第1話 緑珠
緑珠は三斛の真珠のことをよく覚えている。それが緑珠の値段だった。
玻璃の深く大きな椀に、大粒の真珠がごろごろと無造作に盛られた。盛られた真珠の量は、三斗である。天女のような婢女が、それこそ真珠でできたようにきめ細かく白い美しい手で、しかしやけに無造作に三度、斗升で計ってみせたので、まちがいない。
緑珠はぼんやりと、山盛りの真珠をながめた。
(きれい)
とは思った。思ったが、別にそれ以上の感慨はなかった。腹が空いているから、椀に盛られるなら食べ物のほうがよかった。この真珠と玻璃の大椀があれば一生食い扶持には困らないとか、そういった知恵は、七つになったばかりの緑珠にはまだなかった。
だが緑珠の両親、家族、親戚、そして集められた邑の人々は、わけがちがった。玻璃椀と真珠と、あとはせいぜい婢女の細腕ぐらいしか見えていない緑珠とはちがって、彼らにはまた別のものが見えていた。
真珠は、三斗だけではない。その十倍の量、つまり三斛もの真珠が、麻袋三つに詰められ婢女のそばに転がされているのを、彼らは知っていた。そして玻璃の大椀に見本として三斗だけ真珠を盛り、稗や粟よりもなお無価値そうに三斛の真珠を麻袋に詰める、そんなことのできる金持ちの姿が、彼らには見えていた。
もっとも、その花顔を見せよと命じられ、ぽかんと座っている緑珠の後ろで拝跪する彼らに、金持ちの姿が実際に見えていたわけではない。彼らは金持ちの気配を見、その空気のかたまりに、こうべを垂れていたのである。神仏に相い対するときのように。
「十分か」
神仏のような金持ちはわかりきったことを、ただ示威のためだけに訊いた。金持ちの名は、石崇という。この南鄙の越の地で紗羅の衣纓を身につけているこの男は、当然この地の人間ではなく、都から遣わされた大官であった。しかも大金持ちで、放蕩であった。
「三斛で、」
石崇は鷹揚に、しかし、よく聞き今度は返事をせよと命じる圧を放ちながら、くり返した。
「十分か」
「はっ……」
緑珠の後ろに控える、両親か家族か親戚かあるいは邑の誰かが、辛うじてそんな声を出した。
石崇は、右に視線をやった。
(あっ)
誰かが緑珠の背に回って、肩を掴んで立たせた。人がいる、という気配を感じるよりも、ひたすら甘ったるい匂いがした。匂いのおばけに掴まれたような気がした緑珠は、恐怖して背後に現れた何者かを振り返った。
(男)
と思ったが、すぐに自信がなくなった。芬々たるそれは、男というには体毛が薄く、貧弱で、女のようにも見えた。
(つるつるしてる)
恐れの消えた緑珠は、好奇心の赴くままにじろじろとそれを見た。
(雨蛙みたい)
思ったら笑えてきたので、指さしてけらけら笑った。
指さされ笑われた男は、恐ろしくなった。
この男は股ぐらの古傷が、南の温潤な空気と長旅のせいか、勝手に開いてしまっていた。開くだけならまだしも、化膿してじゅくじゅくと膿が出て、ひどく臭かった。その臭さを、麝香を盛大にたきつけて必死に隠そうとしている若い宦官は、恐怖と痛みに耐えながら緑珠を牛車に押し込んだ。醜さに容赦のない石崇が己の腐臭に気づかないことを、そしてこの見た目の美しさだけが取り柄であるガキが臭いと騒ぎださないことを、ひたすら祈っていた。
牛車に押しこまれる直前、緑珠は異様な騒々しさを聞いて、振り返った。見えたのは、やわらかな白い光の奔流である。そしてそれに群がる人間たちである。緑珠の両親も、家族も、親戚も、そして邑人たちも、玻璃の大椀に、三斗の真珠に、そして麻袋に詰められた三斛の真珠に、殺到していた。麻袋から解放された三斛もの真珠は、人々の黒山の隙間からこぼれ落ち、高い山岳の谷間を流れる水流のように、しかし水流とはちがって白く、輝いていた。
(いいなあ)
と緑珠は思った。三斛の真珠を、いいなと思った。それは緑珠が今まで見たなかで、一等きれいなものだったからである。三斗だったときにはさして感動もしなかったのに、その量が三斛になった途端、緑珠は圧倒されてしまった。美しさを、量をもって測っていた。緑珠にもまた、放蕩の才能があったのである。
あのとき流れた三斛の真珠は、緑珠にとって美しい景色として目に焼き付いた。魅せられた緑珠には、両親や家族や親戚や邑人たちで構成される人間のことなど、もうそれきり、目に入らなくなってしまった。




