二
◇◇◇
「沖田さん、参りました」
日はとっくの前に暮れ、京の町全体が闇に包まれている時間帯。夕餉と清拭を済ませた千早は、沖田の部屋の前に来ていた。明日は沖田の非番の日。つまり今日は、沖田の部屋で過ごす夜だ。沖田から告げられた「小姓の仕事」――それについて、沖田から改めて呼び出しがあったわけではなかったが、千早は“決まったことだから”と、自ら沖田の部屋を訪ねていた。
障子戸は閉め切られているが、灯りはついている。千早は縁側で膝をつき、沖田の返事を待った。すると一拍置いて「どうぞ」と声がする。
千早は緊張から喉をごくりと鳴らし、静かに戸を開けた。沖田は座卓で書き物をしていた。蝋燭の灯りがチラチラと揺れ、部屋に影を作っている。
「あの……沖田さん。私、中に入っても?」
千早は尋ねる。
――本当は中に入りたくなどない。これから自分の身に起きることを考えると、足が竦んで動けなくなりそうだった。けれど、帝の為にも逃げることは許されない。帝は決してこんなことは望まないだろうが、今はこの道しかないのだ。
そして、決して逃げられないと言うのなら、せめて堂々としていようと彼女は決めていた。
例え何をされようと、声一つ上げてたまるか、と。
沖田は目線はそのままに「入っていいよ」と許可を出す。千早はようやく部屋に入り、静かに戸を閉めた。そうして沖田がしゃべるより前に、これだけはどうしても約束してもらいたいと提案する。
「沖田さん、私、あなたに何をされようとも構いません。だけど、これだけは約束して欲しいんです」
それは強い決意の込められた声だった。沖田は思わず手を止め、千早の方を振り向く。そして、尋ねた。
「何を?」
千早は沖田をまっすぐに見つめる。
「今日のこと――そして、これからのこと。絶対に誰にも秘密にしてください。特に帝には、絶対に言わないで」
この言葉に、沖田は少々驚いたように目を見開いた。予想とは違う千早の言動に。
そして悟った。この少女は、本気で覚悟してここに来たのだ、と。誰かほかの幹部に言いつけて逃げることも出来ただろうに――。もしくはここでもう一度話し合い、別の条件を願い出ることも出来ただろうに、と。
つまり沖田はこう考えていたのだ。――佐倉千早という少女は決して馬鹿ではない。斎藤や土方と張り合い、交渉する術を身に着けている。そんな少女が、このあまりに非道な仕打ちを黙って受け入れる筈がないだろう。きっと何か別の提案をしてくるに違いない、と。
それがいったいどういうことだろう。
「どうしてそこまで」
沖田は独り言のように、呟く。
無論、あの言葉は本気であった。目の前の少女を抱いてしまおうと考えていた。きっとこの少女は抵抗する。その強い心を、完膚なきまでに叩き潰してやろうと思っていた。それは、二度と土方や近藤に刃向かわないようにする為に。
だが少女は受け入れたのだ。ただ堪えて……それはあの、秋月帝とかいう男の為だけに。
沖田にはそれが信じられなかった。いくら愛する男の為とは言え自分が犠牲になるなどと――もしも自分が男の立場だったら、全く嬉しくない。嬉しくないどころか怒りすら覚える行いだ。馬鹿げているとしか思えない。
「いつ死ぬかもわからない男の為にその身を捧げるって? 君は菩薩か? それとも馬鹿なのか? こんなところ逃げ出して寺にでも助けを求めたらどうなんだ」
沖田は千早を挑発する。けれど千早は決して迷いを見せなかった。
「言い出したのは沖田さんの方じゃないですか。それもあんな風に脅しておいて……何を今さら。でもいいんです、それで私も帝もここに置いてもらえると言うのなら」――と、そう告げた。するとそんな自分に、沖田は少し考えた末こう言ったのだ。
「君の考えはよくわかった。今日はもう下がっていい」――と。
◇◇◇
千早はそのときの沖田の言葉を思い出し、安堵するように小さく息をはいた。一体彼が自分の何を理解してくれたのかは知らないが、何事もなく部屋に帰してくれたのは事実。それからというもの昼間に頻繁に呼びつけられるようになったが、その代わりだろうか“夜はしばらく来なくていい”と告げられた。実際、今日の沖田は非番にも関わらず、昨夜の呼び出しは無かった。
昼の小姓の仕事が夜の相手の代わりになるとは思えない。が、ここのところの沖田の様子を見ていると、もしや彼にはもう“その気はない”のではと思えて来る。あるいは、沖田の言葉はただの脅しで、最初から何もするつもりはなかったのではないか――千早はそんな風にも考えた。
いずれにせよ、無理やり口づけをされたあの日のことを思えば、どんな横暴にも耐えられる。だから千早は、多少のことは気にならないし、気にするものかと、そう思っていた。
千早は再びネギを切るのに集中する。もうあと少しで終了だ。――と思った、その時だ。
「ふぅん。ちょっとはマシになったみたいだね」――と、突然耳元で声がした。千早が驚いて振り向けば、そこには自分の手元をじっと見つめる沖田の姿がある。
「あの……どうしてここに。今日非番ですよね?」
今日の沖田は非番だ。その証拠に、彼は袴ではなく千草色の小袖を着流している。髪も後頭部ではなく、首元で結われていた。
「非番だからって朝餉を食べないわけないでしょ? あんまり遅いから見に来たんだよ」
「もうすぐですから。気が散るので話しかけないで下さい」
千早が無愛想に答えれば、沖田は呆れたようにため息をつく。
「君さぁ、よくそんなんで隊士になりたいなんて言ったよね。包丁一つまともに使えないのに刀なんて無理に決まってるでしょ」
この沖田の言い分に、千早は顔をムッとさせた。何という屁理屈だろうか。彼女は手を動かしつつ反論する。
「刀と包丁を一緒にしないで下さい」
「一緒だよ、僕からすれば」
「じゃあ沖田さんは、刀で魚をさばけるってことですか?」
「少なくとも君の包丁さばきに比べれば上手いと断言するよ」
「言いましたね……? 勝負しますか?」
「僕は構わないけど、勿論その魚は君が用意するんだよね?」
――二人の間に険悪なムードが漂う。まさに“犬猿の仲”だ。
だが、それを見た日向はふふっと吹き出した。「なあんだ。お二人とも、思ってたよりずっと仲がいいんですね!」彼女はそう言って笑った。
そんな日向の言葉を二人はすぐさま否定する。けれどそのタイミングはばっちり重なってしまい「ほら、息ぴったり!」と更に公認の仲にされてしまった。
――心外だ。仲なんて全然良くない! と、千早は抗議しようとする。が、そう言い切る前に今度は土方が現れた。
「おいてめェら、何無駄口叩いてやがる」
厨の入り口で腕組みをし、仁王立ちする土方の苛立ちに満ちた低い声。その声と姿に、その場の全員の動きが固まった。が、「早く準備しねェか!」という一喝で、再び時間が動き出す。
「すみません、土方さん」
「今準備しますから」
「別に二人が謝ることじゃねぇって。元はと言えば沖田さんが突然登場したのが悪いんだし」
「それを言うなら君だって当番でもないのに何でここにいるのさ」
口々に物申す隊士たち。その騒々しさに――土方はとうとうキレた。
「なんでもいいから早くしろッ!」
――朝一番の土方の罵声が屯所内に響き渡る。こうして今日も、新選組の平和で慌ただしい一日が始まるのだった。