7.
翌朝、カーテン越しの朝日が目にあたり、イリヤムは目を覚ました。そして、鼻をくすぐるいい匂いに釣られて、ふらふらと部屋を出て、一階の食堂へ降りていく。
すでに起きていたステラが香辛料をふった目玉焼きトーストを食べていた。
「うまそーだな。カーターのとっつぁん、おれにもベーコンのやつ一枚」
「その前に着替えてきな」
イリヤムは眠気の取れない体で、のろくさと部屋に戻り、飛行服に着替えて、ゴーグルを手に食堂へ戻った。ベーコン入り目玉焼きトーストはカカオブラウンで縁取った白い皿の上に乗っかって、イリヤムを待っていた。グラスにはオレンジジュース。
トーストにかじりつくと、ベーコンを噛み切るべく歯を食いしばる。一噛みでベーコンが目玉焼きから剥がれることがイリヤムには気に食わなかった。ベーコンと目玉焼きとトーストを常に一度で味わうように食べるのが彼なりのこだわりだった。
カーター親爺はエプロンのポケットに手を突っ込み、外のポーチから空を仰ぎ見ていた。
「どうも気にいらん」
カーター親爺は食堂に戻るなり、そうこぼした。
「何が気に食わないんだい?」
「島が西に流され過ぎてる。妙な風が吹いてるんだよ。この時期に、この場所で、こんなに東風が吹くことはありえない」
「島の曳航サービスに頼まなきゃいけないくらいかい?」
「そうだが……どうもおかしいんだよ、今の風は」
カーター親爺は厨房のスイングドアを開けて、ジャムやお茶の葉が入った陶器の入れ物が並んだ棚の前に立って、コーヒー豆の在庫を調べ始めた。
轟音とともに島が大きく揺れたのは、イリヤムがオレンジジュースのグラスを手に取ろうとした瞬間だった。床が液体のように左右に揺れてイリヤムは椅子から転げ落ち、グラスが倒れてオレンジジュースがテーブルクロスの上に広がって吸い込まれていった。
イリヤムは外に駆け出て、雑木林のほうを見た。黒煙が上がっている。その遙か向こう、約一五〇〇メートルの位置に小さな黒い点がいくつか見える。点の一つがピカッと光り、ヒューンと風を切る音がしたので、イリヤムは咄嗟にその場に伏せた。砲弾が宿屋の先、五十メートルの位置に落ちた。爆音とともに黒い土と赤い炎が巻き上がった。燃えた土がイリヤムの頭上をかすめ飛んで、宿屋正面の窓ガラスが衝撃で割れた。
イリヤムはステラのことを思い出した。すぐに食堂に戻ると、ステラも床に伏せて、真横から殴りつけるように飛んできたガラス片をよけていた。
「何が起きたんですか?」
ステラの問いに、イリヤムは、
「空賊だ。風を変えたのもたぶん連中だ」
スイングドアを開けて、カーター親爺の無事を確かめた。
カーター親爺は二人ほどの運にめぐまれなかった。下半身が倒れてきた棚の下敷きになっていた。
「ステラ、手伝ってくれ!」
二人がかりで棚を持ち上げているあいだに、カーター親爺は自力で棚の下から這い出てきた。カーター親爺は呻るように言った。
「骨は折れてないようだ」
イリヤムが言った。
「敵は空賊でたぶん母艦と戦闘機で襲ってくる。とっつぁん、飛べるかい?」
「無理だ。足をくじいた。これじゃペダルが踏めん」
「つーことは……」
おれ一機か。
イリヤムは点の数を思い出そうとした。
大きな点が一つ、小さな点が四つ。
対空砲を装備した飛行船と四機の戦闘艇を自分一機で相手にしなければいけない。
「ステラ、とっつぁんと地下室に隠れてろ」
「イリヤムは?」
「なんとか飛んでみる」
イリヤムはそう言いながら、外に走り出ていた。
敵が宿屋の頭上を飛ぶようになったら、離水できなくなる。湖に無防備に浮かぶラグタイムはいい的になるだろう。敵は多すぎるが、かといってまごまごしていたら、わずかな逆転のチャンスまでも失うことになる。
桟橋までやってくると、もやい綱をほどいて、艇に乗り、焦る心を抑えつつ、いつもどおり混合気を調整して、エンジンを始動させた。
砲弾が湖に落ちて、派手に水しぶきをかけてきたが、プロペラはそんな水を四散させるくらいに回転速度を上げている。
離水し、左に旋回しながら敵機を探すと、案の定四機が見つかった。乗っているのは人間ではなく、ゴブリンだ。
四機の敵と向かい合う形で突っ込む。銃弾がひゅんひゅんと飛んでくるが、気にせずスロットルレバーを全開、扉をバールでこじ開けるような感じで操縦桿を握って左後ろへ倒し、左の方向舵ペダルを思いっきり踏み込む。
上方へ向かいながら、ラグタイムは危険なくらい短い半径で一八〇度左旋回し、あっという間に四機のゴブリン編隊の後ろについた。
イリヤムを見失ってまごついているあいだに真後ろにまわって、照準鏡の十字線で一機を捉え、発射レバーを引く。
ラグタイムが震動して、弾丸が赤い光を引きながら、ゴブリン機を尾翼、胴体、エンジン、操縦席の順にズタズタに切り裂いた。
ゴブリン機が墜落するのを見る間もなく、次の一機にかかろうとする。
カンが働く。
操縦席から顔を出し、右下を見ると、複座式のゴブリン機がイリヤムにぴったりと付き、機銃手が下からラグタイムを蜂の巣にするところだった。操縦桿を左前に押し込み、緊急回避。弾はすぐ右上わずか一メートルの位置を飛んできた。
「高度を失うのは辛いけど、死ぬよりゃマシだな」
左に旋回し高度を落としながら、カーターの島の上を横切るようにして飛ぶ。一度、島の後ろに隠れて、勝負を仕切り直す。
エンジンがゴロゴロと不穏な音を立てる。うまく燃料を食えてない。一秒で計器を確認。油圧、エンジン回転数ともに影響なし。
浮遊島の下を右へ旋回。考える――敵は雑木林側から攻めてきた。敵も仕切り直すとしたら、飛行船のそばで編隊を組みなおそうとするだろう。だが、まごつき湖側でぐずぐずしているやつがいるかもしれない。
ヤマを張って、湖側のほうへ出る。
いた。敵の飛行船へ――西へ機首を向けている。
島の下から銃撃しながら、急上昇する。もし燃料が引力に負けてピストンのなかへ吸い込まれなかったら、機はスピードを失って操縦不能の錐揉み落下。だが、イリヤムはラグタイムの二枚の翼とエンジンを信じた。
数秒後にはラグタイムは空高く舞い上がり、ゴブリン機が一機火を噴きながら落下していた。
残りのゴブリン機は?
見つからない。左へ旋回しながら操縦席からあちこちを見る。
「どこに行きやがった?」
二機が雲のなかから現われて、イリヤムは危うく十字砲火の餌食になるところだった。せっかく稼いだ高度をまた失うはめになる。
一機は単葉機。一機は複葉の複座式。
合計三丁の機関砲。そして、遠くにはゴブリン空賊の飛行船。
代わる代わる銃撃を繰り返す敵に対して、いつのまにかイリヤムは防戦一方になっていた。右に左に旋回を繰り返し、少しずつだが、海面へと追いつめられている。
なんとか敵の銃火の隙間を狙って飛び抜けて、浮遊島の上百メートルの高さの層に飛び込むが、敵機はしつこくイリヤムを追い回す。イリヤムは敵の照準鏡に入らないよう機を上下左右に揺り動かす。
単葉機をどうしても振り払えない。
「くそっ、複座のやつさえいなけりゃ――っ!」
銃弾が翼に二発当たり穴が空く。
相手は完全な連携でイリヤムを追いつめていた。後は海に追いつめて墜とすか、急上昇で勢いを失った瞬間に複座式の機銃で下から上へ撃ち抜くかの問題だった。