第3話 宴(2)
「やっと戻ったね」
緑珠が戻ると、石崇は几にもたれた体をわずかに起こして言った。
「ごめんなさい」
しょげて謝る緑珠に、石崇は手に持った杯で向かいを示した。ほとんどの客が酔いつぶれて席順も何もなくなったそこへ勝手に席を設けて、客が一人、座っていた。
「お前、まだ血腥いぞ」
王敦である。緑珠はさきほど呼びに行った王敦がちゃんといることに一瞬顔を輝かせたが、そんな言葉を浴びせられて、自分の体をふんふんと嗅ぎ始めた。
「あら、まだ臭い? 蘭麝、たくさん使うように言ったのだけれど」
「臭くなんかないさ」
石崇が否定して、緑珠を手招きする。ひっつくように石崇のそばへ寄った緑珠の顎に手を添えて、軽く口を開けさせながら、
「でも、強い蘭麝にその香はいけない。吐きなさい」
石崇は顔を曇らせて言った。婢女の掲げる痰壺へ口に含んだ香を吹き吐く緑珠を横目に、王敦はまたにやつきながら、
「しかし、君、緑珠を酌に出すなんて、今日は随分と短気だったじゃないか?」
石崇は批判げに、
「それは君があまりにいけずだったからさ。五人はないよ、五人は」
「惜しくもないくせに」
「ははは」
哄笑して、石崇は酒を飲んだ。
「あれで俺が、緑珠の酌も受けずにいて、宦官が仕事をしようとしたら、君、あの宦官を殺したろう?」
「それはね」
「で、俺のこともただじゃおかまい?」
「さてね……」
石崇は、笑って答えないでいる。王敦も、喉で笑った。笑って、痰壺から顔を上げ口をすすいだ緑珠に向かって、
「お前も、なんでまっすぐ来るんだ。ちょっとは避けたらどうだ。やっぱりまだ臭いぞ」
緑珠は唇を少しとがらせて、
「だって、ご主人様が急げとおっしゃるんだもの。それに血腥いのは、きっとあなた様のほうよ」
「ちがいない」
笑って、石崇も同意した。王敦もにやついたまま、満更でもなさそうにいる。
「それに、」
「それに?」
「血なんかへっちゃらで気にもとめないような女のほうが、お好きでしょう?」
「こらこら、ほかの男に媚びを売るな」
石崇が腰を掴んで、緑珠をやや手荒く引き寄せた。緑珠はきゃあきゃあとわざとらしい悲鳴をあげて、笑顔で石崇に齧り付く。王敦は鼻で笑うと、
「お前、飽きられたら俺がもらってやってもいいぞ」
「いくら君でも、やらないよ」
「そうよ、そうよ」
全て戯れである。
子供のように無邪気で他愛なく戯れる石崇らに、一人、近づく者があった。輝かんばかりの貴公子である。
「やあ」
と親しげに声をかける貴公子あっては、貴公子の後ろにつづく、花茣蓙と几を持ってかしずく石崇の婢女も、見れたものではない。婢女が花茣蓙を敷き几を置き、急ごしらえした席へ泰然と腰を落とすと、貴公子、潘岳は、
「君たち、仲間はずれにするなんて、ひどいじゃないか」
と言葉だけへそを曲げた。
「いま呼びに行かせようとしていたんだよ」
「よく言う」
潘岳はへそを曲げた態度をふっと解いて、石崇にへばりつく緑珠へ微笑みかけると、
「やあ、緑珠」
「やめろ、やめろ。君も緑珠を籠絡する気か」
「君も?」
石崇の言葉にきょとんとした潘岳は、王敦を見て吹き出した。
「おい君、なぜ笑う」
「いやなに、失礼……」
王敦に凄まれて、なおも潘岳はひとしきり笑う。月がだんまりをよして笑い出してもこれほど美しくはあるまい、といった風情である。石崇も笑うのを振動として感じた緑珠は、その震えに合わせて笑っていたが、
「緑珠」
甘やかな声で石崇に呼ばれて、笑うのをやめた。石崇は緑珠を撫でて、
「笛を」
と言った。
(ああ、やっと)
石崇も興に乗ってきたらしい、と緑珠は安堵した。
「何を吹きましょう?」
「お前の好きなものを」
(相当、ご機嫌ね)
緑珠は石崇を観察しながら、嬉しそうに見えるように、笑ってみせた。常に傍に置いている子飼いの婢女を視線で呼び、笛を三管、すばやく出させると、緑珠は冷静に頭の中で曲を選び、奏でるにふさわしい笛を採った。
「では、」
笛を唇にあてると、三人分の視線が緑珠に突き刺さった。緑珠は息を吸い腹に力をこめ、覚悟が決まってから、最初の一条を吹き出した。
一拍。二拍。三拍の後に、
「素晴らしい」
と潘岳が評した。緑珠は音色に陰りの出ないよう細心の注意を払いながらも、胸をなで下ろした。王敦は杯を手で弄びながら聞いている風であり、潘岳は一言賞賛を発した後は黙って目を閉じ、聞き入っている。そんな二人の友を、石崇は眺めている。石崇は、王敦のことを同学のよしみとその精神性をもって友愛し、潘岳のことを芸術の才とその容貌をもって友愛していた。そして友たちの賞賛を引き出す緑珠のことを、石崇は愛情深く、この上なく満ち足りた顔で、見た。
緑珠も、目だけで心から笑い返した。
(よかった)
と思ったからである。
(殺されないで、よかった)
そう緑珠は思った。
別世界のごとき石崇たちから画然として、宴は後始末の段階を迎えていた。婢女や宦官たちは血を吹き死体を片付け、吐瀉物を吹き酔い潰れた客を介抱し、客の使用人を呼びつけて帰させる準備をしたりと、大わらわであった。大わらわであったが、後始末はできるだけ息を潜めて行われていた。主人の上機嫌を損ねないよう、みな必死だった。