第2話 宴
あの真珠、麻袋に詰められ玻璃の大椀に山と盛られたあの三斛の真珠が、しかし石崇にとっては端金であったことを、二十ばかりになった緑珠は、よく知っている。
石崇は、確かに大官で金持ちで放蕩であった。だがその度合いは、あまりに常軌を逸していた。石崇は法外な大金持ちであり、猟奇的なまでに放蕩だったのである。
その石崇が、宴を開いた。石崇の膝に頭を乗せて撫でられながら、緑珠はぼんやりしていた。ぼんやりとする緑珠の目の前で、同僚の婢女が、宦官に斬り殺されていた。宴に呼ばれた客が、酒を飲まなかったからである。
客の周りにはすでに、事切れた婢女が四人、転がっていた。石崇の宴に召し出される婢女であるから、どれも皆、並大抵の女ではない。黒く豊かな髷には鳳凰をかたどった金釵が鋭く煌めき、翠玉でできた逆さ龍の珮は、腰のあたりでやわらかく輝いている。絹の衣は染色も刺繍も目が覚めるほど鮮やかで、それでいて肌が透けて見えそうなほど薄く、繊細である。それらを纏った婢女の体は主人の好みにあわせて、白く、細く、軽く、顔立ちは当然のこととして、美しい。豪奢な装飾、丹念に手入れをされた肢体、そして恐怖に固まる美しかった顔、それらが四人分、血の池に沈んでいるのである。
血の池に、新たに五人目を沈めたところで、さしもの斬り殺し宦官も、凝脂のような白い顔を歪ませた。歪ませた拍子に、塗りたくった白粉が乾いた返り血とともにぽろりと剥がれ落ちたので、慌てて袖で顔を隠して控えの宦官と交代した。
客は、婢女の血の池の中心にできた、浮島のような絹縁の花茣蓙の上で、悠然と、胡座を組み、膝に頬杖をつき、たいして面白くもなさそうに、何事も起こっていないかのように、いる。
この客の名前は、王敦といった。王敦は宴が始まってから、まだ一滴も酒を飲んでいない。婢女の死体がまた一つ増えても、それでも飲もうとしない。六人目の婢女が、蒼白として王敦のそばにかしづいた。足に感じる血の生温さにぞっとして、婢女は酒壺を持つ手に万力をこめた。酌をして、またもや王敦が飲まなかったら、斬られるのは自分である。死の恐怖に、婢女は今にも気を失わんばかりであった。気を失わずにいられるのは、もしここで卒倒したら、不届きとして即座に殺されるからである。酌をして、そして今度こそはあの王敦も飲むかもしれない。その一抹の希望と生への執着が、婢女に気を保たせていた。
五度、王敦が杯の酒を、血の池へ捨てた。婢女は息をのみ、そして酒壺を傾けた。
そのときである。高いたまゆらの音を軽快に響かせながら、泥酔する客を避け、身軽に駆ける足で血の池を蹴り、血しぶきで薄絹の裳を汚し、足の裏を血で染めながら、婢女の五つの死体を跳びこえて、緑珠がやってきた。やって来た緑珠は愕然としている婢女から酒壺を奪い取ると、婢女を押しのけ、王敦にかしづいた。笑っていた。
王敦も、にやりと笑った。笑って、上座の石崇を見、改めて緑珠の笑顔を受けて、益々にやついた。
動転したのは、交代したばかりの斬り殺し宦官である。宴に呼ばれた客は、酒を飲まなければならない。飲まなければ、罰として酌をした婢女が斬り殺される。自分の眼前で、うら若く美しい乙女が無惨に斬り殺される、だから客は程度をこえてへべれけになるまで飲むのである。現に隣の席にいる王敦の従弟は、酒に弱いのを押して飲み、酔い潰れて床に突っ伏し、先ほどからぴくりとも動かないでいた。宴もたけなわ、もはやそういう客だらけである。これが石崇の宴であった。
しかし、酌をするのが石崇のもっとも寵愛する緑珠なれば――。王敦が飲めば、それでいい。しかし、飲まなかったならば。緑珠を斬るのか、斬って、よいものなのだろうか。緑珠を斬った自分こそ、殺されるのではないか。だが命に背き、背かぬまでも躊躇し、婢女を斬れなかった宦官が殺されるのを、幾度となく見てきたではないか。そんな無能な同輩たちを、何度かは処分したのも、自分だったではないか。だが石崇の緑珠を寵愛するところもまた、なのめならずといった様である。しかし……。
婢女につづいて、宦官が蒼白とした。直前に交代した自分の不運を、今頃は宦官専用の控えの間で入念に白粉を塗り直しているであろう同輩を、心底恨んだ。
緑珠が酌をし始めた。杯が満たされると、王敦はにやついたまま杯を持ち上げ、一瞬、血の池に酒を捨てるような素振りをした後で、飲んだ。
宦官はへなへなと尻から崩れ落ちた。緑珠はいたずらっけのある声をたてて笑い、王敦の耳へ口を寄せ、何事かをささやいた。王敦もまた低く、一度だけ笑うと、やおら立ち上がった。
「ねえ、お前」
命拾いした婢女へ向き直った緑珠は、もう笑っていなかった。
「そっちに行くから、足を拭いてよ」
婢女は狼狽した。
「え? ええ、でも、拭くものが、」
「そんなの、お前の服でいいわ」
言うが早いか、緑珠はびちゃびちゃと血の池を渡り、渡り終えると、
「ん」
と立ったまま片足を婢女に差し出した。婢女は袖だろうと裳だろうと何でも構わず、血塗れた緑珠の足を拭いてやるほかなかった。緑珠は片足立ちのまま揺らぐこともなく、暇そうにして、婢女が拭き終わるのを待っていた。
「ありがとう」
緑珠は礼を言って、また走り去っていった。その行き先は石崇の元へではなく、衣裳部屋らしかった。婢女は呆然とするしかなかった。