Epilogue
ラグタイムを海原に浮かばせながら、イリヤムはフロートの上にまたがって、釣り竿を振り出していた。
賞金首のゴブリン強盗団を探して、あちこち飛んだが、それも空振りに終わった。
イリヤムは腕時計を見た。午後二時を少しまわったところだった。
やさぐれるにはまだはやい時間だが、不貞腐れて釣りをするなら、まあ、適当な時間だ。
空はこんなに青くてどうすんだ、と思うくらい真っ青で、そこにあるものは雲と島、ときどき複葉旅客艇が観光客を温泉のある島へ運んでいくのが見えるくらいだった。
「ふああぁ」
イリヤムは大きく欠伸した。
あれから一ヶ月か。
イリヤムたちは世界を救ったが、そのことは誰も知らない。少なくとも大人たちは。
サヴォイはあの日の戦いについて説明しようとしたが、他の騎士たちに鼻で笑われたらしい。サヴォイは片っ端から決闘を仕掛けようとして、マリンにどつかれたらしい。マリンから聞いた話だ。
セント・エクスペリー荘のみんなは世界が救われた戦いのことを信じた。それはセント・エクスペリー荘のみんなが大人よりも純な心を持っているからというより、頭の構造のおめでたさからきていた。
それと新しく入居人があるかもしれない。ハンザ・フォン・ブランデンブルクだ。長いこと逃亡していたワールシュタット博士が逮捕されて刑務所入りした次の日、たまたまライトで出くわしたのだが、どうも後を尾行して、ばったり出会った感を作ったらしい。セント・エクスペリー荘に空きがあるのかたずねてきた。本人は王国陸軍情報部が資料を作っていないから、そのために入居するのだと説明した。つまり、もしかしたら謎多きセント・エクスペリー荘に王国の根幹を揺るがす危険分子がいるかもしれない。王国の安全を陰で守る黒翼の騎士として、それは見過ごせないというらしい。
とはいうが、セント・エクスペリー荘に『王国の根幹を揺るがす危険分子』なんていないし、いたとしても、せいぜい腹を空かした鍛冶屋たちくらいのものだ。
ひょっとすると、友達とか仲間とかに飢えている可能性がある。
ハンザからは、いかにもこれまで一人で生きていました感が態度や言葉に現れている。
クリスは相変わらず、性の境界があいまいなきわどい綱渡りをし、ヴィルとカプロニとアレクはまたアルバイト生活。イラストレイテッド・セント・エクスペリー・ニュースは週一回発行されている。
そして、マリンの親父さんはまたダイエットに失敗した。
つまり、日常が戻ってきた。
「日常が戻ったのは結構だが、稼げないのは参ったもんだ」
イリヤムは釣り竿を固定すると、フロートの上に横になった。
ステラは消えてしまったが、その思い出は消えなかった。記録クリスタルも残っている。
あのなかにはステラの全てが詰まっている。ただ、今の魔法技術では再生できないそうだ。
「こりゃ、再生技術が開発されるまで死ねないな」
ステラと初めて会ったときもこんな感じだった。
こんな感じの青空で暇していたら、あんなふうに空にヒビが入って――。
ヒビ?
イリヤムは跳び起きた。
まずヒビが入り、続いて空が割れた。
信じられないが割れたのだ!
空をガラスみたいに割るテクノロジーについて、そして、そこから飛び出したトビウオ型の飛行機について、イリヤムが知らないことは多い。時空転移装置なんて知らないし、合成魔法合金をつかった飛行艇設計なんてのも知らない。
それ以外にもイリヤムが知らないことはたくさんあった。
ステラの残した記憶が三十年後に全て再生されたこと。
そして未来の人々がそれなりの義理堅かったこと。
そして、世界を破滅から救った少年に対して何らかの借りを返すべきだと思ったこと。
そして、結晶の記憶を元にステラを復活させたこと。
知らないことはたくさんある。
だが、イリヤムに大切なのは目の前で上がった水柱だった。
舞い上がった水しぶきが落ちて海面を叩くまでのわずかな時間にイリヤムは奇跡的な素早さで、ラグタイムのフロートから立ち上がり、上着を脱ぎ捨てて大きく息を吸い込みながらフロートを蹴り、そろえた両手から滑り込むように海に飛び込んだ。
最初は細かい泡に視界を遮られた。
泡が散ると、不思議な飛行機が銀色のイルカが海底目指して潜ろうとするようにどんどん沈んでいくのが見えた。
その操縦席では銀色のショートヘアの少女が自分で操縦席から抜け出していた。
水のなかで二人は手をつないだ。
二人の目が合う。
うれしさに表情が緩む。
それがいっぱいの笑顔になるまで時間はかからない。
二人は手をつないだまま、頭上に広がる陽光きらめく水面目指して、水を蹴った。
【Fin】




