4.
東南東の風。風速十キロ、視界二・二キロ、天気は晴れ。
天球にかかる夕暮れ時の杏色の空に、薄い菫色の影を差した朱の雲が浮かんでいる。
沈む陽光へと引きずられがちな機体を方向舵で維持しながら、コンパスに従ってまっすぐ針路を取る。
イリヤムはいつもジュエリス王国の王都ライトに暮らし、そこで仕事を得て、あちこちに出かける。だが、今日中にライトに着くことはできそうにないので、飛行艇乗り御用達のカーターの宿屋に泊まり、明日の正午にライトの艇港に到着すればいい。
カーターの宿屋があるのは宿屋が一軒あるだけの小さな浮遊島だが、離着水にお誂え向きの湖があるし、カーターはもともと腕のいい賞金稼ぎだった。貯めた金で宿屋ごと島を買い取って、悠々自適の隠居暮らしをしているのだが、今でも飛行艇に対しては愛着があって、いつでも飛ばせるように整備した戦闘用飛行艇がボート小屋のなかにしまってある。
東の水平線から紫色の空が滲み始め、うっすらと一番星が姿を見せ始めている。空のあちこちに漂う浮遊島でも町の灯が点り始めた。
目指すカーターの宿屋が見えたころには午後六時、太陽は沈み、残照が雲の底に投げかける薄紅色の光だけが名残惜しげにしがみついている。
イリヤムは言霊結晶で作られた通信装置のスイッチを入れ、目盛りを相手の通信装置の周波数に合わせた。
〈カーターの宿屋、カーターの宿屋。こちら、飛行艇ラグタイム。応答せよ、どうぞ〉
イリヤムが首に巻いた発信装置を押さえ、相手の反応を待つ。
雑音がしばらく混じった後、返信がやってきた。
〈こちらカーターの宿屋。どうぞ〉
〈貴官の艇港への着水と宿泊が可能かを知らせてほしい。どうぞ〉
〈(ザー)着陸と宿泊はどちらも可能。どうぞ〉
前の助手席に乗っているステラが振り向いた。口にこそ出さないが、期待に輝く眼が言葉以上に物を言っている。
イリヤムは苦笑しながら、
〈そちらの晩飯はなんであるか、リンゴジュースの在庫があるかどうか教えて欲しい。どうぞ〉
〈晩飯はひき肉とアスパラガスのスパゲッティ、じゃがいも入り香草オムレツ、サラダ。リンゴジュースの在庫は十分にあり。どうぞ〉
〈了解した。これより着水する〉
エンジンの回転数を徐々に落としながら、機首を下げて、暮れかけのほんのり赤い空を映した湖へと向かう。
時速一二〇キロ。徐々に機は高度を失っていく。
回転数が四五〇を切ったところでその回転数を維持しながら、操縦桿をゆっくり引きあげる。
高度三〇メートルでエンジンを切り、機が水平になったところで、滑り込むようにしての着水をイメージする。
フロートと機体が水面を叩く。
機が反動で浮き上がる。
悪くない。操縦桿をしっかりと握り、機首を真っ直ぐに保つ。
風防ガラスに取り付けた真鍮製の照準器の向こうにはカーターの宿屋と飛行艇用の桟橋がある。
あったかい食事とふかふかのベッド、熱い風呂に入りたいのなら、エンジンの回転数はさらに下がり、プロペラの回転を狂ったハチドリから風の強い日の風車くらいにまで下げてやる。
また機体が水面を叩く。
今度は跳ね返らない。
飛行艇は汽船になった。速度はどんどん死んでいき、顔にぶつかるあの強い風も、上昇気流に乗ったときの、あの高揚感――まるで空の息子になったような感覚!――もなくなった。
でも、それがどうした? あそこではカーター親爺がひき肉とアスパラガスのスパゲッティ、じゃがいも入り香草オムレツ、サラダ。それにリンゴジュースを用意して待っている。
桟橋にはカーター親爺が待っていて、格子縞のエプロンのポケットに手を突っ込んでいた。
エンジンのスイッチがオフに倒れ、燃料バルブが閉じられていることを確認し、慣性の力でゆっくりと桟橋に近づく。
翼が桟橋をまたぐようにして接岸すると、カーター親爺がラグタイムの翼を押さえる。
「久しぶり、カーターのとっつぁん」
イリヤムが挨拶をすると、カーターはポケットから出した手で鬚をひねりあげた。
「イリヤムか。そっちのお嬢さんは?」
「ステラってんだ。まあ、ワケあって一緒にいる」
「へえ、ガールフレンドか?」
「そんなんじゃないって」
「ま、いいや。ちょうどメシだ。客はお前さんたちだけだから、もう始めちまってもかまわないだろ?」
カーターがのしのしと自分の宿屋の厨房につながる裏口へゆくのを見ながら、ステラがたずねた。
「ガールフレンドってなんですか?」
「え? ガールフレンドってのは女友達ってことだよ」
「じゃあ、わたしはイリヤムの友達にはなれないんですね」
目を伏せるステラにイリヤムはどぎまぎしながら、
「あ、えっと、いや、そんなことないよ。ただ、ほら、あのおっさんにガールフレンドかって聞かれて、ハイ左様でございますって答えたら、絶対笑い物にされるだろ?」
「わたしもいつかイリヤムのガールフレンドになれるでしょうか?」
「安心しろ。もうなってるようなもんだ」
「ほんとうですか?」
「ああ。ほんとうだ」
厨房の裏口から肩幅の広いカーターの体がぬっと現れ、
「さあ、メシだぞ。早く来い。メシが熱いうちにな」
と呼びかけた。
イリヤムの後ろをついていくステラはどこか嬉しげだった。