37.
ステラは桟橋で目を覚ました。
機械油の宣伝塔によりかかり、イリヤムを待っているうちに眠ってしまったらしかった。
なかなか開かない瞼をこする。
目をつむっていても、温かい朝日を感じることはできる。
目を開けると、そこにはラグタイムが、艶やかな木材の翼で小さな桟橋をまたぐようにして浮いていた。
イリヤムは戻ってきたのだ。
だが、姿が見えない。
自分が寝ていたのを見たが、起こすことなくどこかに行ってしまった……。
それが途方もなく寂しい。
飛行場の建物に戻ると、相変わらず人はおらず、〈運航休止〉の看板がかかっている。レストランには朝食をとっている家族連れが一組いるだけで、イリヤムの姿はない。
カウンターには昨日の事務員よりも若い事務員が辞書を片手にクロスワード・パズルの本に書き込みをしていた。
「イリヤム? ああ、あの賞金稼ぎの坊主か。出ていったよ。ほんの三十分前かな」
ステラは艇港の門から外へ出ると、市電に乗るわけでもなく、ただ歩いた。
湖の岸辺には小さいが居心地のよい三階建てのホテルが並んでいる。小さな黒板がビア樽に立てかけられていて、その日にランチのメニューが書きつけられていた。
水平線の向こうには相変わらず小さな浮遊島が集まっている。むしろ、昨夜より増えていると言っていい。
「まず、砂糖と燃料。次はパンだ」
遊覧道路の小さなカフェにいる老人たちが話していた。
「配給はいつもこの順番だ」
「前にイビル・ティアマットが出たときはコーヒーまで配給制になった。何せ空輸が一切止まるから物不足がひどくなる。こんどのやつはどのくらいいる気なんだろう?」
「とっとと失せてくれるといいがな。配給制になると世の中窮屈だ。やれ、ヤミで買った砂糖だの、警官の抜き打ち調査だの。やりにくいったらない。まるで戦争だ」
戦争。
その言葉をきいた途端、ステラは幻を見た。
ほんの数秒だったが、目に焼きついた。
道路をくたびれた人々が並んでいるのだが、その列の一番前では薄いスープの配給をやっていた。ホテルはどれも鎧戸を閉じていて、ポスターが貼ってある。
『砂糖を節約して戦争に勝とう!』
『愛国戦債が戦闘機をつくる!』
空には何十隻という空中戦艦が浮いていた。遊覧道路には対空砲が設置されていて、木の箱に入った砲弾が積み上がっていた。
「ステラさん!」
呼びかけられて、我に帰る。
見上げると、白い馬にまたがった金髪の美男子が少し心配そうな顔をしていた。
「あなたは……サヴォイさん?」
「ああ、覚えていただいていたとは。感無量です。美しい人」
銀翼の騎士は鞍から降りると、どうぞ乗ってください、わたしは歩きます、と言って、手を差し出した。
「でも、わたし、これから帰らないといけないんです」
「セント・エクスペリー荘ですか? お送りしますよ」
「でも、サヴォイさん、どこか行く途中だったのでは?」
「いえ、朝の散歩をしていただけです。ぜひ送らせてください」
ステラはサヴォイの手を借りて、馬に乗った。サヴォイのように鞍にまたがろうとしたが、美しいレディはそれにふさわしい乗り方をすべきです、と言われ、両方の足を片方の側に出してベンチに座るようにして鞍に座った。
サヴォイは喜んで、手綱を取った。
「実はイリヤムを探しているんです」
ステラは言った。
「イリヤムを?」
「はい。昨日から会っていないんです」
「イリヤムのやつめ。ステラさんをほったらかしにして、いったいどこに――」
「たぶん、イビル・ティアマットを倒しに飛んだのだと思います」
イビル・ティアマット、ときくと、サヴォイはふと黙り込んだ。いつものイリヤムに対するぷりぷりした様子はなくなって、急に考え込んだように顎に指を添えた。
「あいつ、まだそんなことを――」
「あの!」
ステラは精いっぱいの一生懸命さで頼んだ。
「教えてください。イリヤムはどうしてイビル・ティアマットを倒そうとしたんですか?」
「賞金稼ぎですからね、イリヤムは」サヴォイは気まずそうな様子でつぶやいた。「高額の賞金首を狙うのは――普通のことです」
「じゃあ、どうしてイリヤムは一人で飛ぶんですか? 今は――」
言葉に詰まる。
だが、言わないわけにはいかなかった。
「今は相棒がいるのに――」
「……」
「教えてください。イリヤムとイビル・ティアマットのあいだに何があったのか」
サヴォイはとても悲しげな顔をしてステラを見上げた。そして、柔らかく表情を崩しながら、
「レディの頼みとあらば、断れませんね」
サヴォイは話した。
ジュエリス空軍史上最高のエースと呼ばれた飛行士、グレアム・ロメッツのことを。




