二
◇◇◇
その部屋は千早が居た部屋から最も離れた場所だった。彼女が寝かされていた部屋は屋敷の奥まった場所であったが、帝の居る部屋は先ほど近藤や土方らと対面した部屋を通りすぎた更に向こう側の、どちらかと言えば屋敷の入り口に近い場所だった。
その部屋までの長い縁側を通りながら、千早は斎藤の背中に向かって尋ねる。
「帝の容体は……」
「会えばわかるが、危険な状態だ。いつ何があってもおかしくはない」
「……そう、なんですね」
千早の声は暗い。
危険な状態であることはわかってはいた。だが、それでもつい足が竦んでしまう。会いたいのに、会えることは嬉しいはずなのに、どうしても怖くなってしまう。傷ついた帝の姿を目の前にするのが――どうしようもなく。
が、そんな千早の想いに気付いたのだろうか、斎藤は一応の気遣いを見せた。
「あまり落ち込むな。危険な状態であることには変わりないが、持ち直す可能性は大いにあると聞いている」
「本当ですか?」
「ああ。山崎がそう言っていた。年の割によく鍛えられた身体だとな」
「……山崎、さん?」
「ああ。ここの医者だ」
その声は、山崎という男を信頼しているような声だった。千早は少しだけ胸を撫でおろす。
持ち直す可能性は大いにある――その言葉を信じてみようと思った。
――目的の部屋は、普段は使われていない部屋の様だった。屋敷の最も隅の人気のない場所。他の隊士たちの姿もない。
こんな場所に帝が? と、不安に思い始めてから次の角を左に曲がったところで、斎藤は足を止めた。そこにあるのは一つの障子戸。どうやら到着したようである。
斎藤は無言で戸を開けた。三畳程の狭い和室だ。千早が斎藤の後ろから中の様子を伺うと、帝はその部屋の真ん中の薄いせんべい布団の上にうつ伏せに寝かされていた。胴体にはぐるぐると何十にも包帯が巻かれ、掛け布団は傷に当たらないように腰の辺りで折り返されている。
「――帝!」
千早は思わず斎藤を押しのけ、帝に駆け寄った。腰を下ろすような場所も残されていない狭い部屋で、千早は帝の枕元に座り込んでその様子を伺う。瞼は固く閉じられ、意識はない。顔色も悪く、息は浅かった。それにどうやら熱もあるようで、額には大粒の脂汗が滲んでいる。
「……帝、ごめんね」
こんな帝の顔は見たことがない、と千早は思った。こんなに苦しそうな顔、見たことがない――と。
強がりで、頑なで、努力家で。何だって余裕でやってのけてしまう帝はいつだって眩しくて、どんなときも余裕があって。学校でも日常生活でも、例え試合中でさえ――彼は決して誰にも弱みを見せないのだ。勿論、私にも。
それが不満だったと言えば嘘になる。たまには帝の弱音を聞いてみたいと思っていた。少しくらい、辛い気持ちを吐き出してくれたらと思っていた。彼の泣き顔を見てみたいとさえ思っていた。けれど、こんな形を望んでいたわけではない。こんな姿を見たいと思っていたわけではない。
千早は帝の左手を取り、自らの両手で包み込んだ。そこに自分の額を付け、祈るように両目を閉じる。「神様、お願いします。帝をどうか助けて下さい」――と。
もしもこの願いが叶うのなら、これからは他の何も願いません。何一つ望みません。帝が元気になってくれれば、私はもう何もいりません。だからどうかお願いします。――彼女はそう祈り続ける。
斎藤はそんな千早の思い詰めた横顔を、部屋の入口に立ったままじっと見つめていた。そうして、そんな彼女の姿をとても不思議に思っていた。どうしてここまで相手のことを思えるのだろうかと。
――確か二人は駆け落ちするような間柄だと言っていた。ということはつまり、将来を誓いあった仲だということになる。けれど二人はまだ若い。婚姻を結ぶのに支障がない年齢とは言え、成熟した愛など知らないだろう。それなのに、何故ここまで――と。
確かに、もしも二人がこの時代に生まれ育っていたなら違っていただろう。駆け落ちとは言え、故郷には実家があり、家族があり、友人がいるからだ。けれど千早と帝は違うのである。彼らはこの時代では、本当に二人きり。知らない土地、知らない常識の中でたった一人で生きていくこと考えれば、相手を大切に思う気持ちは一層強くなるに決まっている。
だが、斎藤はそれを知る由もない。
「……斎藤、さん」
ふと、千早が呟いた。それはこの部屋に来てから、少なくとも四半刻が過ぎたころだった。
斎藤は千早の呼びかけにハッとして視線を上げる。どうも自分は物思いにふけってしまっていたらしい。
「私、どうしたらここに置いてもらえますか」
斎藤の返事を待たずに、千早は問う。その視線はいつの間にか、斎藤をじっと見つめていた。
「私達、行くところがないんです。こんな状態の帝を放りだされるのは困るんです。勿論、助けていただいたことには感謝しているし、それ以上を望むのはおこがましいこともわかっています。私達を助ける義理がないことも――」
それは嘘偽りのない表情だった。彼女の瞳に、迷いはない。
「何でもやります。出来ることは少ないけど、頑張って覚えます。掃除でも、洗濯でも――あまり自信はないですけど、でも、泣き言なんて絶対に言わないと約束します!」
「……それは」
「お願いします、教えて下さい、どうしたら私たちをここに置いて頂けますか?」
それは、あまりにも強引な願い。絶対に引き下がりはしないと、強い覚悟に裏付けされた言葉。
だが斎藤にはわかっていた。そんなこと、土方が絶対に許しはしないだろうと。日向はともかく、千早を保護する理由は何一つないのだから。
斎藤は、少しだけ考えたふりをした末、「無理だ」と答えようとした。だがその瞬間、どういう訳か昨夜のことが蘇る。千早や日向が不定浪士に襲われていたそのときのことを。
斎藤の脳裏に蘇る光景。その映像に、彼は思った。あのとき脇差を構えていたのは、もしや日向ではなく千早の方だったのでは――と。何故なら、千早が気を失った後に脇差を振り回していた日向の動きはてんで素人の構えだったからである。だが、不定浪士に立ち向かおうとしたときの構えはそうではなかった。
その時は暗がりで顔が見えなかったが、構えだけはいっぱしだと、斎藤は遠目から感心したものである。
それを思い出した斎藤は、今度こそ何かを考えるように目を細め、問う。
「佐倉、一つ尋ねる。君には剣の心得があるのか」
「――!」
瞬間、千早は思った。これは間違いなくチャンスだ。逃すわけにはいかない、と。
彼女は即答する。
「あります。剣道なら、それなりに」
斎藤は、やはりそうか、と思った。それならばなんとかなるかもしれない。
「わかった。君に機会をやろう。剣道でいい。俺から一本取ることが出来たら、君を隊士として迎え入れるように俺が局長に談判しよう。それでいいか?」
それは、斎藤にしてはとても積極的な提案だった。その証拠に、先ほどまで無表情であった彼の顔には微かに笑みが見て取れる。まぁ、そうは言っても唇の端が少々上へ向いているくらいであるが。
斎藤は続ける。
「だが、それは君を新選組の隊士として迎え入れるということを意味する。ここの掟はわかっているな。一度入ると出られない。逃げれば死罪。そしてそれは、この男の傷が治ろうとも変わらない。それでも、君は望むのか」
口数の少なかった斎藤が、やけに流暢にしゃべっている。これはもう、完全に千早に興味を持っている証拠だ。
千早は大きく頷いた。
「勿論です」
――だって、今私に出来ることはこれしかないのだから。
「よし。試合は明日一番に行う。場所は中庭だ」
「わかりました」
「局長には俺から話しておく。――俺はこれから予定があるからもう行くが……君は気が済んだら、勝手に部屋に戻っていい」
「え、一人で出歩いていいんですか?」
「ああ。君がそんな状態の恋人を置いて逃げ出すとは思えないからな。では、俺は行く」
そう言い残し、斎藤は部屋を出て行った。千早はそんな斎藤の背中に、深く頭を下げる。そして、必ず斎藤から一本取るのだと、強く強く決意するのだった。