四
◇◇◇
それと同じ頃――土方と沖田の間でそんな会話が繰り広げられているとは露知らず、千早と日向は厨で洗い物をしながら会話を弾ませていた。今ここに居るのは二人だけな為か、さながら女子トークのようだ。
「ね、さっきの千早ちゃんの箸技、すごかったね」
「それはもう言わないで……」
「ふふっ、だってすごかったよ。あんなのどこで覚えたの?」
「どこって言われても……。日向って、実は結構いじわるだよね」
「そんなことないよ」
日向はクスクスと笑い声をあげる。
「だからもう笑わないでってば」
「ふふっ、はいはい、もう笑わない」
「……もう」
千早が口をとがらせると、日向はようやく笑うのをやめた。そして、何かを思い出したように手を止める。
「そう言えば私、来週から巡察にお供させてもらえるように土方さんに頼もうと思ってるんだけど、千早ちゃんは何か考えてる?」
「……巡察?」
――いったいそれはなんでしょうか。
そんな彼女の心の声が聞こえたのだろうか、日向は続ける。
「巡察っていうのは、京の治安を守る為に町を巡回することだよ。ほら、巡察に着いて行けば、父さまの情報を見つけられるかもしれないでしょう?」
――確かに、今のところまだ二人は外出を許されていない。万が一新選組に女が紛れ込んでいることが周りに知られてしまっては困るからだそうだ。が、確かに日向の言うとおり、このまま屯所ないで過ごしているだけでは何の情報も得られないだろう。
「……外、かぁ」
「うん、でも千早ちゃんは誰か探しているわけでもないもんね。あんなこともあったし、……無理して出ることないよ。ここにいれば安全だし」
「……そう、だよね。でも――」
そうだ。外に出ればこの時代のことを知ることが出来る。現状、自分が京の町を目にしたのは初日の夜のみで、明るい時間に見たことは一度もない。どうせなら、ここが本当に幕末であるということを自分の目できちんと確認しておきたい。それに帝が目覚めたとき、一つでも多く情報を知っている方がいいだろう。
彼女は考えて、決めた。
「私も行く」
「そう? じゃあ、後で一緒にお願いしに行こう?」
「うん。ありがとう日向」
――日向だってお父さんのことでいろいろと大変な思いをしているのに、こうしていつも自分を気にかけてくれる。本当に、感謝しなければ。
千早が日向にお礼を言うと、日向はいつものように微笑み返す。
「こちらこそ! じゃあまずはこの洗い物終わらせなきゃね!」
そうだった。彼女たちは今、洗い物のまっ最中なのである。二人のそばには、高く積みあがる皿の山。二人は気合を入れなおす。
「うん、そうだね! 頑張ろう!」
そうして二人は食器洗いに集中した。それぞれの目指す未来に、思いを馳せながら。
◇◇◇
――食器洗いを終えた二人は、土方の部屋を訪れた。巡察の件をお願いしようと思ってのことだった。
「土方さん」
日向が縁側から声をかける。返事はすぐだった。
「入れ」
「はい」
日向は戸を開ける。土方は部屋の中心で腕組みをし、何か考えているようだった。それに――どうやら機嫌が悪そうだ。
「土方さん、どうかされたんですか?」
「……なんでもねェよ」
土方はようやく日向の方を向く。すると彼はようやく千早の存在に気付き、顔色を変えた。
「佐倉?」
いったいどうしてこの女がここに。
そう思った土方は、二人が部屋に入るのを遮るように「何の用だ」と尋ねる。
その声は低く重く、千早はびくりと身体を震わせた。沖田も怖いが、土方はそれの比ではない。有無を言わせないような力が、彼にはあるのだ。
けれど日向は、そんな土方の態度はすでに慣れていると言った様子で、そのまま部屋に入ってしまう。千早もどさくさに紛れて日向に続いた。
日向は入り口すぐの場所に正座する。そして、こう言った。
「私たち、お願いがあってまいりました」
「――何だ」
土方の声は冷たい。だが、日向は特に気にすることもなく続ける。
「はい。そろそろ私たちも、巡察に加えていただけないかと思いまして」
「何……?」
日向の言葉に、土方はピクリと眉を潜めた。そしてすぐに「駄目だ」と答えた。
「いったい何の為に。そもそも小姓のお前にゃ無理な話だ」
だが、この返答は日向も予想済みのようだった。彼女は動揺することなく更に続ける。
「私は父を探したいのです。それは土方さんも同じなはず。――勿論私は一人でだって構いません。けれど、父には疑いが掛けられていますから、寧ろ巡察に同行という形を取れば、土方さんとしても私を監視できるし、安心なのではと」
その言葉には一応理が通っていた。土方は思案する。
――日向の父親はもう死んでいる。だからいくら町に出て情報を探そうが無駄なのだ。
だが、まだその事実をこの娘に知られるわけにはいかなかった。何故なら日向の父親である殿内が、新選組の情報を持ち出した可能性があるからだ。それがはっきりするまでは、日向に疑われるわけにはいかない。
どうする――と考えて、土方は一旦保留にすることにした。先ほどの日向の第一声を思い出したからだ。日向は「私たち――」と言っていた。つまり、巡察に同行したいのは千早も同じだということになる。
「――で、佐倉。お前は何故同行したいと?」
「……私は」
言いかけて、彼女は言葉を詰まらせた。上手い言い訳を考えていなかったことに気付いたのである。
彼女が町に出たい理由はただ二つ。「ここが本当に幕末なのかを確かめる為」。そして、「未来に帰る手段を探す為」である。けれどそのどちらも、この場では口に出すことのできない理由だ。
――しばらく無言を貫く千早に、土方は目を細める。
「どうした、早く言わねェか」
土方は警戒していた。この、正体の何一つわからない佐倉千早という少女に。自分を決して語ろうとしない、十七の少女に――。
そんな土方の鋭い眼光に、千早は悟る。
ああ、自分は疑われているんだ、と。何も悪いことはしていないのに、と。勿論、それが当然の反応であるとは理解していた。けれど、自分には全く非がないことを知っているだけに、土方の自分へ向けられる疑いの眼差しに、悲しみと虚しさがこみ上げる。
もう、諦めてしまおうかと。
――そうだ、帝の傷が治ってからでも遅くはない。帝が目覚めてから、どうするのか決めたって……。――いや、駄目だ。それは逃げだ。自分は逃げないと決めたのに。それに今ここで撤回すれば、それこそ何か後ろめたいことがあるのだろうとより一層疑われることになる。
彼女は自分の膝の上の拳を見つめ、心の中で自問自答を繰り返す。そして、決めた。彼女は顔を上げる。
「理由なんて必要ですか? 別に私だって日向と同じく、巡察でなくても構いません。ただ、その方が土方さんに都合がいいかと思っただけです。
それにそもそも、私はここに置いて欲しいと頼みましたが、それはこの屋敷から一歩も出ないということを意味しません。隊士の方々だって、非番の日は自由に町に出ているでしょう?」
千早は今度こそ堂々と述べた。
すると土方は驚いたように目を見張る。思わぬ反撃だったようだ。
千早は続ける。
「私はもう正式に沖田さんの小姓です。ですから、沖田さんの巡察に着いていっても何も問題はない筈です。それが他の隊士の方の迷惑になると言うのなら、どなたか幹部の方が非番の日に、私に着いて来て下さるように頼みます。それで十分、私を監視できると思いますが――いかがでしょう」
それは今の千早の精一杯の言葉だった。彼女はそのまま、土方から視線を離さない。
土方もそんな千早を射るように見つめた。二人はしばらくの間――睨み合う。
次に口を開いたのは土方だった。
「わかってねェ様だから言っておくが、もしもお前が何かしでかして、俺たちの誰か一人でもお前を黒だと判断したら――俺たちはお前だけでなくあの男も斬ることになるが――いいんだな?」
「……ッ」
それはまるで氷の刃のように、彼女の心に突き刺さる。
「お前は自分の発言に、それだけの責任を負えるのか?」
「――!」
――刹那、千早の脳裏に過るのはあの夜の沖田の冷たい瞳。“騒いだら、斬るよ”と、そう告げたときの薄い笑み。
千早は今度こそ言葉を失くした。
新選組の誰にも、自分を“黒”だと判断させない――そんな自信は彼女にはなかった。自分は“白”だ。スパイでも何でもない。でも、それを証明できるのは自分自身だけなのだ。他の誰も、自分が本当に“白”であるとは知らない。それどころか、皆が自分のことを“グレー”だと思っている。
「……そんなの」
そんな中で、帝の死の責任までも負うなんて――。
千早は俯き、奥歯を強く噛み締めた。握った拳の手のひらに自分の爪が突き刺さり、血が滲んだ。その目じりにうっすらと溜まった涙は――数秒の後、音もなく頬を伝う。
「……酷い」
彼女の喉から漏れる声。それは決して泣き言などではなかった。ただ、彼女の切なる想い。だって彼女が願うのは、ただ帝と共に元居た時代に帰ることだけなのだから。
「……あんまりです」
ついにその涙は止まらなくなってしまった。
俯く彼女に、日向は狼狽える。けれど土方はただそれを黙って見つめるのみ――。
――が、そんなときだった。
「あ~あ、とうとう泣かせましたね」
「――、総司?」
それは沖田の声だった。
土方が顔を向ければ、沖田が自分を見下ろしていた。それも、見たこともないような顔で。
――それにしても、毎度毎度絶妙なタイミングで現れる男である。間違いなく今回も盗み聞きしていたに違いない。
彼は土方の許可もなく部屋に入ってくる。そうしてゆっくりと膝を落とすと、千早の肩を優しく抱いた。
「……沖田、さん?」
千早は訝し気に呟く。どうしてあなたが現れるのかと。どうしてこんな――慰めるようなことをするのかと。それも、そんなに優しい顔をして――。
「千早ちゃん、怖かったね。もう大丈夫だよ」
沖田は千早の耳元で囁いて、華奢な身体を抱き寄せる。そんな沖田の態度に、千早は驚きを通り越して固まった。
その顔も、声も、行動も、全てが理解できないと。
そしてそれは土方も同じだった。彼は忌々しげに舌打ちし「どういうつもりだ」と脅しつける。
「どうって……それはこっちの台詞ですよ。女の子を泣かせたりして。ただでさえ怖い顔なんですから、ちょっとは気をつけてくださいよ」
「何だと?」
「いいじゃないですか、巡察くらい。ちゃんと僕が見てますから」
「……」
「心配いりませんよ。変な動き見せたら、僕がちゃんと責任もってお仕置きします。それで問題ないでしょ」
沖田の自分勝手な物言いに、土方は今度こそ顔を歪めた。やはりこの男は最初から全て聞いていたのだ。それに全く気付かなかった自分も自分だが――。そう思った彼は溜息をつくほかなかった。沖田は言い出したら聞かないのだ。
「……もういい。行け。その女の顔はしばらく見たくない」
「はい。――じゃあ、行こうか千早ちゃん」
沖田は微笑んで、茫然とする千早の手を取り立ち上がる。そうして部屋を出かかったところで、オロオロとする日向を振り返りこう言った。
「それじゃあ日向ちゃん、土方さんのこと……宜しくね」
「……え? はっ、はい!」
「いい返事」
そうして沖田は再度微笑むと、千早を引き連れて土方の部屋を後にした。機嫌の最悪な土方と、それを必死に宥める日向を残して――。