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 ――2012年4月21日午後7時。


 桜はすっかり散り終え、緑の葉をつけ始めた頃。午後7時ともなると日は既に暮れ、校舎は職員室前と部室棟を除いて暗闇に包まれていた。


 ――京都府立八条高等学校(きょうとふりつはちじょうこうとうがっこう)。その敷地内の体育館横にある運動部部室棟は、部活を終えた生徒たちの声で賑わっている。

 その中でも剣道部の部室は、毎年全国大会出場を果たしている強豪校だけに、とりわけ賑やかだ。


「じゃあ皆、私は先に帰るね。戸締まり頼んだよー」

「はーい! 千早(ちはや)先輩お疲れさまでーす」


 千早は部室に残る後輩たちに別れを告げ、足早に部室棟を後にした。通学用と部活用のカバンを右肩にかけ、左手には次試合のメンバー表が入ったA4サイズのファイルを抱えている。


「ちょっと遅くなっちゃったかな」

 彼女はすっかり暗くなった空を見上げ、急いで待ち合わせの場所へと走った。

 誰との待ちあわせかと言えば、勿論、相手は彼氏である。


◇◇◇


 彼女の名前は佐倉千早(さくらちはや)。ここ八条高校の3年生で、女子剣道部の主将だ。身長158cm、体重は45kg。肌は陶器のようにつるりとした白色で、顔立ちはやや中性的で整っている。瞳はやや青みがかった黒、無論、頭髪も黒だ。制服のスカートから伸びるスラリと細い手足は程よく引き締まり、彼女の美しさを一層引き立たせていた。


 そんな彼女には、今年で付き合って2年になる恋人がいる。名前を秋月帝(あきづきみかど)と言い、彼も千早と同じく剣道部主将である。

 身長は175cm、顔立ちは凛々しいというよりやや甘め、耳が隠れるほどの長さの髪はワックスで遊ばせて、一見すればバスケ部かあるいは軽音部にいそうな、どちらかといえばチャラそうなルックスだ。

 けれど帝はそんな外見とは反対に生徒会長を務めており、学力も申し分ない。剣道の個人戦に置いては中学からの6年間、全国大会連続出場と、学校内外においての有名人だ。


 とはいえ、優秀なのは帝だけではなかった。全国大会に毎年出場しているのは千早も同じである。彼女も生徒会の副会長を務めており、帝には及ばないものの学力はトップクラス。加えて非常に面倒見のいい彼女は、後輩だけでなく同級生からも慕われている。


 しかし当の本人は、それでも帝に比べれば、自分はまだまだ足元にも及ばない……と常々(つねづね)思っていた。

 それは帝の持つ圧倒的なオーラと言うか、器の大きさと言うか、どうにも言葉にしにくい(たぐい)のものに対してであるのだが。

 ともかく千早は事あるごとに、自分では帝に相応しくないのではないかと思わずにはいられなかった。


◇◇◇


「ごめん! お待たせ!」


 千早が待ち合わせ場所に着いたときには、やはり、既に帝はそにいた。人もまばらの自転車置き場のフェンスに背を預け、彼はたった一人でじっとスマホをいじっている。画面の青白い光が、彼の横顔をぼうっと照らしていた。


(みかど)、ごめん、待った?」

 千早は帝に近づき声をかける。すると、名前を呼ばれて流石に気付いたようだ。帝はパッと顔を上げると途端に笑顔を見せる。


「お疲れ、千早(ちはや)

「ごめん、待たせたよね」

「いや、今来たとこだし」

 そう言いながら、帝はスマホを制服の後ろポケットに突っ込んだ。それを見た千早は、思う。


 今のは嘘だ――と。何故なら、ほんとうにほんの数分待たされたくらいであれば、帝が自分に気付かない筈が無いからだ。名前を呼んでようやく顔を上げたということは、少なくとも10分は待たせていたのだろう。


「ごめんね。今度の試合のメンバー話し合ってたらこんな時間になっちゃって」

 それに気付いた千早は再度謝る。だが、帝はそれを笑顔で遮った。


「いいって。じゃ、帰るか」

 どうやら、本当に気にしていないらしい。その証拠に、彼はいつもの如く左手を差し出す。手を繋いで帰ろうという意味だ。


「うん」

 千早は内心安堵して、帝の手を取ろうとした――が、その時。



「あれ、佐倉先輩。まだいたん?」

 ――と、背後から声がした。聞き覚えのある後輩男子の声だ。千早はそのせいで、帝と繋ごうとしていた手を反射的に引っ込めてしまった。そうして慌てて振り向けば、やはりそこには見知った後輩の姿があった。


「えっ、あー、上條(かみじょう)くん」


 千早は気まずそうに呟く。千早と帝が付き合っているのは教師陣にも周知の事実だが、やはり人にこういうところを見られるのは恥ずかしい。

 だが、どういう訳か上條はおかしなことを口にする。


「先輩今帰りなん? 俺、バス停まで送ろか? ってか、送らせて」

「……えっ」

 瞬間、千早は絶句した。もしかしなくてもこれはあれだ。どうやら彼には帝の姿が目に入っていないらしい。


 それに気付いた千早は、先程引っ込めた右手で素早く帝の左手を取った。そして、必死に満面の笑みを浮かべる。


「その必要はないよ! 帝が送ってくれるから! ねっ、帝?」

 慌てて帝を振り向けば、そこには千早の予想通り、無言の怒りを全身から沸き立たせる帝の姿があった。その顔には、見たものを一瞬で凍らせてしまいそうな冷たい笑顔が湛えられている。


「あっ……主将」

 そんな帝の姿に、上條もようやく気付いたようだ。上條の顔が文字通り凍りついたのを千早は見逃さなかった。彼は「しまった」という顔をして、その場で数歩後ずさる。


「ち、違うんやて。これは別に深い意味はのうて。――あっ、こんなことしとる場合ちゃうわ。そう言えば兄貴に用事頼まれとるんやった! ほな、俺はお先に失礼します! さいなら~!」

 そして、上記の言葉を息継ぎもなしに一気に告げると風のように校門の向こうへ走り去っていった。


 後には、どこか気まずい雰囲気の千早と帝だけが残される。


「あいつ……明日覚えてろよ」

 その直後、帝が呟いた。それは、普段決して聞き慣れないドスのきいた低い声。それを聞き逃さなかった千早は、泣きたい気持ちを抑えながら、心の中で上條に恨み節を唱えるのだった。


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