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 千早が沖田の小姓となってから、既に一週間が経っていた。けれどあいかわらず帝は眠ったまま目を覚ます気配はない。元の時代との連絡手段や帰る方法を見つけられる機会もないまま、彼女は男のふりをして毎日を過ごしている。


「これで最後……」


 今の時刻は午前七時。彼女は誰もいない洗濯場の端っこで、帝のカッターシャツを洗っていた。一昨日ようやく返してもらえた帝の制服。背中は大きく破れ、血も固まってしまってどう見ても着られる状態ではないが、捨てることもしたくないと、千早はそれを洗濯板で必死に洗っていた。一昨日、昨日、そして今日の三日をかけて、人気のない時間帯にこうして一人で。一人の時を狙うのは、制服をこの時代の人に見られるわけにはいかないからだ。


 ――それにしても、洗濯がこれほど重労働だとは思いもしなかった。

 彼女はようやく薄くなったシャツの赤黒い染みを見つめて、思う。


 20世紀中旬に日本に普及された“三種の神器”と呼ばれた家電の一つ、洗濯機。そのありがたみを、彼女は今身をもって感じていた。当時は乾燥機能どころが全自動でもなかったらしいが、確かに手で洗うことに比べれば神器と呼ぶのにふさわしい、と。


「……疲れた」

 気付けばつい、弱音を吐いてしまっている。一週間前、「弱音なんて言わない」と公言した彼女だったが、そんな決意は翌日には吹っ飛んでしまった。


 洗濯はまず水が冷たい。それにまともな洗剤もないので汚れは落ちない。水を含んだ衣服は非常に重く、運ぶのは重労働だ。掃除は基本ほうきと雑巾な上に、二百坪を超える床面積のこの屋敷は、掃いても掃いても終わらない。ほうきにも雑巾にも慣れていない彼女は、身体の使い方が悪いのかすぐに腰を痛めてしまった。休む時間が少ない為に、いつまでたっても全身筋肉痛状態だ。


 また、炊事においては右も左もわからなかった。そもそも彼女の家はオール電化だ。東京に住んでいたときはガスコンロだったが、今住んでいる家は電気調理器。それに、彼女は料理というものをほとんどしたことがなかった。カレーやチャーハン、あとはお菓子なら多少は作るけれど、煮物などの和食は全くだ。そもそも、全く勝手の違う台所道具では作れるものも作れない。


 ――せめて電子レンジがあればな。と、千早は思った。

 冷蔵庫すらない時代だ、基本的に作り置きは出来ない。白飯は朝一に昼食と夕食の分まで炊いてしまうが、おかずは三度作らねばならない。お湯があればすぐに食べられるインスタント食品も、冷凍食品は言わずもがな、ピューラーやフードプロセッサー等の便利道具もない。もともと野菜の皮むきがやっとで千切りすら出来ない彼女は、一週間たった今でも味噌汁を作るのがやっとなのである。


「――痛っ」

 千早は指先の痛みに、唇を噛み締めた。あかぎれが酷く染みる。けれど、この程度で治療など受けられるわけがない。何せ絆創膏すらないのである。お願いすれば軟膏くらいはもらえるかもしれないが、日がな一日水仕事の為、役に立たないことはわかっていた。


「……帰りたい」

 彼女はようやく水を絞り切った帝のシャツに額を付け、その場にしゃがみ込んだ。――帰りたい。今直ぐ逃げ出してしまいたいと、心の底から願ってしまう。

 けれど、そんなことは許されないのだ。ここに残ると決めたのは自分。それに、置いてもらえているだけでも感謝しなければならない。もしあのとき追い出されていたのなら、自分たちは今頃食べ物にもありつけず野垂れ死にしていただろうから。


「――よし、今日も頑張ろう!」

 だから、彼女は自分の頬をパチンと叩き、気合を入れなおす。泣き言は、自分一人のときだけだと決めていた。


 彼女は日向と使わせてもらっている部屋に戻り、シャツのシワを出来るだけ伸ばした。そしてそれを――庭のすみから拝借した――竹竿の先に掛ける。今日は天気がいい。部屋干しとは言え、戸を少し空けておけば昼頃には十分乾くであろう。


「いけない、遅れちゃう」

 そろそろ朝食を作る時間だ。彼女は部屋を出る間際、帝のシャツをちらと振り返り「行ってきます」と呟いて、急ぎ足で(くりや)へと向かった。


◇◇◇


「佐倉!おっはよ~!」


 千早が厨の敷居を(また)ごうとすると、その寸前で一人の青年に呼び止められた。ちなみに(くりや)とは台所のことだ。


「平助くん」

 千早は足を止め、後ろを振り返る。


 青年の名は藤堂平助(とうどうへいすけ)と言った。歳は千早の二つ年上で二十歳。八番隊組長である。背は千早と同じか少し高いくらいで、裏表がなく人懐っこい性格だ。千早や日向と真っ先に打ち解けたのは他でもないこの藤堂平助であった。


「おはよう。どうしたの、またつまみ食い?」

「あっ、ひでえ! 俺が毎日つまみ食いしてると思ったら大間違いだぞ! つーか、俺のことは平助でいいって言ってるのに。歳近いんだしさー!」

 千早に追いついてきた平助は、カラカラと笑いながら千早の肩に手を回す。平助は幹部の為、千早が女だと知らされている。が、あまり難しく考えない性格の為なのだろうか。女性の千早にも、他の平隊士に接するのと同じように気兼ねなく接していた。


「呼び捨てはやっぱり難しいかな。一応平助くん、年上だし」

「おいっ、一応って何だよ一応って!」

「一応は一応でーす」

 平助が自分に気をつかわないため、千早も平助には気を許して接すことが出来ている。――基本的に年上ばかりの隊士の中で、気を許せる数少ない存在だ。千早はそんな平助に、精神的にとても助けられていた。


「今日の朝メシは何だろうな~?」

「えーっと、納豆汁とこうじの焼玉子、あとは高菜漬けだったかな?」

「納豆汁か! 俺あれ好きなんだよ!」

 二人が言葉を交わしながら厨の暖簾(のれん)をくぐると、そこには既に数人の隊士たちが騒がしく食事の準備をしていた。その中には日向の姿もある。

 日向は千早の姿を見つけると、いつもの明るい笑顔を見せた。


「あっ、おはよう、ちは――……佐倉さん」

「おはよう、日向さん」


 千早は対外的には男ということになっているため、皆から「佐倉」と呼ばれている。日向も同じく男とされいるが、彼女の名は男性でもおかしくない名前であるから、「早瀬」もしくは、そのまま「日向」だ。


「ごめんね遅くなって。あとやること何が残ってる?」

 千早が尋ねると、日向は納豆汁の味見をしながら答える。


「ええっと、じゃあネギを刻んでもらっていい?」

「わかった、任せて」

 千早はまな板でネギを刻み始める。すると平助が背後から手元を覗き込み歓声を上げた。


「上達してるな!」

「いや、私だってネギくらい切れるから」

「いやいやいや~。初日のネギ、連なってたからな!」

「……あれは、ちょっとこの形の包丁に慣れてなかったからで」

「ふーん。じゃあ、千切りは?」

 平助の問いに、千早は気まずげに答える。

「それは……まだ出来ないけど」

「ほらな~!」

 すると平助はケラケラと声を上げて笑った。日向も、それにつられてクスクスと笑いだす。


 確かに千早の千切りはどちらかと言えば短冊切りに近い。けれどこれでも大分成長したのだ。何しろこれまで包丁など殆ど握ったことがなかったのだから、一週間で一通り野菜を刻めるようになっただけでも成長である。まだ火加減の調整は任せてもらえないけれど……。


「そう言えば、今日の沖田さんの寝起きはどうだった?」

 千早が大量のネギを刻んでいると、ふいに日向に尋ねられた。その問いに、「あー」と千早は言葉を濁す。


「寝起きは……今日も最悪でした」

 そう、沖田の寝起きは最悪だ。

 千早は沖田の指示通り、今朝も時間通りに沖田を起こしに行った。が、いつもの如く「(うるさ)い、眠い」とごねられ、結局十五分の時間を有したのである。わざとなのか、それともそれが通常運転なのかはわからないが……。


 それに当初の予定では「沖田を毎朝起こすこと」のみであった筈の小姓の仕事が、この一週間で何倍にも増えていた。

 急に呼び出されたと思えば、部屋が埃っぽいから掃除をしろと言われ、喉が渇けばお茶を入れて来いと命令された。入れたら入れたで「不味い」と入れ直しを命じられ、肩が凝ると言うから揉めば「下手くそ」となじられた。


 それは周りからすれば、(いじ)めにも見えたことだろう。


「佐倉、大丈夫か?」

 平助が千早の顔を覗き込む。どうやら手が止まってしまったみたいだ。彼女は再びネギを刻みだす。


「あんまり辛かったら、俺が沖田さんに言ってやるからな」

 平助は珍しく真顔で千早を元気づける。けれど千早は「大丈夫、全然気にしてないから」と笑顔で返した。そんな彼女の言葉を、平助や日向は“強がり”だろうと思った。けれどそれは違った。彼女の言葉は本心から来るものだ。


 千早は思い出す。それは沖田の小姓になった翌日の事――。


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