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空のステラ  作者: 実茂 譲
5.伝説の飛行士
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40.

 そこは一秒と真っ直ぐ飛んでいられない世界だ。

 ロンチェスター島の内部。工場がつくった立体迷路のなかだ。

 〇・五秒ごとに操縦桿を倒す。

 左旋回。

 右旋回。

 竜炎樹の実が火花を散らせる感覚が操縦桿を通じて伝わってくる。

 旋回性能では竜の翼のほうが数段勝る。

 にもかかわらず、旋回につぐ旋回が要求される工場迷路に突っ込んだ。

 集合住宅と荷下ろし場のつくる巨大アーケードのなか。

 翼がかするくらいの飛行とターンを繰り返す。

 上下左右を確かめている暇はない。

 一度でも判断を誤れば、ラグタイムは建物に突っ込みバラバラに吹き飛ぶ。

 操縦桿を押し倒す。

 ぐうんと直角に下降。回転数が一六〇〇に上がる。

 轟音。

 ラグタイムを捉え損ねた火球が娯楽施設にぶつかった。

 遊具機械とニッケル貨の雨が降る。

 イリヤムは煌くコインに視線を盗まれそうになるが、寸でのところで機首を上げ、操縦桿と方向舵の早業で水平に戻る。

 スロットマシンと回転木馬は倉庫の屋根に大きな音を立てて落ちていった。

 一息つく間もなく、また曲がる。

 熱と光が常に後ろからやってくる。

 三つの小さな太陽に追いかけられているようなものだ。

 イビル・ティアマットはあちこちにぶつかりながら追いかけてくる。

 ラグタイムが何かの影に入った。

 咄嗟に方向舵を踏みながら操縦桿を左へ。

 巨大なコンクリートの塊が落ちてきた。

 魔竜は火球をラグタイムではなく、周囲の建物にあてて、破片で押し潰そうとしている。

「上等だ、クソトカゲ!」

 縦穴を急上昇。幅は八十メートルほど。

 魔竜の息吹が、気配が徐々に迫る。

 吹き抜けた目の前に蒸気機関車が止まったままの鉄橋が現れる。

 クソ落ち着きに落ち着いて、狙う。

 照準鏡の十字線を橋の梁にピタリと合わせる。

 残りの弾丸を全弾撃ち込んだ。

 赤く錆び切った梁が吹き飛ぶ。

 グウオオオウン!

 橋桁が唸りながら、下へ折れ曲がり、悲鳴を上げ、レールの上の機関車と石炭車と貨物車を真っ直ぐ下に落とす。

 ラグタイムは三六〇度の右ロールをしながら、機関車を避ける。横道に入る。

 危険を承知で振り返った。

 機関車はみごとぶつかり、魔竜を道連れに穴の底へ落ちていった。

「ざまあみろ!」

 ラグタイムは高層労働者街のあいだにできた裂け目を飛んでいる。

 エンジンの排気口から薄っすら火花が見えるほど薄暗い。

 張り渡されたバーや雑貨店の看板が上に、下に飛び過ぎていく。

 背後の縦穴は火柱が上がっていた。

 ラグタイムの影は労働者区域の大通りに落ちている。

 煉瓦の道がぐうっと盛り上がった。

 裂け目から太陽のようの眩い光が漏れ、熱で溶けた数千の煉瓦が噴き出した。

 炎が噴火口で渦巻いている。

 その真ん中――イビル・ティアマットがいる。

 二つの首は生気を失って、だらりと垂れている。

 最後の頭はあぎとに炎を貯めている。

 労働者街が行き止まりにぶつかる。

 渾身の力を込めて、操縦桿を引き倒す。

 急上昇。

 出口が見える。

 工場の鉄骨で四角く切られた青空が。

 架脚の上、エンジンの音が変質する。

 百回近い急旋回と乱高下を繰り返し、最後の急上昇でエンジンが息切れしたのだ。

 回転数が下がっている。

 一五〇〇。

 一四五〇。

 一四〇〇。

 一気に一三〇〇。

 あそこまで行けば。

 四角い青い窓が大きく広がっている。

 一一〇〇。

 一〇〇〇。

 九〇〇。

 速度が落ちる。

 シリンダーが、エンジンが、機体が喘鳴している。

 憎悪の塊をぶつけられたような背筋の凍る感覚に襲われ、肩越しに振り返った。

 尾翼の左にイビル・ティアマットの頭があった。

 六つの目玉。口のなかで輝く火の玉が牙をあぶり、鱗は鍛冶屋の剣のように赤く輝いている。

 父さんを焼いた炎はこの上なく美しかった。

 アップルワインの壜越しに見た夕日のようにきれいだ。

 父さんはこんなふうに夕日がきれいな日、一日の飛行を思い出しながら、ゆっくりポーチに座り、アップルワインを飲むのが好きだった。

 魔竜のあぎとに飼われた煌きの向こうに父さんがいる。

 操縦桿を握る力が緩みかけたそのとき、音をきいた。

 軽快なエンジン音をきいた。

 前を向く、空を見上げる。

 不調から持ち直したステラ・マリスが円を描いて飛んでいた。その翼につくフロートは珊瑚砂のような色合いをしている。

「きれいだ」

 そうつぶやくなり、イリヤムは革製のホルスターを膝で押さえ、リヴォルヴァーを抜いた。

 もう一度振り返った。

 そして、イビル・ティアマットの顎のなかにたまった炎の玉に四五口径弾を撃ち込んだ。

 炎が一回り小さくなった。

 もう一発撃つ。

 弾丸をぶち込むごとに、炎はどんどん喉へ押し込まれている。

 最後の一発を撃ち込んだ瞬間、魔竜は己が炎をまた飲み込んだ。

 町を焼き払い、艇を墜とし、海を沸騰させる炎が鋼の鱗に包まれた体のなかで肉を焼き、内臓を焼き、最後の命の一かけらを焼き尽くす。

 真っ赤な熾火の殻となった魔竜は金臭い煤を吐きながら、闇の深い工場迷路の奥底へと墜ちていった。

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