3.
料理屋の入口に黒板が立てかけてあって、今日のおすすめに『チキンとアーティチョークのソテー』とあった。
料理屋は人でごった返していた。島内のダンジョンを探索する冒険者の一行や飛行艇乗りが仲間同士で、焼いた肉にかぶりついたり、葡萄酒をあおったり、食後のカード遊びを楽しんでいる。
イリヤムと少女はカウンターに席を取った。
イリヤムはカウンターと調理場を忙しく行き来する女将を呼びとめ、丸パン一籠、今日のおすすめを二人前、ハーブ入りの岩塩とチーズソースをたっぷりかけたサラダを一盛り、それにリンゴジュースを二杯頼んだ。
料理が届くと、イリヤムはチキンとアーティチョークを一口大に切り、フォークで差しては口に突っ込み、よく噛んで飲み込み、ちぎったパンで肉汁をぬぐい、口のなかに詰め込む。
「で」
と、イリヤムは言い、
「わかってることをまとめよう」
そう言いながら、イリヤムは少女のナイフとフォークを取り、少女のチキンとアーティチョークを一口大に切り、右手にフォークを押しつけた。
「まず、ナイフとフォークの使い方がわからない」
「はい」
「でも、どこかに行かなきゃいけない。それだけは覚えている」
「はい。わたし、行かなくちゃいけないんです」
「でも、どこに行くのか、行ったらどうなるか、行かなかったらどうなるか。これがわからない」
「行かなかったら大変なことになります」
「おっ。一つわかってきたな。その調子だ。次にきみが着てたあの飛行服。古着屋のおっちゃんはこんな生地見たことがないって言ってた。凄く伸び縮みして切れにくい。服に仕立て屋の名前でも入ってりゃよかったんだけど、記されているのは『X―1544』って番号だけ」
「はい」
「おれが見たときのことを思い出そう」
イリヤムはチキンとアーティチョークを一度に串刺しにして、口に運び、飲み込んでから続けた。
「まず空が割れた。ガラスみたいにな。そこからきみの飛行機が飛び出てきた。これまで一度も見たことのない飛行機だ。まるで飛び魚みたいで、驚いたことにプロペラがなかった。だが、これから判断するなら、きみは飛行機の操縦ができることになる。どうだ?」
「わかりません。操縦できるかどうか……」
「飛行機は火を噴いて海に墜落した。つまり、誰かと戦って撃墜されたってことだ。誰と戦ってたかわからないか?」
「ごめんなさい。それもわかりません」
少女はうつむいた。
イリヤムは肩をすくめた。
「別に謝ることじゃないさ。世の中には記憶喪失になってないのに手前でやってることが分からなくなるやつだっているんだ。それよりはマシってもんさ。さて、おれの見たことの続きだが、割れたはずの空は何事もなかったように普通の空になっていた――なんだ、まだ全然食べてないじゃないか。ほら、食っちゃえよ。ここのチキン、スゲーうまいぞ」
少女はフォークを固く握ると、恐る恐るチキンにフォークを刺した(ひょっとすると、生まれて初めてチキンソテーを見るのかもしれない)。そして、それを口に運び、ゆっくりと噛む。
「お――」
少女が口を押さえて、言葉を漏らす。
「お?」
「おいしい!」
そして、少女はイリヤムが切ったチキンソテーを全てパクパクと食べてしまった。
「一つわかったな。きみはこれまでチキンソテーを食べたことがなくて、しかも、きみがいた場所はうまいチキンソテーが存在しないひどい場所だってことだ――おかわり、頼むか?」
少女はそうきかれて、恥ずかしそうに顔を赤くした。イリヤムはチキンソテーをもう一枚注文した。
「次はリンゴジュースだ。飲んでみ?」
少女はリンゴジュースに手を伸ばし、少しだけ口をつけた。そのまま半分くらいゴクゴクと飲み、コップを下ろした。
「うまいか?」
少女は夢中でうなずいた。
「つまり、チキンソテーもリンゴジュースもない場所からやってきたってことか。ひでーところだな、そこは。いったい何食って生きてるんだ? こりゃ意外と帰らないほうが幸せかもな」
「でも、わたし、行かなきゃいけないんです」
「わかった、わかった。それを突き止めるのが目下の問題だな」
「…………」
「そう、深刻になるなって。記憶が戻るのを手伝ってやるから」
「あの……」
「ん?」
「どうして、ロメッツさんはわたしにそこまでしてくれるんですか?」
「イリヤムでいい。それとおれがきみのためにそこまでするのは、おれってやつは手前でもどうしようもないほどおせっかいな野郎だからだ。これで十分だろ?」
「よくわかりません」
「おれの尊敬してる人なら、記憶を失った女の子を一人ぼっちにしたりしない」
「尊敬している人?」
「そっ。そっちにもいたんじゃないか。尊敬してる人が」
「そう……かもしれません。いたような気がします」
「おおっと、いい感じだ。一つずつわかったことが積み重なってる。その調子だ」
少女が少し笑った。
「やっと笑ってくれたな」
「不思議です。イリヤムに誉められるととてもうれしくなります」
「そいつぁよかった。ところでおれはきみをなんて呼べばいいかな? 名前は思い出せなくても、まあ、思い出すまでのあいだの仮の名前をつけないか?」
「仮の名前――」
「そう。どんなもんでもいいからさ」
少女はそう聞いて、少し考えるようにうつむいて、それから店のなかを見回した。そして、一枚の貼り紙を見て、
「ステラ……」
と、つぶやいた。
振り返って貼り紙を見る。それは町の小さな劇場でかかる市民演劇の知らせで紺色の紙に白い星が五つほど散っていて、白い字で書かれた題目にはこうあった。
『空のステラ』
「ステラか」
イリヤムは響きや聞こえ具合をじっくり確かめるようにした、またステラと口に出した。
「うん。いい名前だ」
「ほんとうですか?」
「ああ。星って意味の言葉だ」
「星、ですか」
「そ。星」
「もう一度、ステラって呼んでみてくれませんか?」
「なんで?」
ステラは恥ずかしそうに笑った。
イリヤムも釣られて笑った。
そのとき料理屋の表から騒々しい一団が入ってきて、イリヤムがつぶやいたステラは鎧と盾がぶつかり合い、下品な大声で給仕娘を呼ぶ声にかき消された。
ゴードン兄弟――あちこちの島でダンジョンを探索している冒険者一味だ。彼らはダンジョンに潜るのに、魔法使いや薬草師を連れて行かない。罠の仕掛けてある宝箱やガスのような実体のないモンスターでも物理的な方法で解決してしまう。つまり、彼らが持っている剣や棍棒で叩き潰すのだ。その単細胞ぶりは同業者のあいだでは周知のことで、イリヤムのような畑違いの飛行艇乗りにまで知られていた。
「やっとツキがまわってきたぜ」
鬚面の大男、長兄のバーソロミューが言った。
「今日の探索でしめて百五十ルクの儲けだ。ここにいるやつ全員に一杯おごってやるぞ!」
バーソロミュー・ゴードンを讃える声や指笛が鳴り響き、すぐに琥珀色のウイスキーがその場にいた客たちに配られた。
グラスはイリヤムとステラの前にも置かれて、指二本分の高さまでウイスキーが注がれた。
乾杯! バーソロミュー・ゴードンがグラスを上げると、ご機嫌な客たちもそれに続いた。めいめいが礼儀としてグラスを飲み干した。それを満足げに見ていたバーソロミュー・ゴードンだったが、すぐに彼の機嫌に暗雲が立ち込めた。二つのグラスにウイスキーがちっとも減らずにそのままにされていたのだ。
このバーソロミュー・ゴードンさまの好意にケツを向けて突き出すようなマネをしやがった礼儀知らずどもがいやがる。
「おい!」バーソロミュー・ゴードンが怒鳴った。「なんで、てめえらの酒は減ってねえんだ? おれの酒が飲めねえってのか?」
イリヤムは面倒なことになったと思いながら、バーソロミュー・ゴードンを怒らせないよう注意して、自分はまだ十六で、酒に飲みなれていないこと、これから艇を飛ばして、カーターの宿屋のある島まで行かないといけないから酒は飲みたくないことを丁寧に説明した。
「そういうわけで飲めないんだ。別にあんたをコケにしようとか、そんなつもりは毛頭ない」
ゴードン兄弟の弟の一人(アイザックかハロルドかクウェンティンだか分からないが歯並びの悪い痩せっぽち)が横から口を入れた。
「気取ってんじゃねえよ、ガキ。兄貴、こいつはゲンが悪りいや。おれたちのせっかくのツキもこいつのせいで落ちちまう」
「そいつは大変だ。おい、ガキ。どうしてもおれの酒が飲めねえなら、三べんまわってワンって鳴けよ。そうしたら許してやる」
「いやだ」
料理屋の空気が急に冷え込んだ。誰も言葉を発せず、バーソロミュー・ゴードンを見る。鬚に隠れた口のなかで歯軋りし、こめかみには海老の背わたみたいな汚い緑色の血管が浮き出ている。全身の血が沸騰して、顔が茹でたロブスターのようにどんどん赤くなっていく。
「ステラ。離れてろ」
イリヤムは肩越しに振り返り、小さな声で言った。
バーソロミュー・ゴードンは大男だ。身長は二メートルはあるだろう。腰には使い込んだだんびら。拳は鉄のかたまりのようだ。おまけにこいつの頭はドラゴンの魂を使った最高級点火装置並みに火がつきやすい。
それに対して、イリヤムはごく普通の体格。武器はナイフが一本――人を刺すのではなく果物や魚の腹を切るために作られた代物。銃は飛行艇に置いたままだ。
銃さえあれば――何とか逃げることくらいはできるのに、イリヤムは後悔する。バーソロミュー・ゴードンの一撃を食らって、そのままぶっ倒れ、アイザックかハロルドかクウェンティンだか分からない弟たちに蹴りまわされる図がありありと目に浮かぶ。
ゴードンが一歩ずいと歩を進める。
イリヤムは一歩下がる。
ゴードンがさらにずずいと歩を進める。
イリヤムは下がったが、背がカウンターにぶつかった。
これ以上は下がれない。
そう思った瞬間、ゴードンの大きな手がイリヤムの胸倉をつかんだ。もう一方の手はきつく握られイリヤムの顔にめり込ませるべく高くかざされている。
イリヤムは半年前、三匹のワイバーンを相手に格闘戦をやったときのことを思い出した。下級とはいえ、竜の眷属である。あちこちから火の玉が飛んできて、播くのに二時間もかかったのは最悪の思い出だ。そして、現在の状況はそれに匹敵する。
拳が振り下ろされる瞬間、イリヤムは目をつむった。
…………。
何もない。痛みも、何も。
まさかゴードンのパンチで即死して天国にいるんじゃないだろうな?
天使に囲まれた白い鬚を生やしたじいさんが見えてきませんようにと祈りながら、瞼を開ける。
見えたのはカウンターに押しつけられ、苦悶の表情を張りつけたバーソロミュー・ゴードンの大きな顔。イリヤムの顔をへこませるはずだった右手は白くほっそりとしたステラの手に握られ、ロールパンのようにひねりあげられていた。
「いたたたたっ!」
「イリヤムに暴力をふるうことはわたしが許しません」
技は完全にきまっていた。下手に動けば、バーソロミュー・ゴードンの腕はポキンと折れてしまう。他の兄弟たちは助けに行くどころか兄弟最強の長兄がやられて、すっかりまごついている。
それでも一人が意を決したらしい。アイザックかハロルドかクウェンティンだか分からない弟の一人が手斧を構え、わああっと叫び声を上げながら、ステラに襲いかかった。ステラはバーソロミューをねじあげた状態で身を少し落とし、中段蹴りを見舞った。それを腹にもろに食らった弟は床の上を三回転して店の壁にぶつかった。
「もう二度とイリヤムに暴力をふるわないと約束しますか?」
ステラの問いに対して、バーソロミュー・ゴードンは、
「くそくらえだ、メスガキ!」
と叫んだ。
「うぎゃあ、いててててっ!」
反抗的言辞の代償として、腕がいよいよポキンといくであろう危険な角度を取り始めると、少し飲み込みがよくなったらしい。
「わかった! わかったから放してくれ!」
ステラは手を放した。
バーソロミュー・ゴードンは腕を押さえながらへたりこみ、子どものように泣きじゃくっている。弟たちはすっかり縮み上がり、白いハンカチを振って抵抗の意思がないことを示していた。
イリヤムは料理の代金を支払うと、ステラをつれ、急いで店を出た。
ないとは思うが万が一、ゴードン兄弟の闘志が再燃して復讐戦を挑んでくれば、半殺しはまぬがれない。
町の外に通じる並木道まで逃げると、もう大丈夫だろう。そう考え、足を止めた。
「すごいな。ステラ」
「わたしも自分でびっくりしてます。でも、このままだとイリヤムが傷つけられると思ったら、体が勝手に――」
「これも記憶を取り戻すヒントになるかもな。ま、もうここの町には用はないし、早く出るに越したことはなさそうだ。さ、行こうぜ」
道を急ぐ。
イリヤムは思い出したように立ち止まり、ステラに振り返って、
「助けてくれてありがとうな」
そう言って親指を突き立てて、腕をぐっと伸ばした。