柔軟体操を約10分間。その後、腕立て、腹筋、背筋、スクワットを50回ずつ行い、それが終わったらようやく素振りと足さばきの練習だ。素振りは、正面素振りと早素振りを納得がいくまで繰り返す。土の上での足さばきは最近ようやく慣れてきたところだ。
――千早は沖田に罵倒されたあの日以来、深夜に帝の部屋を訪れることも、一人ひっそりと泣くこともやめた。それまでは、まるで自分が悲劇のヒロインにでもなった気でいたが、沖田の言葉で考えを変えたようだ。
確かに自分は今不幸かもしれない。でも、自分だけが不幸なわけではない。それに、この時代に飛ばされてくるまでの生活が恵まれていたというだけで、決して今が不幸なわけではないのだと、そう考えることにした。
彼女は無心で素振りを繰り返す。そうして――彼女がここで朝稽古を初めて一時間程経過した頃だろうか。彼女はひと息つこうと、クールダウンしつつハンカチで汗を拭っていた。制服のポケットに入れていたハンカチで、未来からこちらに持ってこれた数少ない私物の一つ。学校のカバンも部活用のカバンも、気付いたら無くなっていた。おそらく未来に置いてきてしまったのだろう。猫を触ろうと、“あの場所”でカバンを下ろしてしまったから。
千早がそのときのことを思い出していると、背後から声をかけられた。彼女は慌ててハンカチを胸元に仕舞う。そして振り返れば、そこには原田左之助が立っていた。
「気合入ってるな、佐倉。随分早いじゃねぇか」
「おはようございます。原田さんこそお早いですね」
「あぁ、なんだか目が覚めちまってな。そいやあ今日だっけか、初の巡察」
「そうなんです。それであまり寝られなくって」
「ははっ、まるで子供だな」
「本当ですよね」
原田左之助は十番隊組長で、大層な槍の使い手である。歳は今年で二十四。性格はやや短気なものの、外見は新選組で一、二を争う美男子で、遊郭ではいつも女郎に追いかけられているという。
二人は軽い挨拶を交わした後、何とも無しに手近な大岩に腰かけた。そうして、何気ない会話を始める。
「結局、帯刀は許されたのか?」
「……あー、いえ、沖田さんが私にはまだ早いって」
「まぁ、そうだよな」
――今日は初の巡察だ。けれど、千早はまだ帯刀を許されていなかった。沖田曰く、小姓に刀は必要ないとのこと。それに実際のところ、千早は自分に刀が扱えるとは思っていなかった。それに、誰かを斬るなんて覚悟も全く出来ていないわけだから、持たされなくて逆に良かったとも言える。まぁ、それはともかくとして。
「本差は難しいですけど、せめて脇差くらいは欲しいかなって思ってるんです」
いくらここが日本とは言え、今は幕末で武士のいる時代だ。流石に丸腰というのは不安である。
大太刀の帯刀を沖田に却下されたときには脇差のことにまで思い当たらなかったが、昨夜日向と話していて脇差の話になったのだ。今日の巡察は日向も共に行くことになっているが、その際日向は脇差を所持していくらしい。
実は、千早も一応護身用具は持っている。制服の胸ポケットに入れていた、タクティカルスティックのボールペンだ。過保護な兄に持たされたもので、未来ならある程度護身用として使えそうなものだが、この時代で使うには少々心もとない。何せリーチの違いが歴然だ。
そんな千早のぼやきに、原田は「はてな?」という顔をした。
「っていうかお前、脇差も持ってねぇのか。護身用だぞ。駆け落ちするのに脇差一本持たねぇってのはどうかと思うが。よく京まで来られたな」
「あっ……あー、それは……」
――しまった、と千早は思った。けれどそろそろ嘘をつくのにも慣れてきた。彼女は一瞬の沈黙の後、作り笑いで答える。
「途中でお金がなくなってしまって、売っちゃたんです」
すると、原田はあきれ顔で肩をすぼめた。
「計画性ねぇなー」
「ですよね」
千早はへらっとした笑みを浮かべて、視線を自分の足先に落とす。
嘘をつくのにも慣れてきた。けれど罪悪感がないといえば嘘になる。それに一つ一つは軽い嘘とはいえ、積み重なればそれは大きな嘘となり、いつしか取り返しのつかないことになるのでは……という不安も付きまとう。
彼女はこの二週間のことを思い出していた。新選組との出会いから今日まで辛いことは沢山あったが、基本的にここの人々は皆優しく親切だ。長い間、時間を共にしてきた仲間意識のようなものがある。年齢も出身もバラバラで剣術の実力差も大きいのに、上が下を虐げたりするようなことは一切なく、気遣いさえ感じられる。千早はそんな彼らとの日々を、まるで部活の合宿のようだと思っていた。
だからこそそんな隊士たちに対し、千早はどうしようもない後ろめたさと大きな不安を感じるのだ。自分は皆を騙している。嘘をついている。そしてその事実に、土方や沖田はきっと気が付いていて、自分のことを疑っている。それを正面切って明かそうとはしてこなくなったけれど、もしもこの嘘がばれてしまったとき、自分は、帝は、いったいどうなってしまうのだろうと。
「……あの、原田さん」
「ん?」
「沖田さんって、もともとああいう方なんですか?」
「あー……。いや、確かに前からああいうところはあったが、そこまでじゃなかったな」
その答えに、千早は「やっぱり」と呟いた。沖田の当たりが強いのは、やはり自分に対してだけなのだ。わかっていたけれど、客観的に口にされると流石に堪える。
「総司に何か言われたのか?」
原田に顔を覗き込まれ、千早は顔を上げた。「いえ、そういうわけでは」と否定して、けれどやっぱりもう少しだけ聞いてみようと心に決める。
「この前、言われたんです。私を見てるとイライラするって」
「……」
「あの、私って人をイラつかせるような態度取ってます? 今まで生きてきて、そんなこと言われたことないから、私わからなくって」
「……いや、俺はそんな風には思わないけどな。多分それ、総司の問題だと思うからあまり気にしない方がいいと思うぞ」
「沖田さんの問題、ですか?」
「ああ。あいつ、近藤さんと土方さんのこと徹底的に慕ってるから、……つまり、妬きもちみたいなもんじゃねェのかな」
「……!」
その言葉に彼女は思い出す。一週間前、自分を罵倒した沖田の言葉を。
彼は確かこう言っていた。“土方さんの前で、よくもあんなぬけぬけと――”と。それがまさかそういう意味だったとは。確かに自分も近いことを思った。沖田は、近藤や土方を困らせる自分が気に入らないのだろう、と。けれどそれが、嫉妬にも近いものだったとは思いもしなかった。それほどまでに沖田はあの二人のことを慕っていると、そういうことなのか。
「……原田さん」
「うん?」
「ありがとうございます、なんだか少しだけ、わかったような気がします」
「そうか? そりゃあ良かった」
千早は立ち上がる。朝餉の支度の前に着替えておかなければ。
「じゃあ、私先に行きますね!」
「おう、また後でな」
そうして、彼女はその場を後にした。原田はそれを見送って、自分も行くか――とその場に立ち上がる。そしてあることに気が付いた。
「……なんだ、これ」
足元に落ちた一枚の布らしきもの。見たこともない柄だが、もしや千早の落とした物だろうか。
「ま、後で聞いてみりゃいいか」
原田はそれを拾い上げると袂にしまい、その場を立ち去った。