五
「……ったい、痛い……痛いですッ」
土方の部屋を出た千早は、沖田の腕に引きずられるようにしてその後を追った。小走りでなければ追いつけない程のスピードで、沖田はどんどん先へと進んで行く。
縁側を行きかう隊士たちは皆、沖田の顔を見てその顔を強張らせた。裸足のまま庭に飛び降りて道を譲る者までいた。
千早はそんな隊士たちの姿に、一体これはどういうことかと思った。先ほどは見たこともないような優しい顔をしていた沖田が、今は一体どんな表情をしているのだろうかと。きっとそれは世にも恐ろしい顔なのだろう、と。何故って、沖田に掴まれた左腕がこんなにも痛いのだから。
「うわっ!? んだよ総司か危ねぇな! ……って、お前顔怖ぇーぞ」
二人が角を曲がると、永倉とぶつかりかけた。彼も他の隊士たちと同様に驚いて、一体何事かと沖田に尋ねる。だが、沖田はそれに答えないどころか、足さえも止めない。
「退け」と吐き捨てるように言って、彼は永倉の横を通り過ぎる。千早はすれ違いざまに永倉の顔に浮かんだ、畏怖の色を見逃さなかった。
「お、沖田さん……ッ! すみません永倉さん!」
彼女は沖田に腕を引っ張られたまま、顔だけ何とか振り返り永倉に謝罪する。沖田のこの無礼な態度はきっと自分のせいなのだろうと、彼女は何となく察していたのだ。
「沖田さん、私また何か気に障るようなこと――」
千早は尋ねるが、沖田は答えない。それどころか、千早の腕を掴むその手により一層の力を込めた。その力は、いくら千早が「痛い」と言っても決して緩まることはない。
――どうしてなんですか、沖田さん。
千早は沖田の背中を見つめ考える。どうしてこの人は、私がどうしようもないときにばかり現れるのか。誰もが恐れる顔をしながら、なぜ自分を助けるのかと。どうして、急に優しい顔を見せたりするのだろう、と。
あんな顔を見せられたら、一瞬でも期待してしまうのに。あれほど酷いことをされたにも関わらず、希望を持ってしまうのに。もしかしたらこの人は、自分の味方になってくれるんじゃないかって。助けになってくれるかもしれない、なんて。――そんなことはあり得ないとわかっていても尚。
そんなことを考えているうちに、気付けば沖田の部屋に連れて来られていた。沖田は千早を部屋に放り込むと、乱暴に戸を閉める。そして彼女を壁際に追い詰めた。彼は壁に両手をつき、千早の退路を断つ。――それはいわゆる壁ドンだった。が、その場に流れる空気はとてもそんな生易しいものではない。
「……怒ってるんですか?」
でも、一体何に?
千早は尋ねる。目の前の沖田の表情から、そうとしか思えなかった。けれど彼女にはその理由が思い当たらない。
沖田の自分を蔑むような瞳。その色は暗く鋭く、燃えるように激しい感情を秘めているように見えるのに、同時に氷のように冷たい。今にも噴き出してしまいそうな感情を、理性だけで必死に押し留めているような、そんな瞳。
――怖い。
彼女はそう思った。けれど、絶対にそこから視線はそらさなかった。彼がどう思っていようとも自分を助けてくれたのは事実。沖田自身はそんなつもりではなかったとしても、今の自分にとってはそれだけが全てなのだから。
「あの……沖田さん、さっきはありがとうございました」
だから千早は頭を下げる。今はそんな状況ではないだろうと感じつつ、それでもこれだけは伝えたい、と。
けれどその言葉に、沖田は眉間にシワを寄せた。まさか今礼を言われるとは思ってもみなかったのだろう。
「巡察……同行させてもらえるように、言っていただいて」
千早が言葉を続ければ、今度こそ沖田は不愉快そうに顔をしかめた。そうしてようやく口を開ける。
「――黙れよ」
それは低く、重たい声だった。千早の謝罪を否定する言葉。彼女は思わず身を震わせる。
「僕が君を助けたとでも?」
そう言って沖田は、片方の口角を上げた。沖田の口から乾いた笑いが漏れる。
「随分とおめでたい頭をしてるんだね。僕が君を助けるわけないじゃない」
「……でも、さっき」
「自惚れないでよ。僕はただあれ以上見ていられなかっただけだ。君があんまり見苦しいまねをするから」
「……見苦しい?」
彼女は目を見開いた。
一体自分の何が見苦しかったのか。確かに、あの場で泣いてしまったことはいけなかったと思う。けれど、何がそれほど見苦しいまねだったのか……。千早は沖田の言葉の意味がわからないと、狼狽えた。
だが、千早のそんな態度に痺れを切らしたのだろうか――彼は苦々しげに「ふざけるな」と呟く。
そして次の瞬間、ついに声を張り上げた。「君は全然わかってない!」と。その整った顔を酷くひきつらせながら。
それは突然の罵声で、千早は思わず「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
「君を見てるとイライラするんだよ! 近藤さんや土方さんは君を助けようとしてくれてるのに、君は全然わかってない、知ろうともしない!」
「……っ」
千早は驚いた。全身の体温が一瞬で低下する。自分を蔑む冷たい瞳に、あの夜の沖田の姿が思い浮かんだ。自分を羽交い絞めにし、無理やり口づけたあの日の沖田を。
けれど、脳裏に過ったその姿はすぐに搔き消えた。なぜなら今目の前にいる沖田は、あの時の沖田とは確かに違っていたから。
自分を見下ろす冷たい瞳。罵倒する声。けれど、その奥にときおり垣間見える彼の表情はどこか辛そうで、痛々しくて――その姿に、彼は本当は私ではなく彼自身を責めているのではないかとも思えた。彼が押し殺していた感情の正体は、もしかしたら……。
「殺すなら最初から殺せた! でもそうしなかったのは、土方さんが君を助けようとしたからだ! それなのに君はその土方さんの前で、よくもあんなぬけぬけと……!」
彼は――出ない声を無理やり張り上げるかのようにぶちまける。
「今も君はそうやって、自分は何も知らないって顔をして……。君が今までどんな生活をして来たか知らないけど――」
そこまで言って、言葉を詰まらせる沖田の震える吐息。それがどういうわけか、千早の心を締め付けた。どうしてこんなに、この人は苦しそうな顔をするのだろう、と。
「ここにはね、一人として事情のない人はいないんだよ。皆それぞれ何か理由があってここにいる。志を持つ者、何かを守りたい者、あるいは愛する家族の仇打ちの為――。そんな人ばかりなんだ。皆覚悟してここにいる。生半可な覚悟じゃいられない。それなのに――君のその中途半端な覚悟が皆の心を踏みにじる」
「……っ」
その言葉に、千早はようやく気が付いた。彼がどうして自分を連れ出したのかわかってしまった。それは自分の泣き顔で、近藤や土方を困らせない為――。
彼は私を責めている。そして、私を管理できなかった自分自身を責めているのだ。
「君の存在自体が、迷惑なんだよね」
もはや悟らざるを得ない。本当にこの人は自分を助けてくれたわけではないのだと。
「……私」
千早の中に、再び虚しさがこみ上げる。あの夜の様な圧倒的な無力感が。けれど同時に沸き上がる、ほんの少しの同情心。
――辛いのは自分だけじゃなかった。それ以上に、ここの人たちは皆大変な思いをしている。それは目の前の、この沖田も含めて。
「だから、次、近藤さんや土方さんにさっきのような態度を取るのなら――」
沖田の唇が、耳元で囁いた。――“斬るよ”と、それは最終通告のように。
「……土方さんにああ言った手前、君を巡察には連れて行くけど」
言いながら、彼は千早に背を向ける。
「絶対に――僕に迷惑かけないでよね」
そしてそう吐き捨てるように言うと、立ち尽くす千早を一人残し、無言で部屋を後にした。




